聖女召還。
地球に産まれて十六年。この橋の下に定住して早一週間。スーパーマーケットから拝借した段ボールで作った寝床から這い出し、全身に朝日を浴びようと伸びをしながら、おや、今日の日差しはいたく眩しいと目を瞑ったら――、
「成功だ!」
「成功したぞ!」
「聖女様がお出ましになられた!」
興奮状態がありありとわかる声音がわたしの耳に飛び込んできて、ぱっちりと目を開いた。するとそこは先程までいた河川敷ではなく、だだっ広い神殿の中央で。真っ白い官服を着た数人と、階級の高い薄灰色のローブを着た魔術師と、酷く暗い顔をした王太子に囲まれていた。
そんな誰しもが一目で高貴とわかる人間たちの中央に立つ、拾いもののジャージ姿――それも袖もズボンも肘、膝まで捲り上げている――で、両手首にこれまた拾いもののリストバンドを身に着けた、わたし。
「やはり正解だったのだ! あのお方の犠牲は――」
大官の声は音もなく王太子の強い視線に遮られた。
何故だかずっとこちらを見ない王太子は、大官の足元からずずずと視線をわたしの足元まで引きずってきて、目線を合わせないことが不自然に見えぬようにそのまま頭を下げると、
「お初にお目にかかります、異世界よりお越しのお客人。私はこの国の第一王子、ウェルズ・フォーグエルと申します」
この国、の、第一王子。
ウェルズ・フォーグエル。
「貴方様には、聖女様としてこの世界を救っていただきたく存じます」
どこまでも冷えた声で告げられた決定事項に、慌てふためいているのは周囲。いっそ滑稽なほど、聖女の機嫌を損ねてしまったらどうする、不愉快な思いをさせてしまったらどうする、と焦っているがもう遅い。すでにわたしはご立腹だ。そりゃもうこの世に産まれ落ちる前から今まで積もり積もった苛立ちを掻き集めた程度にはご立腹だった。そして、あまりにも。
「こ……ッ」
そう、あまりにも。
「聖女様?」
訝し気な、周囲。ようやく顔を上げた王太子。薄い紫が金に光るその瞳は、怪訝と驚愕に見開かれ、過ぎる失望。
「こ……このっ」
失望したいのはこちらのほうだ。
なにを、なんのために、どうして、なんで、そうだったのなら。
「くそっ、く……っ」
地団駄を踏み鳴らし、伸びていた爪で頬を引っ掻こうとした指を無理矢理握り込む。
けれど収まらぬ激情に、
「ちくしょう!」
とうとう頽れるようにして膝を着いた。
わたしの名前を聴くこともなく、決められたナマエでそれぞれ呼びながら駆け寄ってくる人間たちを己の持つ能力で撥ねつける。
何も変わらない。
わたしは、何も変わってはいない。
だからとてつもなく途方もなくどうしようもなく理解し難い、したくなかったことを、ありのままに、理解した。
お前たちが欲しかったのは、<召喚した>という事実なのだと。
聖女たり得た同世界の女ではなく、異世界で育った同じ魂の女なのだと。
愛する者を取り上げて、愛する者を当てがうために。掘った穴をまた埋める作業だとも知らず、己が害した女に、取り上げた愛を恭しく渡すためだけに。
――わたしは、殺されてしまったのだ。
地球ではない世界。つまり今しがたわたしが召喚された世界に、もともとわたしは存在した。この国――フォーゲル国の隣国ベラスタの第三王女、ミレラ・ヴェルアスタとして。
わたしは、側妃である母にその身を離宮に隠されて育った。もちろん王家の者として公式に名を連ねているけれど、公式行事などには決して姿を見せることはなかった。理由としては、<無能力>であったから。
表向きには病弱だから、なんて二重に隠された理由をつけていたというのに、「無能力だから」という理由の方が大きく広まってしまい、噂が広まれば広まるほどわたしを嘲る者は増える一方だった。とはいえ、外に出ることはほとんどなかったのだけれど。
さて、<無能力>とはどんな能力がないことを言うのかであるが、簡単簡潔完結肝胆至極わかりやすく言うと、<魔力>だ。一般的に高貴な人間ほど魔力が強く、平民ほど魔力が弱いとされている。どこの世界も自然とは似たような構成要素らしく、魔力は例の六つの属性に分かれていて、人はそれぞれ二属性ほどの力が使えるらしい。そして二属性どころか一属性すら使えない人間を、<無能力>と呼んだのだ。
