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犬が死に、いよいよ現実に戻ろうと考える。

しかし現実のほうでは、再び誹謗中傷が活動を始めていた。

ぬいぐるみに救いを求めるが、守りの時間は終わろうとしていた。

 目を開いたまま、あやこは亡くなっていて、バスタオルで体を覆われていた。

 玄関の中に横たえられていて、それまで生きてなきわめいていた姿とあまり変わらなくて、肩透かしを食ったような気がした。


 「綺麗なもんだね」


 呟きながらそっと触れてみたが、冷たかったし、やはりあやこは命を失っている。

 しいんとした家の中は奇妙に薄暗く、疲れた顔の母は床に座って犬とわたしを眺めていた。


 もうじきおとうさんが帰ってくるから、そうしたら、あやこをペット葬儀社に連れていくからね。

 母はそう言うと、片手で額を覆い、ふうっと深い息をついたのだった。


 台所からは昼のラジオ番組が流れていて、軽やかな洋楽が聞こえてくる。あやこは死んでしまったけれど、人はごはんを食べて風呂に入って休まねばならないから、日常の営みは続いていた。仄かに煮物の匂いが漂っている。


 「かぼちゃを煮たから、少し持っていきなさい」

 母はそう言った。

 少し充血は残っていたが、目は乾いている。

 わたしはあやこの目を閉じようと試みたが、どうにもうまくいかなかった。それで、ぴいんと立った耳をなでてやって、よく頑張ったな、もう終わったよと声をかけたのだった。


 「寝たきりになってから、一か月たつかね」

 死んだ犬の側でひざをついたまま、わたしは聞いた。

 母は指折り数えてから、いいや、そんなにたたないよと答えた。

 

 「点滴に通ったり、導尿したり、あやこにとっては酷いことが続いたし、大変だったけれど、あっさりと逝ったと思う」


 ふうと、母は何度目かの溜息をつくと、立ち上がった。

 タッパにかぼちゃを詰めに行くのだろう。

 犬とわたしが取り残され、わたしはもう一度、あやこの死に顔をつくづくと眺めたのである。

 あやこ。


 ……あやこ。


 逝ってしまった。

 ぼろぼろになった体は、元気だったころの姿とは別のもののようだ。

 豊かだった茶色い毛はぼさぼさと硬く乱れ、褥瘡になったところは毛などなく、かさぶたが生々しかった。

 かなしく強張った手足は今は力なく垂れ落ち、黒い肉球は、白く汚れている。

 目ヤニやよだれで汚れていた顔は、母が綺麗に拭いてやったのだろう、今は清潔だ。

 食べることが大好きだった口は半分開いたままで、桃色の舌が僅かに見えていた。


 やせ衰えた体で、あやこは生きてくれて、ようやくゴールインした。ごめんね、いてくれたんだね、辛かったねと心で語り掛けているうちに目頭が熱くなったので、振り切るように立ち上がった。

 母がかぼちゃを持ってきて、あんたもう帰りなと言った。

 極力父と会わせないように気遣ってくれている。この狭い町の中で未だにばれていないのが不思議なほどだったが、父はわたしの状況を知らない。

 仕事の都合で、一時的にここに在住しているという嘘八百の言い訳を簡単に信じ込んでしまっている。

 (そもそも、この田舎町に何の用事があって長期出張することがあろうか)

 取引先があるわけでもなし。よくもまあ、騙されてくれている。


 最後にあやこを撫でてから、母に、お疲れさまでしたと声をかけた。

 「疲れたよー、大変だったわ」

 母はそう言うと、ぐるっと首を回して見せた。あやこの死を悲しんでいるのだろうけれど、どことなくやり切った感があった。見送ってやった、やるべきことはしてやったという意地のようなものがあり、それが母を堂々とさせているのだろうと思う。


 あやこを安楽死させず、どんなに酷い状態になろうと最後まで面倒を見たのは、家族のエゴだった。

 あやこが好きで可愛いから、側にいてほしいから、注射一本で楽にさせてやることなどしなかった。

 ある意味、あやこに地獄を味わわせたのであるが、なんでもいい、そんな理屈やきれいごとからは全て目を背けて、最後まであやこの命に関わりたいという自分たちの意思を最優先した。意地を貫いたと言っても良い。


