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一騎打ちすら良しとしない。

それは敵とすら呼べないほどの者だった。

踏切の音がまがまがしく響き渡る。

 そのスーパーは、踏切を超えて少し行ったところにある。


 昔はその近辺は商店街としてそれなりに賑わっており、パーマ屋や肉屋、服屋などが連なっていた。だけど今は、シャッターが下りて居たり、閉店してどれだけたつのだろうと思われるほど荒れた建物が並ぶだけで、実質、営業している店はそのスーパーだけと言って良い程だった。

 (昔は営業していた)店が並ぶ狭い道は、アスファルトが割れており、かろうじて二車線の幅を持っていたが、雪などが降ったらたちまち一車線になってしまう。だらだらした坂道であるが、ここには融雪はない。しかし通学路だったため、凍結したごつごつした雪の上を転んだ記憶があった。


 今、夕暮れ時であり、血が溶けたような西日が斜めに差し込んで、通りは建物の影を濃く落としていた。

 空は真っ赤に焼けており、まもなく暗くなるだろう。気の早い街灯がぽつんぽつんとつきはじめている。


 食品店には忙しい時刻である。

 だけど、車はほとんど通らず、シルバーカーを押す人や、今にも車線にはみだしそうな勢いで自転車をこいでいるおじいしゃん位しか見当たらない。

 (これでも、人通りがあるほうなんだろう)

 たぶん、夏だろうが被りっぱなしなんだろうと思われる、茶の毛糸の手編み帽をかぶったばあちゃんを追い越しながら、わたしは思った。

 心臓はどきどきと早鐘のように鳴っている。

 結構な距離を歩いてきたから、というだけではなく、今、まさに今、こうして歩いている姿を、どこかから見られているかもしれないという緊張があった。


 パーマ・カット・着付け 蝶々夫人

 喫茶・軽食 ランラン

 肉の大友屋

 ……。


 古びた看板が影を落としている。

 もう、営業していない店。そのひとつひとつに見覚えがあったし、実際に行ったことのある店もある。


 パーマ屋は、今はもう亡き母方のばあちゃんの行きつけで、何度か一緒に連れていかれたことがあった。

 店主のおばちゃんは、たぶん、もうこの世の人ではない。店に立てなくなって、やむを得ず閉店したのだろう。

 ランランは、行ったことはなかったけれど、子供の頃からやっていて、ずっと昔からある店なのだろう。代がわりして続けていたのだけど、今はもう空き店舗になっている。

 ……。


 店と店の間の暗い路地から、人の気配がしないか横目で確認した。

 アパートを出て歩くこと10分。

 スーパーは目の前だ。さびれた道の中で、そこだけがライトアップされていて、よけいに寂しさが際立っている。


 ハレルヤが鳴る。立ち止まらずに電話を取った。非通知。

 「どこにいるの、前まで来たよ」

 と、わたしが言った。

 異様な状況にも拘わらず、物凄く乾いた気持である。相手が社内の人間であるらしいことで、すっかり仕事モードに切り替わっている。

 事務的に。自分のミスではないけれど、まわりまわって自分が処理をしなくてはならなくなった、心底面倒くさい始末書を出す感覚で。

 手直しですか、わかりました、ここを直して、いついつまでに速やかに再提出をし、チームのみんなにも行き届くようにしておきます。

 ……。


 「みかん」

 と、一言告げて、電話は切れる。その声は、聴きなれた野太い音声ではなくて、細い女性のものだ。

 (女の子だったのか)

 と、わたしは思い、一体誰なんだろうと一瞬、また堂々巡りの思考に陥りかける。わたしは同性の同僚から、ここまで憎まれるようなことをしていたのか。一体何を。改善できるだろうか。否、改善しなくてはならないのだ、今後、この女性と同僚として付き合い続けてゆかねばならないのだから――。


 自動ドアが開く。

 オレンジ色のカゴが積まれており、太ったおばちゃんが、特売になっているスナック菓子の前でどれにしようか悩んでいた。

 

