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なにが幻想でなにが現実だったのか。
まだ今は、わからないこと。
傷は完全に癒えたわけではなく、恐怖は未だに残るけれど、現実に戻る。
故郷は温かく、そこにあるだけで力になってくれるようだ。
病んだ心が見せた幻想がほとんどだと思うけれど、確かに何らかの現象はあったのだと思う。
件の彼女が、あれからどんなふうに帰っていったのかは知らないけれど、三日ほどしてから、係長からまた電話があった。
誹謗中傷の犯人が名乗り出て、自主退社することになったこと。
事実無根の汚名だったことが分かったので、相本さんには申し訳ないことをした、ぜひ仕事に早く戻って欲しい。もちろん次期チーフのチャンスは用意してあるから……。
(辞めちゃったのか)
引っ越しの準備をしながら、わたしはぼんやりと思った。
小柄な、どんくさそうな女の子。
係長は電話口で彼女の名前を言わなかったし、ついにわたしはあの子の名前を知らないままになってしまった。
(せっかくの戦力なのに、こんなふうにならないようにと思ったんだけど)
荷物はほとんどない。
ただ、実家から持ち込んだ大量の古いぬいぐるみや人形に困った。
これらをあっちのアパートに持ち帰るわけにもいかないし、どうしたものか――あれ以来、古いおもちゃが意思を持って動いたり、喋ったりする気配は全く見られないのだった。
やはり、すべては狂ったわたしの頭が見せた幻覚、幻想だったということだろう。
(捨てる……しか、ないだろうな)
大事にしていたおもちゃたちを失うのは、やっぱり寂しかった。
でも、持ち帰るわけにもいかない以上、仕方がない。わたしはぬいぐるみたちをゴミ袋に纏め、実家の自室に戻すことに決めた。
だけど、最後に手に取った白くて丸いうさぎだけは、どうしてもゴミ袋に入れる気にはならなかったのである。
(しろ子ちゃん……かあ)
見ていると、今にも動き、またあの良い声でしゃべりだしそうな気がする。
絶対にそんなことはないと分かっているのに、うさぎを捨てるのは忍びなかった。
携帯電話が鳴った。ハレルヤではなく、Cメールの着音である。
見てみると、件の彼女からだった。
「わたしは辞めますが、あなたを嫌っているのはわたしだけじゃない」
(直接喋ることができないのかよ)
わたしは溜息をつくと、即座に電話をかけなおそうとした。だけど、その時点ですでにその番号は通じず、わたしは着信拒否されていたのだった。
自分の想いは言いたいけれど、わたしからの言葉が欲しかったわけじゃないのだ。
あの子は。
(あなたを嫌っているのはわたしだけじゃない……)
うさぎのしろ子ちゃんが、黒いフェルトの目で、無表情に見つめている。
携帯を閉じると、わたしは立ち上がった。ぬいぐるみたちを実家に戻さねばならない。
サンタクロースのようにゴミ袋をかつぎ、なんとはなしに、しろ子ちゃんまで小脇に抱えていた。
(嫌われても、好かれても、どうしようもないことは、どうしようもない……)
軽を運転し、実家に向かいながら、わたしは考えた。
これをメンタルが強いとは言わない。そもそも、メンタルが強い人なんて、本当にいるのだろうか。
全てを見てしまったら、知ってしまったら、誰だって感じやすくなるし、傷つきもするだろう。なにも見ようとせず、知ろうとしない人が強いとされ、幅をきかせているのかもしれない――わたしはそう思ったのだった。
相本まさみビッチ。
死ね。
わたしを憎んでいる人は、他にもいる。
あの会社で、待ち受けている……。
(どうにでもすればいい)
淡々と、わたしは運転をする。
まもなく実家に到着し、もうとっくの昔に犬小屋が撤去された玄関に向かう。
父は出かけている。
(どうにもならないのだから……)