 「死なせてよ、もう勘弁してよ、苦しいよ」

 と、あやこは泣きわめいていたのかもしれないが、

 「だめだ、ここにいて、生きていて、まだ死なないで」

 と、引き留めた。

 

 誰かに生きていてほしいという思いは、ものすごく個人的なものであり、相手の迷惑を考えない。

 わたしたちは――父も母もわたしも――ちっぽけな、老衰している犬に、みんなしてすがっていたのだった。


 (でも、これであやこはあのぼろぼろの体から解放されたんだ)


 軽に乗って安アパートに戻りながら、わたしはぽろぽろと涙を落とした。

 泣くなんて思ってもみなかったことだから驚いた。

 もうあやこが存在しないこの世は、静かに晴れて、穏やかな日に照らされている。

 ……。



 いい加減に、現実に戻る時が近づいていた。

 これからあやこは葬儀社に連れていかれて焼かれるだろうし、わたしはバイト代を葬儀料のたしにするために、差し出す予定だ。

 そうしたらもう、これ以上バイトを続ける理由はないわけだし、残された時間は僅かだった。


 色々なことを考えながら軽を降り、二階の部屋に入る。

 まず小路さんに電話をして、辞める日の相談をしなくてはならないだろう。それから、直属の上司に電話をして、

 あとはこの部屋の解約等のことも、ぼちぼち考えてゆかねばならない。


 台所に入り、携帯を取り出したら点滅していた。メールを受信している。見てみると、じゅんこちゃんからだった。

 「ごめん!」と、件名にある。なんだろうと見てみたら、さあっと血が凍った。


 ネット掲示板に、再びわたしの中傷があったという。

 わたしが故郷に逃げ帰ったこと、そこでまた男を垂らしこんでいるらしいということを、いやらしい書き方で公開してあるらしい。

 (小路さんのことか)

 愕然としてわたしはメールを読んだ。


 「絶対に、これを書き込んだのはわたしではないけれど、本当にごめんなさい、モトっちにいい感じの人ができそうだってことは、彼氏に言ったの。それを会社の中で話したから、誰かの耳に入ったのだと思う。それしか考えられない……」


 本当にごめんなさい。

 すぐに警察に通報しようと思ったけれど、まずはモトっちに伝えなくちゃと思ったから。

 どうしたらいい。何でもするから。落ち着いたら連絡して……。


 ぱちんと携帯を閉じた。

 ごわごわと頭の中が鳴っており、全身がゆらゆら揺れていた。

 遠く、バリアの向こう側から、現実の悪意がこちらを凝視している。なにひとつ見逃さないぞとその眼は告げている。

 (こんなふうな感じで、新しい携帯電話の番号とかも伝わってしまったんだろうな)

 番号を変えてからも、気持ちの悪い電話がかかってきたけれど、多分それは、大場先輩が口を滑らすか、メモ書きを無防備に扱ったから。

 

 会社の中で、隠し事ができるわけがないんだ。

 いくら大場先輩やじゅんこが良い人で、心を許すことができたとしても、会社の中では障害になる。

 彼らの口そのものが邪魔になる――わたしは誰とも親しくつきあうことが許されないのだろう。


 ぐうっと息が詰まる。

 滅茶苦茶に苦しかった。凄まじい閉塞感に苛まれていた。

 気持ちが悪かった。誰にも何もいう事が出来ない、何か言ったらそれが命取りになる――ぐらっと倒れかけて、壁に手をついた。

 

 (とりあえず、どんなふうに書かれているのか自分の目で見ない事には、警察沙汰にすることすらできない)


 やたらに目がぐるぐる舞う。

 相当な衝撃を受けているらしい。自分で自分の状況を飲み込め切れていない――嫌だ、どうしてこんな――小路さんに迷惑がかかるのだけは避けたかった。まさか小路さんの名前や、コンビニの店長だとかいうことまでばれていないだろうなと、ぞうっとした。


 洋間の隅にカバーをかけられたまま、床に置き去りになっているノートパソコンを開いた。

 電源を入れ、件の掲示板を開き――あった、書き込みを見つけた。


 相本まさみ、田舎に逃げ帰って、そこで男と同棲してるらしいぜ。この短時間の間によくもまあ

 さすがビッチ

 休養中のはずなのに、そういうことはちゃっかりしてるんだね

 帰ってくんなー

 そろそろ帰ってくるらしいぜ、うげー

 やめればいいのに

 また××商事の相本まさみの件か。おまいらどんだけ相本まさみ嫌い

 個人的な怨恨は勘弁してくれー

 なに、相本まさみってそんなすげーのKWSK

 

