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恐ろしい現実は、過去に護られた「わたし」に手を下すことができないまま、バリアの向こう側から目を光らせている。
今はまだ、せいぜいで悪意の電話。
だけどもう少ししたら、この夢は破られる。
人の目や口は、どうにもならないものだから、順調に成功を掴もうと思うならば、周囲との調和が必要なのだった。
いくら優れていても、いくら根性があっても、出過ぎた杭に価値はなく、垢がついてしまったものは、とたんに掌を返されるようにして、捨てられるのだ。
誰か一人が、あの人は……と口にし、もしうっすらとその他何人かが似たようなことを思っているか、全く別の不満を持っていて、そのはけ口を血眼になって探していたりした場合、瞬く間に毒は広まる。一人から始まった「あの人は……だ」という不穏な指さしは、いつか、過半数の意見となる。
そうして、悪夢が始まる。
必死に頑張ってきたこと、努力して手に入れた評価も、みんなに背を向けられてしまったら、途端に意味をなくすのだ。
なんて、むなしい。
……。
「相本さん、君がどう否定しても、こういったうわさが流れていることは事実だし、しかもこれはかなり広まっているじゃないか」
花田商事の相本まさみは、取引先の管理職に枕営業をしている。
……。
「社内はもちろんだが、インターネットにまで書き込まれていて、君、今まで気づかなかったのかね」
相本まさみは、社内の管理職にも、体を売っている。
……。
「知りませんでした。それに、全くの事実無根です」
花田商事の社員の俺が通りますよー。相本の件、それ事実らしいな。
仕事に命売って意地でも出世するらしいが、こんなことしたら駄目だろー。
花田商事の相本まさみビッチ
ブラウザに並ぶ文字列。胃の内容がこみ上げてくる。なんだこれ、嘘だ、現実とは思えない、誰がこんな。
夜中にかかってくる嫌がらせの電話と、おかしな手紙。
なんとなく引っかかる視線。
……誰だ。社内の人間であることは確かだ。だけど、誰なのか――相本さん、この書類見てもらえますかぁ、それでちょっと指導してもらいたいんですが……――わたしに恨みを持つような人はいるのだろうか、よくある女同士の無視やハブりに参加したことはない、そんな下らないことに関わっている時間はない――相本さん、名指しですよー、今、××会社の部長から問い合わせが来ているのだけど、営業事務の子じゃなくて、相本さんと話をしたいって――相本さん、昨日も午前様だったんですって、本当にお疲れ様です――流石相本さんです、それだけ頑張っているから、結果が出ているんですよね、尊敬します――耳に入るのは賛美の声。
近寄りがたいのだろう、わたしとたわいもない話をするような人はほとんどいない。それこそじゅんこちゃん位のものだ、人知れず苦労しているわたしの愚痴話を聞いてくれたり、賞賛の陰で涙をこらえながら、気力を振り絞って仕事をしていることを理解してくれたのは。
「みんなよく言うよね、モトっちの苦労も知らないでさ」
アパートの部屋で、たまに一緒にご飯を食べることがあった。お酒が少し入ると、じゅんこちゃんは言いたいことをずけずけと言う。
「すんごい苦労してるの、あたしは見て知ってるしぃ。簡単に凄い凄いって。あたしは、そんなふうに軽く褒めるような人、むかついちゃうなー」
……。
ああ、それともう一人。
大場先輩。
一人帰り二人帰り、やがてがらんとした夜中のオフィスで、よく二人きりになったものだ。
大場先輩もわたしも無言で自分の仕事に集中していた。喋るとしても、給湯室でコーヒーを飲んでいる間くらいのものだ。
距離感を保った、ごく冷静で事務的な話ではあったが、大場先輩とも個人的に喋っていた。
「相本さぁ、凄いよな」
煙草をふかしながら、痩せた体を壁によりかからせて、穏やかで、いつも微笑をたたえた話し方をする。
真夜中の仕事の際は、ネクタイの襟元をくつろげて鎖骨が少し見えていた。
学生時代はテニスプレイヤーで、いわゆる細マッチョ型。甘い顔立ち。女性受けは良い。
「こんなに頑張っていて、認められないわけがない。いつか必ず結果が出ると思う」
だから、このまま頑張れ。
……。
真夜中に、ハレルヤが鳴る。
職場という現実から遠く離れた、故郷の安アパートで。
ここは過去の国。ここにさえいれば、怖いものは近づけない。せいぜいで、ハレルヤを鳴らし、受話器の向こう側で届かない悪態を唱えるだけ。通話を切っては鳴らし、それを未明の3時まで繰り返すだけ。
着信105件。
明るくなって目にするその数字は、バリアの向こうから現実世界の悪意が、何度もこちらに手を伸ばそうとしていたことを示す。
「死ね死ね死ね死ね……」
念仏のように唱える、低い太い声で。
「許さない許さない許さない」
