6
「現実」から追手がかかる。
戻らねばならない時が迫る。
たわいもないことから、情報は悪意の主に伝わり利用されるものであり、その糸口が見える。
今はまだ、嵐の前の静けさ。
かあん、かあん、かあん、かあん……。
踏切の音を聞くと、どうしてだかわからないけれど、薄い恐怖が走る。
今わたしはとても敏感な状態だから、感じるのだと思う。今は、普段なら気にも留めないことを、怖いと感じる。
かあん、かあん、かあん、かあん……。
この安アパートからは離れているけれど、汽車が通る度に音が聞こえる。徒歩で20分くらいのところに小さな踏切があって、そこは細い二車線になっていた。あまりにも細い道路だし、よく近所のばあちゃんがシルバーカーを押していたりして、危ないからほとんど通ることがない。
この安アパートに住みつくようになってから、することがない晴れた日に、とぼとぼと散歩をすることがある。その時に、たまに、踏切の前を通る。
かあん、かあん、かあん。
さび付いたレールと、さびの赤茶色がこびりついた石。線路は果てしなく続いていて、道や畑や雑草や家々の時間を見送るように、汽車は走る。
通勤、通学の時間帯以外は、汽車は恐ろしい程すいていた。
踏切の前で立ち止まり、凄い勢いで通り過ぎてゆく車窓を眺めると、がらんとしてほとんど人影がないのだった。
(高校時代は、もっと栄えていたけれど)
漠然とした記憶を探りながら、ごうごうと走り抜ける汽車を見送る。
かあん、かあん――いつしか踏切は鳴りやみ、するするとバーが上がるのだ。
……。
静かに老いてゆく、町。
夜勤のアルバイトが明けたその日、わたしは昼過ぎまでだらだらと寝ていた。
晴れた秋の日差しが和室に差し込んでいて、窓は明るい四角の光を畳に落としていた。
ふとんで寝ていたけれど、ごうごうと汽車が走り抜ける音で目がさめた。ほどよい温もりの中でうとうとしていたら、ピンポンとチャイムが鳴った。
スエット姿で玄関に出ると、なんと、小路さんだった。
ぼさぼさの頭と寝起きの顔でぽかんとしていると、これ忘れてったよ、と、財布を渡してくれたのだった。
どうやら、レジの下の棚に差し込んだまま、忘れてしまったようだ。
夜間帯、おなかが空いた時は店のものを買って食べる。だから、お財布を側に置いているのだけど、こんなふうに忘れて帰ってくるなんて、わたしはやっぱり、どこか壊れているのだろうな。
携帯、財布の類は忘れたことがなかった。
自分の失態に驚愕しながら受け取り、寝起きの野太い声で、とりあえずお礼を言った。
「小路さんも夜勤だったのに、元気ですねー」
と言うと、無精ひげのおじさんは笑いながら、そうでもないけれど、見てよ、この空、と言って体をずらしたのだった。
玄関から真っ青な空が覗いている。
まぶしい、どこまでも繋がっている、秋の空だ。
さあっと風も舞い込んできて、わたしは思わず深呼吸をしてしまった。良い匂い、草や畑や、排気ガスの匂いも少し混じっていたけれど、懐かしい故郷の匂いが部屋に舞い込んできた……。
「外の空気を吸ってみようかな」
と、言うと、なぜか小路さんは嬉しそうにした。
スエットの上に野暮ったいパーカーを被り、サンダル履きで外に出た。
くわえ煙草で小路さんはだらだらと歩いている。
アパートの前の通りを過ぎると、さらさらと羊水が流れるあぜ道に出た。ここを左に曲がるとコンビニである。
「相本さんさあ、いつまでこっちにいるの」
光る用水の流れを綺麗だなと思っていると、のんびりとした声で小路さんが聞いてきた。
小路さんには、ごく簡単に、差支えない範囲で事情を話してある。心身の不調のために、長期休暇を取っているのだけど、社会復帰のリハビリみたいな感じでアルバイトをしたい――そんな感じの志望動機だったから。
「長くて2、3か月くらいが限度じゃない、その手の休暇って」
わたしは無言でうなずいた。
来月で期限が切れる。それまでに業務に復帰しなければ、退職も考えなくてはならない。
うちの会社は福利厚生が他よりもしっかりしている気がする。多分、他なら1か月か、もっと短い期間で復帰の見通しがたたなかったら、詰め腹を切らされるんだろうな。
心療内科の診断書には「1か月から2か月程度の静養」が必要だと書いてもらっている。
もうじき、その時間も過ぎようとしている……。
だけど小路さんは別に、わたしの背中を押して現実に戻そうとか、社会人としての姿勢を思い出させようとするとか、そんな様子は全くないのだった。ただ、自分にとって必要なことを聞いているだけなのだ。
一応バイトとして雇っているのだから、わたしが去った場合、また次の人を探さなくてはならないから。
ごく短期のアルバイトとして、わたしは働かせてもらっている。
ごくごく短期、いつまでとは確実には言えないけれど、遠くない未来に辞めることになる。そんな条件で雇ってもらった。
「もう少し、です」