 ……。


 「お、えっ」

 空の胃から苦いものが逆流してきた。

 ひたすら気分が悪く、おなかが重たい。もう十分だ。もう見ることはない。

 電源を切り、パソコンを閉じてしまうと、わたしは肩で息をしながら胃の痛みが収まるのを待った。

 背筋が凍るような恐怖を感じているが、同時に少しほっとしていた。小路さんの名前が出ていない。彼がなにものであるのかということも、書き込み主は知らないらしい。


 同棲、と書いてあった。

 そのことは、この悪意の主が、自分の目で物事を見ているわけではなく、聞いたことを自分の中で大きく膨らまして、そこに意地の悪い思いを加えて書き込んでいることを示していた。 


 ……。


 茫然と座り込みながら、なんとなく洋間を見回す。

 ぬいぐるみたちが山になっていて、無機質な目を見開いている。

 横たわるクマやキリン、転がるこけし。

 窓から差し込む午後の日差しを受け、逆光になり、黒い山になっている。

 

 「しろ子ちゃん」

 わたしは呼んだ。声が掠れていた。

 何かにすがりたかった。大事なぬいぐるみのうさぎのしろ子ちゃんなら、この事態について、何か言ってくれるに違いない。しろ子ちゃんは、ぬいぐるみの山から少し離れた場所で、お尻をついて座り込んでいる。

 「しろ子ちゃん」

 わたしは呼び掛けながら這いずり、ぬいぐるみに向けて手を伸ばした。

 

 しろ子ちゃんは無言でこちらを凝視しており、ぴくりとも動かない。

 わたしはやっとのことでしろ子ちゃんに手を伸ばすと、抱きかかえたのだった。

 うさぎとわたしは顔を見合わせる。わたしはうさぎの体を揺さぶった。


 「ねえ、しろ子ちゃん、何か言って。どうしたらいい。何か、何か言って……」


 長い耳が前後左右に乱れている。

 無言のうさぎに救いを求めながら、わたしは過呼吸を起こしかけていた。

 おかしい、何が起きている――酒を飲み、わけのわからない御託を並べていたうさぎは、肝心の今になって口をつぐみ、まるで普通のぬいぐるみのようにすましているのだった。


 凄まじい孤独に突き落とされる。

 わたしは息がつまり、今にも死ぬかと――いっそのこと死んでしまいたいと――思った。

 手の中のうさぎは無言であり、無表情であり、なんら反応はない。

 だけど口元のあたりは汚れていて、いくら押し洗いしても、しみこんだ汚れは取り切れないのだった。


 

 さあ、しろ子ちゃん、ごはんだよ、食べようね。

 これはおかず。ほら、食べさせてあげるよ。

 お味噌汁も飲もうね。

 ……。



 フラッシュが焚かれたように、思い出す光景がある。

 幼い日に。

 ままごとの延長で、お菓子やパンをうさぎの口元に持って行って食べさせる真似をした。

 しろ子ちゃんが咀嚼し、飲み込んだつもりになった。

 お友達と遊ぶでもなく、一人で家の中で、しろ子ちゃんがいるから孤独ではなかった。

 

 わたしは。



 ワイルドターキーも?

 おでんも?

 ワンカップも?

 ……わたしは、どこまで壊れていた?



 「しろ子ちゃん、わたしは一人だよ」

 声が震えた。

 涙が頬を伝って次々と落ちて行く。

 汽車が通り抜ける音と振動が部屋を抜けて行く。単なる布と綿の塊にすぎない、古い汚れたぬいぐるみ。

 わたしはうさぎを見つめながら、それでも話しかけていた。


 「返事してよ、何か言ってよ、あやこが死んだの、怖いところに戻りたくないの、一緒にいてほしいの」

 しろ子ちゃん、しろ子ちゃん……。



 かあん、かあん、かあん、かあん。

 踏切が鳴る。


 うさぎは無言であり、積まれたぬいぐるみたちは、もちろんぴくりとも動かない。

 夕暮れ時が近づいていた。

 差し込む日差しには色がつき始め、全てのものは長い影を伸ばし始めていた。


 