「殺す殺す殺す……」
蒲団から上半身を起こし、カーテン越しに朝の光を浴びながら、飲みすぎて痛い頭で、その数字を眺める。
こっちも寝たいから、やかましいハレルヤを無視して酒をかっくらって無理やり眠りにつくのであるが、そのぶん、二日酔いが辛い。ごんごんする頭をおさえながら、あーあ、とため息をつく。
ゴオオオオオオ――朝の汽車が裏の線路を走りすぎてゆく。
微かな振動がアパート全体に走り、二日酔いでやられている体には、それが結構辛いのだった。
行きつけの獣医で、あやこについて、選択肢が呈された。
安楽死か、このまま衰弱を待つか。
あやこの状態が良くなる見込みはなく、狂ったように吠え続けるのは認知症が酷くなっているせいらしい。
犬にとって、それまで散歩をし、排泄し、自分で食事していたことが全くできなくなるのは、想像を絶する苦痛と恐怖なのだろう。
体を横たえたまま、水分をとらせたり、食事をさせるのは、大変な困難を伴っていた。
どんどんあやこは痩せて行き、しかも、見るも無残な褥瘡が出来てしまったのだった。
「できる限り、体位交換をしていたのだけど、それでもこんな酷いことになるんだね」
疲れ切った顔で母は呟くように言った。
このところ、母は寝ていない。昼夜かまわず、ひっきりなしに吠え続けているあやこである。
話しかけて、体をさすってやると、落ち着く。側に誰もいなくなると、また鳴きはじめる。
……。
後足の付け根にできた褥瘡は生々しく、白い骨まで見えるまでになっていた。本人も痛むのだろう、横たえた時に、褥瘡部がどこかに触れると悲鳴を上げた。
昔、ぢの人のための円座クッションがあったものだが、それに似たような感じで、輪っかにしたタオルをあてがって対応するしかなかった。
酷い傷には虫が群がるようになってしまい、獣医で傷薬を求めたところ、安楽死の話が出たのだという。
「ここまで衰弱した場合、安楽死を選ぶ飼い主さんは本当に多いです。飼い主さんも、ワンちゃんも苦しいだけ。今の状態のほうが、どんなに辛いかと思います」
獣医はそう言ったという。
それに、犬は保険がきかないから、獣医に行くたびに結構なお金が飛ぶのだった。
「冗談じゃないよー」
だけど、安楽死の話をきいて、わたしは反射的に叫んでしまったのだった。
だめだ。あやこは生きている、どうして勝手に殺すことができる。
それにわたしは、あやこに一秒でも長く、そこにいて欲しいのだった。
(あやこ、あやこ……)
「おかーさん、あやこがお手とお代わりを間違えるんだよー」
温かな思い出の中で、あやこの存在はなくてはならないものだった。故郷にはあやこがいる。実家の母と電話ではなす時、ああ、この向こう側にあやこが寝そべっているんだろうなと思う。たまに吠える声が聞こえたりする。
……。
「あやこー、ちょっと、そっちに行くなって。あーもー、しょうがない駄犬だねー。ほらもう帰るからねー」
散歩で、制御不能に陥る場合があった。何か興味のあるものを見つけて、絶対にそこから動こうとしなかったり、他人の家の敷地に突入しようとしたり。
オレンジがかった明るい茶色の毛がふさふさと揺れていた。
だけど今、現実ではあやこの体はもう硬直が始まっており、まったく動かない四肢に恐怖と苦痛を覚えながら、あやこは昼夜、泣き叫んでいるのだった。
「やだからね」
わたしは吐き捨てるように言った。母は無言だったが、疲れ切ったその目は、それでもわたしと同じ意見らしく、意地のように光っていた。
お金がかかるだろう。
あやこがあとどれだけ生きるのか分からないが、長く生きてくれればそれだけ、獣医に通うお金がかかる。
そのうえ、いずれ死ぬのだが、その時にペット葬儀に出さねばならない。そのお金もいる。
「わたし、バイトするわー」
涙をためた目で吠えまくるあやこを眺め、わたしはぶすっと言った。
「そうだね、あやこは生きているから」
と、母は言い、ふうっとため息をついてから、暗い目でわたしを刺したのだった。
「だけどあんた、いい加減、ちゃんとしなくちゃいけないからね。わかっているだろうけれど」
仕事やら会社やら、向こうのアパートやら、これからの社会生活やら、現実をほったらかしにしたまま、こんなふうに人生が済むわけがないのだった。
宿題はやくやっちゃいなさいよ、テスト勉強はしたの。
そんな小言じみている。
分かってます、と、わたしは放り投げるように返事をし、その一方でコンビニによってアルバイトの無料情報誌を入手しなくては、と、相変わらず現実に背を向ける方向でものごとを考えていたのだった。
案外バイトは早く決まった。
安アパートから徒歩で3分の位置にある、さびれたコンビニのアルバイトである。
久々に「仕事」をするのが新鮮で、しかも教わることすべてが全く新しい事ばかりだったから、わたしは結構楽しんでいたのかもしれない。