 みかんのある場所はレジと台の右向こう。段ボール置き場と、クリーニング屋――今はそれも閉店して空きテナントになっている――を超えたところに、野菜売り場がある。

 メタルオレンジの携帯を握り直して向かう。店内には地元のおばちゃんや、おばあちゃん、あとは店員のおじちゃんしか見当たらない……。


 小松菜。大根。人参――果物売り場は奥だ。バナナと林檎が並んだ隅に、みかんがある。わけありだけど味は保証、これだけ入ってこの価格――鮮やかなみかんの袋が並んでいる様をぼんやりと眺める。

 誰もいないじゃないか。


 ふっと、袋の間に紙切れが挟んであるのが見えた。

 裏紙だ。ぎくりとする。印字された裏紙――うちの会社の議事録だ、社名が印字してある。


 おそるおそるつまみあげると、裏の白に、赤いマジックで「あんたのすべてが嫌い」と書きなぐってある。

 ハレルヤが鳴った。出る。


 「……お肉」

 と、小さい可愛らしい声で次の場所の指示が下る。

 「言いたいことがあれば、こういう形じゃなくて」と、言いかけたら、ぶつりと切れた。

 わたしは赤いマジックの文字を眺める。見覚えがある。この、右に垂れ下がったような弱弱しい文字のかたち。

 ああ、これは――。


 (相本さん、これ、取引先からの伝言です)

 (相本さん、ここの書類、すいませんが見てもらえますか。相本さんに指導を受けるように言われて……)


 小さい、かぼそい声で。

 あまり、仕事のできる子じゃない。

 ひっそりとしていて、何度か話したことがあって、ああそうだ、去年の忘年会では隣の席だった。


 けれど。

 (名前が思い出せない。顔もどんなんだったか)


 肉売り場に行く。

 賑やかな音楽がかかっている。

 タイムセール中。鶏ムネ肉お安くなっています……。


 シルバーカーのおばあちゃんを追い越す。

 豚肉と牛肉のコーナー。

 ひらっと、また、裏紙が見えた。発泡スチロールのパックの間に挟んである。取り上げる。


 「大嫌い。会社を辞めて。戻ってこないで」


 マジックの字を見ると、ますます確信した。あの子だろう、これは。だけどわたしは、あの子に何かした覚えなどないぞ。それにしても、名前すら思い出せない。

 (どうってことない子だから。この子に仕事を依頼することはまずないし、もしかしたら、仕事があまりできないということで、無意識に避けていたのかもしれない)


 ハレルヤが鳴る。

 「……チップスター」

 あのねえ、君、こんな手間なことをしている暇があれば、何でも喋ったらいいじゃない。話聞くから。こういうことさえしないって約束してくれれば、誰にも何も言わないから、とにかく顔を見せてよ……。


 電話が切れる前に、早口でまくしたてた。鶏肉をカゴに入れていたおばあちゃんが、驚いたようにこちらを見ている。


 「大っ嫌い。死んで」


 と、電話主はか細い声で言い、通話はぶつっと切れる。

 いいかげん、付き合いきれなくなってきた。溜息をつきながら菓子売り場に向かう。チップスターの安売りがある、なるほど。


 赤いチップスターの筒が並んでいる間に、また紙切れが見えた。

 「許さない。あんたがどれだけわたしを傷つけたか、一生わからない。あんたが生きているだけで気持ち悪い。会社に戻ってくるなら死んで」


 今度は比較的長いお手紙だったが、書きなぐりの勢いが増して、ものすごく読みにくかった。

 相当急いで書きなぐったのだろう。それはそうだ、わたしに発見される前に書いて、すぐに自分は身を隠しているわけだからな。

 (ご苦労なことだよ、まったく)


 ハレルヤが鳴った。

 出ようとして、あれっと思う。非通知じゃない。しっかりと番号が出ていた。

 「ヨーグルト」

 と、彼女はまた言ったけれど、覆いかぶせるようにしてわたしは言ってやった。

 「番号、非通知になってないんですけどー」


 