つまり、第三王女に魔力は皆無である、と。高貴な人間ほど魔力が高いと言うのに王族でありながら皆無とは、隠されるのも当然であろう。そんな噂を、密やかに、けれど大胆に、ときにはわかりやすく、そして本人に聴こえるような大きな小声で誰しもが囁き、事実としたのである。
しかしそれは半分正解であり、半分不正解だった。
再度、簡単簡潔完結肝胆至極わかりやすく説明するのならば、わたしに魔力はあったからだ。
王族としても珍しいほど膨大な魔力を持っていたものの、しかし一属性しか扱えなかった。それこそが問題であった。わたしは、六属性のうちごく少数の人間しか扱えぬ光属性の持ち主であったのだ。
その何が悪い。一属性しか扱えないが珍しい光属性の持ち主だ。それも膨大な魔力持ち。いいじゃないか、プラスマイナスゼロじゃないか、と世界の理を知らない人間ならばそう言っただろう。けれど誰もそう言わなかった。世界の理を知らない者は、この世界に存在しないからである。異世界の人間であるからである。そしてその異世界の人間は総じて聖女と呼ばれるからである。膨大な魔力を持ち、珍しい光属性を持つ、この世界を闇から救う唯一の存在であるべき聖女と呼ばれるものだからである。
この国を救う聖女の存在を脅かし、揺るがす者と知れられれば、あらゆる場所からあらゆる意味で狙われてしまう。それを避けるために、母はわたしを無能力として己の住まう離宮の最奥に隠した。閉じ込めた。
ならばわたしが殺されたのは、能力がバレてしまったからか。答えはもちろん――否である。
ミレラ・ヴェルアスタの十六年間で、その秘密を知ったのは母、乳母、そしてウェルズ・フォーグエルのほぼ三人だ。
ウェルズ・フォーグエルは、わたしの婚約者だった。数えるほどしか会わなかったが、正直、ええ、そう、まあ、うん、一目惚れというやつで。しかも、なんと、驚け、そらきた、相手もわたしに一目惚れしてくれたのだ。それを知ったとき、「誠に!? 偽りなく? 偽りなく誠に!? 誠に偽りなく!?」と日本語に訳してもよくわからない驚き方をしたことはミレラ人生一番の不覚である。ウェルズもよく驚かず真面目な顔で頷いてくれたものだ。
勘違いしないでほしいのだが、わたしが普段通りに驚いたとしたならば、両手を口元に当てて「まあ、本当に?」である。王女様らしく、お淑やかである。決して、相手の両肩を掴んで揺さぶったりなどしない。
そして幼い恋は<秘密の共有>を蜜とする。秘せと命ぜられた機密を、逢瀬五回目ほどで共有し、婚約者であるとともにわたしとウェルズは共犯者となった。ウェルズにとってはとんだとばっちりだと、今では反省している。そのとき、色々と魔力を使ってしまったことも、とても後悔している。二度としないし、できもしない。
そうして出会って七年、想いが届いて四年。ウェルズの二十歳の誕生日に合わせ、とうとうわたしたちは結婚することになった。
そのためにわたしが国を発った彼の誕生日二日前の夜。
――星が、堕ちた。
魔物が蔓延り始めていたものの、なんとか人に影響を及ぼさぬ範囲で食い止められていた闇。その闇を浄化する役目を担った各国の聖地が限界に達したという証だった。
このときから、きっと世界は騒ぎ立てていただろう。フォーゲル国の者たちはすぐにでも聖女の召喚を、と慌ただしく準備に追われていたことだろう。そして、王都へ向かうわたしの存在に、頭を悩ませたに違いない。
この世界には、各国王太子は二十歳に至るまで誰とも婚姻してはならないという掟がある。この世界の王太子は漏れなく全員、聖女の婚約者候補であるからだ。有体に言えば、聖女をこの世界に留めておくための、駒である。
そしてその中から星が堕ちたその瞬間、二十歳により近い王太子が婚約者に内定し、その国が聖女の召喚の役目を担うのである。
ならば何故、フォーゲル国の王太子にはわたしという婚約者がいるのか。その答えは単純明快。王太子が婚約者候補から外れてしまったときのためだ。それはフォーゲル国に限ったことではない。
そしてもちろん、そういったことは聖女には知らされるわけもない。ゆえに、歴代聖女の中には王太子以外の者と結ばれたものもいたらしい。きっとその王太子はその後の婚活に苦労しただろう。どんまい。
本題に戻ろう。
星が堕ちたその瞬間からわたしの存在がフォーゲル国の悩みの種となったのは、そのときウェルズが世界各国王太子の中で一番二十歳に近かったからである。通常であれば「星が堕ちました、婚約解消です」で済むが、問題はすでにわたしがフォーゲル国内に入ってしまっていることだった。