 最初から、うさぎはただのぬいぐるみだった。

 病んだわたしの妄想がうさぎに命を吹き込んでいた。

 今、わたしの側には誰もいないのである。頼ることのできる人はいない。何かを相談したり、ましてや泣き言を言ったりできる相手は、この世にはいないのだ。


 ……。



 (わたしは病んでいる)

 それが恐ろしかった。

 今の今まで、うさぎが生きていると思い込んでいた自分の心の状態にぞっとした。

 どこまで自分が壊れているのか。

 自分の感覚すら信じられない。

 

 (うさぎと一人ままごとをしていた……)


 


 ハレルヤが唐突に鳴った。

 わたしはうさぎを片手で抱きしめ、床に置いていた携帯を取り上げる。

 非通知。



 「……はい」


 何となく予感しながら、電話に出た。

 ひどく受話器から離れたところで、なにか喋っている。聞き取りにくい。

 何度か同じことを、奇妙にゆっくりと区切りながら、そいつは喋っていた。


 「……きている。すぐそこにきている。今からおまえを殺す。逃げても」


 む、だ。



 ゴオオオオオ。オオオ。オオオオオ……。

 かあん、かあん、かあん、かあん――。


 「どこにいるの」

 わたしは聞いた。

 「……に、いる」

 聞き取りにくかったけれど、そいつは、地元の人間なら誰でも良く知っている、古いスーパーの名前を出したのである。

 それはここから歩いて15分くらいの場所にあった。


 「なんでこんなことをするのか教えてほしい。ネットの書き込みもあなたでしょう。……に行けば会えるんだね」

 わたしが言うと、くっくっと、変な笑い声が遠くで聞こえた。


 「会社の人なんでしょう。話をしようよ。わたしはあなたに恨まれる覚えはない。あなたの嫌悪が解けるかわからないけれど、一度会って話をしよう。わたしは仕事をしなくてはならないもの」

 あなたが誰だか分かったところで、どうしようというつもりはないよ。仕事だから。

 ただ、もうやめてほしい。これから仕事をしてゆかなくちゃいけないんだから、こういうことはやめにしよう。

 ……。


 仕事。仕事。

 仕事上の関係はドライであり、支障になることは取り除いてゆくべきである。

 極めて冷静に、個人的な感情を挟むことなく、最も会社にとって有益な方法を選び――この人物が誰であれ、会社の一員であるならば、仕事上の戦力になっているのは間違いがない。ならば、この人物を会社から追い出して戦力を無駄に失うよりも、話をすることで悪感情を薄め、今後も付き合い続けてゆけるように勤めるのが最適な方法であるはずだ。もしかしたら話をすることで、打ち解け合うこともあるかもしれない――そうだ、この感覚だ。これが仕事の感覚だ。


 友人関係や恋人関係ではなく、極めて事務的に、感情で走るのではなくて、どうしたら良いのかをまず考えてから動く、仕事上の関係の、なんと歯切れの良いことよ。


 わたしは、この感覚で動いてきた。

 それは自分が無になる感覚に近いけれど、なにか心地よいものがある。楽なのだ。


 ……。



 誰だろう。誰なんだろう。

 受話器の向こう側の人は、無言で電話を切った。

 わたしは行かねばならないようだ。


 ジーンズとトレーナーの上に、着慣れたパーカーをかぶった。

 立ち上がりかけた足元に、コロコロとぶつかるものがある。

 四肢のもげた、バービー人形……。



 もちろん人形が自分の意思で転がってきたわけではないだろう。

 わたしが立ち上がった時、衣類に触れて動いただけだ。

 だけどわたしは、その子が強烈になにかを訴えている気がして――やはりわたしはまだ、病んでいるんだろう――壊れた人形を取り上げると、パーカーのポケットに突っ込んだのだった。


 赤い西日に照らされて、ぬいぐるみたちは歪な影を床に落とす。

 うさぎのしろ子ちゃんを床に置いた。黙ったままうさぎは床におすわりをし、彼もまた、赤く照らされて濃い影を伸ばすのだった。

 

 (携帯を持って行こう)

 いざとなれば、警察を呼ぶ。それくらいの知恵は、頭が狂ったわたしにだって、あった。

サンタ・サングレ聖なる血 という、ホラー映画があります。

凄まじく美しく残酷で強烈なのですが、あまりの孤独感にうちひしがれそうになります。

あの映画があまりにも強烈で、未だに影響を受け続けています。

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