 ……。


 凄まじい絶叫があがった。

 わたしは受話器から耳を放した。狂ってる。わめきちらしていやがる。

 しらねーよ、自業自得じゃねーか。

 電話から耳を放したら、すぐそこの牛乳売り場のあたりから悲鳴が聞こえていた。生の声だ。奴はパニックを起こしている。人目をはばからず、喚き散らしている……。


 「ちょっと待ってなー、今行くから」

 面倒くさかったが、わたしは一応、なだめるように受話器に話しかけた。

 勘弁してくれよ。こういうミスをするようなトンチンカンだから、仕事上でも大したことないんだろ。


 大股で歩く。さすがに少し店は混んでいて、おばちゃん連中の太った体をよけて歩かねばならない。

 缶詰が積まれた狭い通路を、体を横にして通り抜ける。

 目指す牛乳売り場はすぐそこだが、鮮やかな茶のハーフコートがひらっと舞って、たたたと駆けてゆくのが見えた。


 (この期に及んで逃げるのかよ)


 何度も溜息が出る。面倒くさいんだよ、本当に勘弁してくれ。

 もういっそ、ネットで中傷しようが、変な電話をしてこようが、好きにさせておいてやろうかと思いかける。こんなもん相手にしている場合じゃないと思った。

 あやこの死でぼけた頭を横殴りにされ、次は狂った妄想のぬいぐるみごっこの魔法が解け、わたしは確実に現実の側に近づいている。足取りは確かになっていた。

 大丈夫、やれる。

 ぐっと奥歯を噛みしめる。仕事に戻らねばならない。なんでわたしは逃げてしまったのか。

 (やっぱり、相当おかしくなっていたんだろうな……)


 タイムセールタイムセール……。


 店内放送が耳に痛い。

 おばちゃんたちの間を通り抜け、特価のお菓子が段ボールに入ったまま売られている狭い道を歩く。

 小柄な細い背中が逃げてゆくのが見える。

 茶のハーフコート。ひとつ縛りにした黒い髪の毛。こげ茶色のショートブーツを履いている。

 

 (わたしが追跡する番なのね)


 自動ドアを出る。

 すでに外は暗い。ライトアップされた店の軒下で、わたしはさっきの電話番号にかけなおす。出ない。

 面倒だが、Cメールを送る。


 「大丈夫だから、話をしよう。どこにいるの」


 返答はなし。

 わたしは道に出る。スーパーから離れると、寂しい街灯の光が道を照らし、商店街はいまにも幽霊が出そうに見えた。

 人通りはほとんどない。

 


 辺りを見回しながら、わたしは歩いた。

 そんなに遠くまで行っているわけがない。

 

 かあん、かあん、かあん――踏切の音が聞こえてくる。

 ゴオオオオオ――汽車が通過した。

 

 もし彼女が汽車に乗ってこの町にきたとしたら、ここから歩いて15分くらいの場所に無人駅がある。

 今の時刻は通学や通勤の帰りの人が多く、電車の本数も多い。ぐずぐずしていたら逃げられてしまうだろう。

 (つまり、駅方向に行ったのか)


 見当がついたので、わたしは小走りになる。

 このまま取り逃がすつもりはなかった。どうしてわたしを嫌悪しているのか、それは確かに、わたしには永遠に分からない事だろう。彼女はわたしには分からない理由で深く傷つき、わたしを憎み、死ねばいいとさえ思った。

 はあはあと息があがったが、わたしは走り続けた。

 ぱあっとライトがさし、車が一台通り抜ける。


 (生きて欲しいと思ったり、死ねばいいと思ったり)

 ふいに、そう思った。

 勝手なものだ。人だから思いはそれぞれあるし、傷ついたり、憎んだり、愛したり、執着したりする。

 だけど、だからと言って、全てを思い通りにしようというのは、虫が良すぎでないんかい?