わたしはそう答えておいた。
ううん、はっきりしないねえと小路さんは言ったが、声は笑っていた。
(もしかしたら、バイトが一人くらいいなくても、回そうと思えば回るんだろうな)
あの、さびれたコンビニは。
なんとなく立ち止まって用水の流れを眺めていると、見覚えのある茶色い車がやってきて、スピードを落として私たちの横にとまった。なんだろうとぼんやりしていると、モトっち、ちょっとモトっち、と、呼びかけられてぎょっとした。
じゅんこちゃんが、目を見開いて窓から見ている。
ぼさぼさ頭の寝間着姿でわたしは茫然と立ちすくんだ。女子力の高いじゅんこちゃんは、きちんと髪の毛を束ねて薄いメイクもしている。
無精ひげをはやし、これまた寝起きみたいな姿の小路さんは、ちょっと会釈をしてから、場を離れた。
「俺店に行くわ。バイト君に話があるしね」
じゃあね、また次のシフトでよろしくー。
やせた体で、がにまたで、ひょいひょいと歩いて遠ざかってゆく。
その姿を、妙に鋭い目でじゅんこちゃんは眺めた。
「アパート、すぐそこなんでしょ」
気のせいかとげのある声で、じゅんこちゃんは言った。
「ちょっと話そうよ」
今日は平日のはずだけど、仕事はどうしたんだろうと思ったら、今日は会社の創業記念日なのだった。
そんなことすらわたしは忘れているのだ。
さすがに、掃除もしておらず、家具すらまともにおいていないアパートに人をあげる気にはなれなかった。
国道に出て、マクドナルドに寄って、軽食を取りながら、久々にわたしたちは向き合ったのだった。
小路さんの煙草にまぎれて見過ごすところだったけれど、じゅんこちゃんのジャケットからは、ほのかに煙草の香りがしている。じゅんこちゃんは煙草を吸わないはずだ。
コーヒーを啜りながら、わたしはつくづくとじゅんこちゃんを眺めた。
綺麗な前髪、薄化粧をして綺麗な顔。
……。
「会社に戻ってきなよ。なにがあったのか知らないけれど、変な噂を聞いてさ。あんなバカバカしいこと、よくまあネットの掲示板に書けたものだと思う」
はっきりとじゅんこちゃんは言い、わたしは溜息をついた。その言葉だけで十分だ。
何者かがわたしを中傷していたことは、恐らく社内中に伝わっているのだろう。
変な電話や手紙のことは誰にも話していないから、そこまでじゅんこちゃんは知らないはずだ。
たぶん、知っているとしたら、根も葉もない誹謗中傷のせいで、次期チーフを下ろされたという事くらいだろう。
「ねえ、モトっち、一人で抱えてたんでしょ。そんなんだからウツになって、会社から逃げなくちゃいけなくなったんじゃないの」
だけどいい加減、もう戻ってこなくちゃ。モトっちの仕事、他の人が抱えていて、モトっちが積み重ねてきたことを、まるで自分の手柄みたいな顔をしているんだよ。どんどんモトっちのこと、忘れられて行くし。
早く戻ってきて、いくらでも話は聞くから、助けるから……。
微笑みが零れた。
じゅんこちゃんのジャケットに染みついた煙草の香りの見当がついたから。
そうか、なるほど、そうか――。
「じゅんこちゃん」
「なによー」
「大場先輩と一緒にいたの」
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をされた。
煙草の香りだけじゃない。何となく色々な細かいことが彼を彷彿とさせたから――車の中の小さなアクセサリーの中に、妙にメンズっぽいシルバーのものが混じっていたり、大場先輩が飲み会の二次会のカラオケでよく歌うアーチストのCDが積まれていたりしたから。
福山雅治なんて、じゅんこちゃんは聞かなかったはずでしょう。
……。
(大場先輩は色々な事情を知っているけれど、わたしの友達で、しかも彼女であるじゅんこちゃんになら、口を滑らすだろうなあ)
人当たりが良くて、誰にでも好かれる大場先輩のことが思い浮かんだ。
いつからじゅんこちゃんと付き合っているのか、それは知らない。
だけど、うっすらと、なんとなくだが、感じた。
大場先輩は見た目ほど、口の堅い人じゃない……。
(一人に喋ったら、他の誰かにも伝わっているものだ)
そもそも、じゅんこちゃんも、口は堅くないほうだ。ぺらぺらと、何の気もなく喋ってしまうだろう。
じっと見つめるわたしに狼狽えて、じゅんこちゃんは真っ赤になって、なぜか涙ぐんだのだった。
ごめんね、ごめんね、と言うので何のことかと思ったら、わたしが大場先輩に恋していると思っていたらしい。
「ばかだなー」
と、わたしは言ってやった。
「とにかく、早く帰ってきてね。逃げたりしないで。待ってるから、向こうで」
別れ際に、じゅんこちゃんは一生懸命に言った。
わたしは空元気を起こして笑ってやると、大場先輩によろしく、と言って手を振った。
安アパートの前まで送ってもらって、チョコレート色の車は名残惜しそうに、ぶうんと去っていった。
「現実」からの使者……。