シフトがよく一緒になり、色々と指導してくれる店長の小路さんは、5歳年上の男性である。
無精ひげを生やし、やせっぽっちで、ぼさぼさの頭をしているけれど、中身はしっかりした人のようだ。
奥さんと子供がいたけれど、二年前に離婚したという。脱サラしてコンビニ経営を始めたのだけど、まあ、なかなか厳しいねーと、笑いながら話してくれた。
お互いに、この町で生まれ育った者同士であり、共通の知り合いもいて、わたしには珍しく、すぐに打ち解けることができたのである。
夜のシフトでは、ほとんど客が来ない。
白く明るい光に照らされて、賑やかな音楽が流れ続けているけれど、店はどこか沈んでおり、わたしは眠い目でぼんやりとレジの内側に座る。
この店は暇だからねえ、だけど、バイトさんがいないと困るからねえ、と、小路さんは笑いながら言い、コーヒーをおごってくれるのだった。
明るい店の中から、真っ暗な夜の道を眺める。
たまに、すうっとライトが過り、日のささない深海を這うように泳ぐ魚のように車が通り過ぎるのだった。
1時、2時――アルバイトの間は、携帯電話はマナーモードにしている。たまに、件の電話が鳴っているらしい気配はしたけれど、どうってことないと思えた。
「相本さん、××中学の出身でしょ。部活なんだったのー。国語の大村先生は知ってる」
「卓球部でしたよ。大村先生は担任でした」
「懐かしいねー」
「本当に」
過去の話は尽きない。
そしてそこに、苦痛はない。
バイトをすることで、わたしはもしかしたら、ますます現実から逃げようとしていたのかもしれなかった。
夜勤のバイトがあけ、早朝にアパートに戻ると、洋間に無造作に積まれたぬいぐるみの山が崩れていた。
もう、朝の空気は冷たくて、明らかに冬が近づいている。
うす白い朝の光がカーテンの隙間から部屋に差し込んでいて、異様な光景を浮き上がらせていた。
手垢にまみれたクマや、色あせたキリン、お土産のこけしが、部屋のあちこちに散らばっている。
一瞬、誰かが侵入して部屋を荒らしたのかと思ったけれど、どうやらそうではない。
次第に強くなる朝日の中で、「こと」「かさ」と、小さな音をたて、ぬいぐるみや人形たちは、僅かに動いていた。
床に寝そべったまま、寝返りをしようとして、力及ばずできないような感じで、ゆらゆらと揺れているのだった。
(夜中じゅう、どんな乱痴気騒ぎを起こしていたものやら……)
夜があけると、魔法が解けるというわけだろうか。
酒瓶や、文庫本が散らばっている。
この連中はわたしがいない間、好き放題に部屋を動き回っていたらしかった。
「この連中は、今は起きないだろう。だからおまえも、寝るがいい」
うさぎのしろ子ちゃんの声がした。相変わらず、深煎りコーヒーのようないい声なのだった。
(この声……もっと昔に、どこかで聞いたような気がするのだけど)
聞いていると、何かを今にも思い出しそうになるのだった。だけど、まだいまいち頭がすっきりしない。
故郷の中で暮らしていると、たわいもないことはあれこれと思い出されるのだが、肝心のことがぼやけているのだ。
振り向くと、うさぎが台所の床でうんこ座りをしていた。
(こいつは他のぬいぐるみとは別格なんだろうな)
どうしてだろうとか、一体なんの怪奇現象だろうかという疑問が解明される余地はなさそうだ。
昔から大事にしていたぬいぐるみたちに命が吹き込まれている。
うんこ座りをしているうさぎから目を背けた。
もしかしたら、うんこ座りではなくて、体育すわりなのかもしれない。
少し、休もうと思った。
日中なら、おかしな電話もかかってくることがないし、ゆっくり眠れるだろう。
シャワーを浴びるために風呂場に向かおうとしたら、足元にころころと転がってきた小さなものがぶつかり、冷たくて固い感触を残したのだった。
四肢のないバービー人形が、床を転がっている。
……。
(まさみちゃん、まさみちゃん)
小さな囁き声が聞こえたような気がした。
拾い上げたバービー人形の、プリントされた茶色い瞳は、なにかに引っかかれてかすれた痕がある。
古い、古い人形――。
(もっていて、あたしを、もっていて……)
「夢の終わりは近い」
しろ子ちゃんの声が追ってきた。
(どこで聞いた、声だろう……)
中型犬、大型犬は重いので、完全な寝たきりになった場合、介護負担が洒落になりません。
もちろん小型犬の場合でも、色々な世話が必要になり、犬の最期を看取るのは本当に辛いものです。
賛美両論あるでしょうけれど、飼い主さんが悩んだ結果、安楽死を選ぶことは、決して悪いことではないと、わたしは思います。
夜の(暇な)アルバイトは、若干の罪悪感が伴いますが、わりと好きです。
夜は、気分転換を兼ねて稼ぐのに良い時間なのかもしれません。
ちなみに介護施設の夜勤ならば、穏やかな夜であれば、日勤よりも遙かに気が楽です。
体力は使いますが。