生きにくい人種というものがあるのだとしたら、わたしはたぶん、その端くれだろう。
生きているだけで、あちこち色々とむしって食べられてゆくような。
大して美味しいからだでもないのに。
それでも、あちこち虫食いだらけになりながら、わたしは生きてゆく。
仕方ない。
ばさっとぬいぐるみの袋を二階の部屋に置いた。
この部屋にあるものは、年末に父がまとめて庭で燃やすのだという。
古いセーターや教科書と一緒に、くまやきりんは燃されてしまう。
……。
二階から降りてゆくと、台所から母が顔を出し、やきそばがあまっているから食べていってと言った。
そういえば、香ばしい匂いが漂っている。わたしは台所に入ると、遠慮なくフライパンの中身を皿に盛りつけた。
「あれっ、これどうしたの」
ふいに母が笑いを含んだ声をあげる。
うさぎのしろ子を抱えて持ってきてしまったわたしは、台所の椅子に乗せていたのだった。
母がしろ子を抱き上げたので、空いた椅子に座る。やきそばを口に詰め込みながら、そうだ、今が問いただすチャンスだと思い、わたしは聞いたのだった。
「そのうさぎさぁ、森に帰ったとか言ってたじゃない。捨てたんじゃなかったの」
母は懐かしそうにうさぎを抱いている。
「きったないねえ」と、うさぎにこびりついた染み等について言うものの、顔は笑っていた。
「あんたが、あんまりそのうさぎに執着していて、正直、おかあさんもおとうさんも不安になったんだよ」
と、母は言った。
まるでうさぎに命があるようにふるまうわたし。
うさぎと会話しているかのように喋り、外に出て遊ぶよりも、うちに籠ってうさぎと一緒にいることを選んでいたわたし……。
わたしが寝ている間にうさぎを取り上げて、分からない場所に隠して置いた。
頃合いを見て返そうとしているうちに忘れてしまい、年月がたってから、押し入れの奥深くに衣装ケースの後ろにはさまっているのを発見し、他のぬいぐるみと一緒に積み上げていたのだと。
「本気で森に、ぬいぐるみの世界があるかと信じていた」
わたしが言うと、母は、馬鹿だねえ、とつっけんどんに言い、うさぎをテーブルにぽいと置いた。
それどうするの、捨てるんだろうね、と言われたので、わたしはうさぎを自分の膝の上に乗せた。
母は呆れたようにやきそばを詰め込むわたしを眺め、好きにしたらと呟いたのだった。
うさぎが、他のみんなと一緒に暮らす、森の家。
そこにはうさぎだけじゃなく、バービーや、きりんや、ねこちゃんもいるだろう。
そして、きっと、幼いままのわたしもいて、チビのままの犬もいて、毎日、みんなで楽しく遊んで暮らしているのに違いないのだった。
色とりどりの花が咲いていて、こんもりとした緑の木には鮮やかな実が豊かに実っているだろう。
笑いながら。
一枚の綺麗な絵のような世界の中で。
(ずっと一緒だよ、ずっと遊ぼうよ)
(ずっと……ずっと……)
車の音がして、勢いよく玄関が開いた。父が戻ってきたのである。
寒い外の空気を身にまとい、どかどかと玄関にあがってきて、仕事について何か言って――支払いがどうのとか、物品がまだ入らないとか――母が、冷静な口調でひとつひとつ答えている。
久々に見る父は白髪が増え、頭頂部が見事につるっとしていた。
「おまえ、いつまでこっちにいるんだ」
と、何も知らない様子で言うので、わたしも淡々と、しあさってにはあっちに戻るよ、と答えた。
そうか、夕飯でも一度食べに来い、と、父は言い、わたしは頷いて立ち上がった。
出発の時、小路さんが見送りに来てくれたのには驚いた。
早朝の町の駅には客はいなくて、改札口もまだ閉まっているから、駅員さんの姿も見えなかった。
古い駅の中はうっすらと汚れていて、照明も薄暗い。
始発の汽車で帰るので、実家に寄らずに来たのだ。
荷物は来た時と同じスポーツバッグひとつだが、ここに逃げ帰った時にはなかった、妙なふくらみが加わっている。うさぎのしろ子が中に入っている。