なにもない部屋の中で、古いぬいぐるみに囲まれて過ごす。
床に尻をつき、ぼんやりと空気を吸って、自分までものになったような気分で、気が付けば時間が過ぎていた。
頭はぼんやりとしているし、体はどことなくだるい。奇妙に時間は歪んで伸びていて、いつまでもこの得体のしれないまほろばに居続けるのではないかとすら、わたしは思うのだった。
手足のないバービー人形を両手で抱いて眺め、まるで自分の姿のようだと思う。
目に見えない中傷者に立ち向かう術はない。四肢をもがれた状態で曝されているのと同じ。
(わたしは、耐えた……)
「死ね」と書かれた手紙や、気持ちの悪い出力紙がポスティングされていても、こんなことに構っている暇はないのだ、前進するのみだ、企画を通して、あの書類も完璧に、この仕事はあそこを直して、あの課の担当は頼りにならないから、自分でなんとかカバーして……なりふり構わず、必死に仕事にしがみついていた。
(耐えた……)
耐えている、という事実からも目をそむけて、まるでなんでもないことのように、自分で自分をだましていた。
やらねば。
一つのチャンスも無駄にできない。
やらねば、やらねば――。
(一生懸命に頑張っている姿が、ねたましく見えることもあるのよ)
小さい、優しい声がバービー人形から伝わったように思えた。
ころころと、うさぎのしろ子が丸い体を転がしてつま先の前まで来ると、横になったまま、フェルトの黒い目でじっとわたしを見つめた。
「ひとつ言っておくが」
と、しろ子ちゃんは、大人の男の声で言うのだった。
「おまえはこれを魔法だと信じているかもしれないが、実は魔法でもなんでもなく、おまえ自身が操作しているということを、いつか理解する時がくるだろう」
(あー、やっぱり、どっかで聞いたことがある声……)
霞んだような脳みそで、わたしは目の前のうさぎを眺めるのだった。
深みのある声。安心感のある声だ。
この、声は。
「自分で自分を癒しているだけだ、何も悪いことではない」
相変わらず意味不明のことを意味深に言う。
ふいにわたしは、聞いてみたくなった。
「ねー、しろ子ちゃんってさあ、中学校にあがる前に、捨てられたんじゃなかったっけ」
(森に帰ったなんて、そんなのイヤ)
(しろ子ちゃんを見つけるまで探すから。しろ子ちゃんとずっと一緒にいるんだから……)
(返して、しろ子ちゃんを返してよ……)
うさぎは途端に黙りこくって、憐れむように(単なる黒い目とバツ印の口の単純な顔のつくりなのだが)わたしを眺めるのだった。
折しもその時、携帯が鳴った。
ふっと取り上げると会社からだったから腰が抜けかける。恐る恐る出てみると、係長からだった。
「相本さん、非常に大変だろうし、気持ちも分かるのだが、そろそろ復帰の見通しはたったかね」
という内容の電話であり、わたしは口ごもりながら、だいぶ立ち直っています、もうじき戻れます、すいませんと繰り返したのだった。
「再来月から始まるプロジェクト、ほら、君が立ち上げた●●コーポレーションとの合同企画に、ぜひ参加してもらわなくてはと思っていてね」
復帰して業務に戻ったら、まずこの仕事を。
……。
「見通しがたったら連絡をしてほしい」
一方的に言うと、係長は電話を切った。
ぼんやりと、取り残された気分で、通話の切れた電話を眺めていた。
ゴオオオオオ――汽車が走り抜けてゆく――ゴオオオオオ……。
しろ子ちゃんの凝視をよけるようにして立ち上がり、手の中にバービーちゃんを転がしながら、台所に入った。
とりあえずインスタントのコーヒーでも飲もうと思った。
嫌でも現実に戻らねばならぬ。
いろいろな煩雑なこと――安アパートの解約だの、バイトを止めることだの――は後回しに。
だけど、わたしは本当に復帰するんだろうか。
戻れるんだろうか、あの、悪意が宿る場所に。
(死ね死ね死ね……許さない許さない……殺す殺す……逃げても無駄だ)
かあんかあんかあんかあん――遠くで踏切が鳴っている。
くるくるとインスタントコーヒーをかきまぜて、一口飲んだ。
苦い。熱い。頭を少しでもすっきりとさせて、明確な結論を出さねばならない。
そこにまた、電話が鳴った。
今日はやたらと昼間に電話が鳴るなあと思い乍ら出てみると、母が妙に強張った声で話しかけてきたのだった。
「今、電話いい」
と言うので、いいよと答えた。
わずかに重たい沈黙を溜めた後、母は言ったのである。
「あやこが死んだ」
葬儀社に持っていくから、見たかったら、今日中に顔を見においで。
……。
あやこが、死んだ――。
昔、和製バービーちゃんが大人気でした。
リカちゃん人形より一回り大きくて、お人形の年齢設定もたぶん、リカちゃんよりも上だったと思います。
いつしか、バービーちゃんではなくてジェニーちゃんという名前になっていました。
今ではバービー人形と言えば、あの、外国製の肌の浅黒いお人形を、みんな思い浮かべるのでしょうねー。