どんな理由であれ、婚姻のために国にわたってきた相手をすぐに送り返すことは、王女ひいては国家への侮辱ととられかねず、今後の外交にも支障が出る可能性がある。世界と外交、天秤にかければもちろん世界に傾くことは当然だが、「世界のためにご理解ください」で済んだら戦争など起こらない。とくに、厄介払いができると喜んでいたベラスタ国にとっては、なおのこと。恥が恥を上塗りして帰ってくるようなものだ。
つまり、わたしには王都へ向かうしか選択肢がない。そのために人気のない街道を馬車で走っていると、突然車体が横転した。何事かと傾き倒れている馬車の窓から覗き見れば、数匹の野犬が見えた。それから瞬き一回のうちに、まるで初めから狙っていたかのように野犬は馬車の中に入り込み、恐怖で固まるわたしに噛みついたのだ。
何度も、何度も、繰り返し、回復魔法を使った。
食いちぎられる痛みに意識が飛びそうになろうと、死ぬわけにはいかないと何度も回復を繰り返した。
だって、わたしの命は、彼と繋がっているのだ。
痛みを分かち合う魔法で、わたしとウェルズは繋がっているのだ。
彼の痛みはわたしの痛み、わたしの痛みは彼の痛み。どちらかの肉体が寿命以外で活動を終えれば、もう片方も同じく動きを止める。幼いがゆえに、安易にかけることのできた魔法。きっと今、遠くの王城で彼もこの痛みを味わっているであろうことが心底心苦しかったけれど、生き残ることが先決だと全意識を怪我の回復に集中させ、誰かの助けがくるまで、もしくは運よくわたしの足が野犬を蹴り倒すまで、ひたすらこの拷問に耐えなければならなかった。
どれほど時間が経っただろう。不意に人の気配がして、馬車の扉の向こうに目を向けると、霞んだ視界の中、逆光のせいかやけに表情が見えにくい男がこちらを覗き込んでいた。
「驚いた、まだご存命でしたか」
その男は、
「その力、余計見逃すことはできませんね」
その男は、
「それではミレラ王女、お疲れ様でございました。世界のために、その身をどうぞお捧げください」
その男は、声に笑みを滲ませながら、満身創痍のわたしの身を強い炎で灼いた。
このとき、わたしができたことは、もはや抵抗ではなく、痛みを感じぬ魔法を自身にかけることだけだった。
――そして次に目を開けたら、異世界の段ボールハウスの中でした。
何故かお家のない人たちに育てられていたわたしは、色んな経験をしながら今日まで生きてきたのである。
魔力量も質も一切変わらないのに<聖女>がミレラであってはならなかったその理由が、異世界産まれではないからの一点だけだなどとあんまりではないか。
ちくしょう、と言いたくもなろう。
「あ、あの……聖女、様」
神殿の中央で床を殴りつけるわたしに恐る恐る近づいてきたのは、唯一撥ねつけられることのなかった王太子――ウェルズ。さすがに自分一人がぽつねんと立っている状態で、黙っていることは難しかったのだろう。その証拠に続く言葉はない。
それにしても、どうして彼は生きているのだろう。
わたしはそれが信じられなかった。
確かにあの魔法をかけたはずなのに、ミレラ・ヴェルアスタは炎に灼かれて消失したはずなのに、どうして彼はぴんぴんしているのか。
偽物では、という疑念が警戒心を抱かせた。
ので。
「せーのっ!」
パァンッ、と乾いた音を立てて鳴り響いたのはわたしの右頬。刹那、反射のように同じく右頬に手を当てがったウェルズは、信じられないとばかりに両目を見開いた。
「ミ……ル……?」
「あ、本物だ」
ミレラの愛称を口にしたウェルズが本人であると確信したわたしは、にっこり笑ってから今度は――己の左頬を力いっぱい引っぱたいた。
「い……っ!」
「た……っ!」
ぽろりぽろりと痛みで涙が溢れる瞳を互いに合わせる。触れ合うためにはまだ距離が遠い。
「ウェルズ」
「はい」
「わたしね」
「はい」
「この世界を絶対――」
「ええ」
「――救わないわ!」
わたしたちのようすを窺っていた周りが目を剥くなか、ウェルズだけはいつかと同じように真面目な顔で頷いていた。
~End~
「あ、でも私と結婚は」
「する」
「なら特に問題ありません」
御アクセスありがとうございました。
色々練ったもののあまり出せませんでしたが、とりあえず「ミレラは異世界で16年前に戻ってやり直したよ!」という設定でした。