ふわっと、時々寒い風が改札口から吹き込んできた。
ぼうっとベンチに座って時間を待っていると、背後から「おう、おはよう」と、声を掛けられたのだ。
小路さんは相変わらず無精ひげをはやし、もっさりとした黒いジャンパーを着こんでいた。
ほそい貧弱な長い足はよれよれのジーンズに包まれており、いかにもくたびれきった姿である。
「正月にでも戻って来たら、店を手伝ってよー」
と、小路さんは言い、ほい、これ、と言って、なにかをわたしに押し付けた。
この町名物の、あんまり美味しくない干菓子がナイロンの水玉模様の風呂敷に包まれている。
「職場にでも配りなよ。ながーい休暇だったんだろ」
かちかちとライターを鳴らして煙草をくわえた。
小路さんはベンチに座ろうとせず、寒そうに立ったまま、ちらちらと駅の時計を見上げている。
もしかしたら、これから出勤なのかもしれない。
「ありがとうございます。あの、迷惑をおかけしました」
わたしは頭をさげた。
小路さんは、へへへと笑った。人の好い笑い方だった。
「会社をやめて、店に残ってくれるんじゃないかと期待したけどね、だめだったか」
小路さんは言った。
「居づらくなってやめる場合、いつでも待ってるからなー」
ベルが鳴った。
始発電車が駅に入ろうとしている。改札が始まる。
駅員さんがだるそうに出てきて、改札口を開いた。
わたしは立ち上がると、もう一度頭を下げた。
小路さんは片手をあげると、ぶらぶらと駅を出て行った。やはり、これから出勤なのだろう。あまり長居はできないのだろうな。
遠ざかる痩せた背中を、わたしは名残惜しく思った。
故郷の中にある、さびれたコンビニの、だらしない店長。
だけどあのコンビニは、まるで夢の国のように良い場所だった。夜の店内から見た通りの風景や、小路さんと色々なことを喋ったたわいもない記憶は、故郷の要素に新しく加わっている。
犬は死んでいなくなったけれど、この町には小路さんと、小路さんのコンビニがある……。
改札をくぐる前に、自販機でコーヒーを買った。
ぴゅうと、震えあがるような風が通り抜けるホームで、温かなコーヒーを両手で温めて暖を取った。
がたたん、ごとととん――電車が近づいてくる。
わたしは、帰る、現実に。
もしかしたら逃げ帰ることがまたあるかもしれないし、まだわたしは完全に立ち直っているわけではないと思う。
だけど、帰る。
これからのことを思うと憂くなった。ちょっと思い出しただけで、気持ちがひよってくるほど、わたしは未だに弱っている。
電車が近づくにつれ、もわもわと恐怖が復活してきたけれど、その時わたしは、ふいに思い出したのだった。
(そうだ、しろ子ちゃんのあの声は)
子供の頃に見たアニメで、主人公の女の子を励まし、導いてくれた大人の男の人の声だ。
くじけて絶体絶命の時になると必ず現れて、励ましてくれた声……。
「君は行くんだよ、それでも行くんだ」
(わたしを嫌っている人がどれほどいるのか、わからない世界へ……)
電車が到着し、乗車口が開く。
乗るのをためらっていると、ふいに丸く柔らかな手が、ぽん、と、背中を押したような気がした。
そしてわたしは最初の一歩を踏み出し、電車の中に乗り込んだのである。
奇妙な中編でした。
この、なんとも言えないものを読んでいただけて、感謝いたします。
生きている以上、傷つけあったり、憎んだりは避けようのない事。
逆に、ものすごく愛したり、名残惜しいこともある。
絶対に分かり合えない事も、当然ある。
病んでも負けてもいい。
傷ついて不完全なままでも、最初の一歩さえ踏み出すことができれば、大丈夫、生きていける。
どこか壊れていても、狂っていても、大丈夫。そのまま行きな。
なにかあれば帰っておいで。待っているから。
そういう話でした。