 「あやこ、安楽死なんてやだからね」

 フラッシュバックのように思い出される。

 ああそうだ、わたしは愛犬の死に直面したばかりだった――生々しい記憶がぐわっとクローズアップされる。

 「やだやだ、生きていて、ずっと生きていて、どんな姿でもいい、動けないままでもいいから」


 (冗談じゃねーよ)

 汚い言葉で、わたしは思った。

 一緒にされてたまるか。あやこに生きて欲しいと願った気持ちと、職場の気に入らない奴に死んでほしいと思う気持ちを、同じカテゴリに分けられてたまるものか……。


 商店街の出口まで来る。

 刈り入れられた後の田んぼがくろぐろと広がり、墨色の風景の中で、セイタカアワダチソウの群れがこんもり揺れた。遠くに山が連なり、灰色に浮き上がった雲の合間に一番星が光る。

 冷たい夜がそこまで来た。


 ハレルヤが鳴る。

 わたしは急いで出た。

 「踏切前の畦道を右に曲がって。踏切を渡らないで」

 指示だけだして、ぶつっと切れた。わたしと対話することを恐れている気すらする。


 わたしは言われた方角を見やった。

 人影はない。柿の木が黒い影になって浮き上がり、お化けのようだ。

 ごみを焼くための土管がでーんと置いてある。畦道の左手はちょっとした丘になっていて、そのすぐ下は線路だ。


 (決着をつけないとな)


 溜息をついた。怯えている相手を追い詰めるのは気がすすまないし、こんなことはまっぴらごめんだったけれど、今は相手の言う通りにするしかない。

 草が生えている畦道を歩いた。

 ばさばさと近くで音がして、クエクエクエ、と嫌な鳴き方をして鳥が飛んで行く。


 うっすら闇がかかった時間帯だ。

 遙か向こうの畦道では、犬の散歩をしているらしい人影も見えている。だけどひどく遠い。


 「ねえ、来たよ。出ておいでよ」

 わたしは呼びかけた。

 かさとも音がしない。線路がぎしぎし音を立てている。


 ぱあん、と、電車が音を鳴らす。右手から電車がこちらに向かってこようとしている。

 (鈍行なら、そこの駅で停まるなあ……)


 「明日仕事なんでしょ、ほら、ぐずぐずしないで電車に乗らないと」


 子供をなだめるように言ってみた。相手はどうせ、わたしがどういう気持ちでいるのか、何を求めているのか理解できまいと思った。

 ただ、仕事に支障が出ないよう、その子が気まずくなって辞めてゆくとか、わたしが仕事をしにくくなるとか、そういう事態をできるだけ避けようとしているだけだということすら、分からないだろうと思った。

 

 「なにかするわけ、ないでしょう。君なんかに」


 と、わたしは吐き捨ててやった。

 もう、どうにでもなれと思っている。うっちゃって、さっさと安アパートに戻ろう。こんな奴につきあっておれるか。


 アパートに戻ったら小路さんに電話をして、できるだけ早くバイトをやめたいことを伝える。

 それから、片づけられるものは片づけてしまおう。

 アパートの解約の手続きは明日以降になるけれど、たしか明日はごみの日だから、まとめられるものはまとめてしまうに越したことはない。


 憑き物がおちたように、わたしは現実に着地しようとしている。

 ばかばかしいと思う、これまで追い詰められて逃げていたことが、本当に阿呆らしくて仕方がない……。


 「言っても伝わるかわからないけれど、わたしは君のことを誰かに報告するとか、ましてや会社で君が居づらくしようとか考えていないからね。今後、同じようなことを君がしたとしても、全然かまわないし、気にもしない。無駄だから、そんなことに時間を使わないで欲しいな」


 子供をなだめるような、できるだけ優しい調子で言うと、わたしは踵を返した。

 さっさと帰りたかった。

 忘れかけていた感覚を取り戻したことで、色々な機能が蘇っている。まず、ひどく空腹だった。

 なにか食べよう……。


 ざくざくと草を踏み分けて歩くと、背後から電車が近づいてくる。

 オレンジ色の灯りを窓にうつした電車だ。

 暗くなってから見る電車は好きだった。ガラスの入れ物に、人が入っている。みんな、うちに帰るのだ。

 あるべき場所へ。あたたかなうちへ――。


 ごとん、ごとん、ごとん、ごとん。

 かあん、かあん、かあん、かあん――。


 思わず立ち止まった。

 昔、学生だった頃、何度も乗った電車だ。懐かしくて、微笑ましくて、見送りたいと思った。

 その時だった。



 「死んでよ」


 耳元で囁き声がきこえ、どんと背中を押された。

 わたしは茫然とし、振り向きながら横倒しに倒れた。

 ひきつった顔の彼女を、確かにわたしは見たことがあるし、笑いながら喋ったことすらある。

 名前は――。


 「あんたなんかに分からない。あんたはわたしを滓みたいにしか思っていないだろうし、どうせ名前すら憶えないままでしょう。あんたはわたしみたいなのを踏み台にして、どんどん上にのぼっていく」

 誰にも認められないわたしの想いを、あんたは一生、分からない。


 

 小さな丘だけど、急な斜面だ。

 転げ落ちたらそのまま線路に飛び込むだろう。

 スローモーションのようにわたしは倒れ、黒い風景が回るのを見た。

 彼女の吊り上がった眼は血走っていて、追い詰められた獣さながらである。

 パアン、と、電車の音が耳が割れるほど近くで聞こえ、一瞬、わたしはここで死ぬんだとはっきり思った。


 (危ないだろうが)


 だけどその時、あの、深煎りコーヒーのようないい声が脳裏に響き、白くて丸いなにかがしゅっと空気を切り裂いたのだった。

 わたしは落ちかけていた背中を何かに蹴り飛ばされ、前のめりになり、顔面から田んぼに転げた。

 

 「ぶっ」

 口の中に入った土から草やらを吐き出しながら起き上がると、彼女は目を見開いて座り込み、がたがたと全身を震わせていた。

 だけどわたしが気になったのは、そんなものではなかった。

 

 白くて丸い気配の正体はどこにも見当たらず、今まさに電車は通り抜けようとしている。

 だけど、線路に向かい、大きくゆるい弧を描き、なにかが飛び降りてゆくのが見えたのだった。


 小さな何か。棒状の――髪の毛が靡いている。


 はっとしてパーカーのポケットを探ると、ねじこんできたはずの、バービー人形が消えている。

 人形は、激しい動きのはずみでポケットから飛び出し、そのまま線路に落ちたのだ。


 「ああああ」


 わたしは叫びながら田んぼから這い上がって、飛んで行く人形に手を伸ばそうとした。

 人形は髪をなびかせ――落下した。


 (あなたの役に、ほら、立ったでしょ……)


 

 あの子が身代わりになったことで、わたしが助かったという運命の図式でも存在するのだろうか。

 どこまでが現実で、どこまでが幻想なのかもわからない。

 ゴオオオオ――電車は目の前を通過する。

 オレンジのあたたかな明るい窓が通り抜ける。

 笑いあう女子学生たち、疲れた顔のおとうさんたち。


 たたん、たたん――たたん、たたん。

 通過してしまった電車の音は次第に小さくなってゆき、踏切も鳴りやんだ。

 鈍行ではなかったらしい。そこの無人駅には止まらず、行ってしまった。



 「うええええん、なんでよお、うえええええん」

 名前すら思い出せない彼女はその場で泣き崩れていた。

 わたしはその前を通り過ぎ、草の上にお尻をついて、急な丘を下った。

 線路に。

 ……線路にいないか。




 「バービーちゃん」

 わたしは小さく呼んだ。

 声がかすれ、喉にぐっとなにかがこみ上げてくる。


 人形は――人形の残骸は――錆びたレールにべたんと貼りついていた。

 肌色のそれは最早、人の形ではなく、ひきちぎられ、こすりつけられて、そこから持ち帰ることすらできなかった。


 べっとりとレールに貼りついた残骸からは、人形の服の切れ端が風にそよいでいる。

 赤いチェックの、古いノースリーブ……。



 四肢が取れた、バービー人形。

 昔、彼女をプレゼントでもらって歓喜して、洋服やらこものやらをねだったり、自分で作ったりしたことが、ほんの一瞬のうちにばらばらと浮かんだ。

 まるで、裏返されていたカードを一気にひっくり返すように。



 「えええええーん、あああああーん……」


 背後で、身を切るように悲痛な、どうしようもなく惨めな、子供じみた泣き声が聞こえた。

 

誰かを好きだ、あるいは憎いと思う気持ちは既に執着だと思います。

プラスに現れれば好き、マイナスに現れれば憎悪。

背中合わせだと思うのです。

執着する相手に受け入れられるなら幸せですが、気にすら留められなかった場合、悲劇だと思います。

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