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ここは、過去のまほろば。
温かな思い出に護られた世界。
だけど現実は容赦なく手を伸ばし、追いかけてくる。
故郷に力づけられて元気を取り戻すにつれて、現実にかえる時が近づいてくる。
生まれ育った場所で過ごしていると、たとえそれが当てのない生活だったとしても、じわじわと心が元気になってくるようだ。
スーパーで売られている食べ物は、どこか懐かしい感じがした。
見覚えのある店が今はもう潰れていて、看板が錆びていたりするのを物寂しく眺めたりしたけれど、それすら心の滋養になる気がした。
不思議だった。
何もしていない、仕事はほったらかしているし、全てを投げ出して、後先のことなど考えずにここまで逃げて来たというのに、時々ものすごい悪夢を見たり、嫌らしい迷惑電話が来たりするというのに――しかも、親も愛犬も、懐かしいこの町そのものも、老いて黄昏れてゆこうとしているというのに――それでもわたしは、毎朝起きる度に、どこか気持ちが軽くなっているのを知るのだった。
なぜだろう、何がわたしを元気にしているのだろうと思う。
今まで追い詰められて、いかに何も見ていなかったのか、分かるまでになってきた。
一日の間でもかわりゆく空の様子とか、鳥の種類。
田んぼのサギにも幾種類かあること。
猫の縄張り争い。過疎化が進む駅前の商店街のこと。
上質の化粧水が肌に浸透してゆくのに似ている。浸みこむように、故郷の小さな物事はわたしの中に入り込み、枯れた感覚を潤していったのだった。
この地域特有の、どこか陰鬱な秋の曇り空だったり、冬が少しずつ近づいてくるつんとした空気が、わたしを生き返らせたのかもしれない。
日差しが明るい事、今日も晴れて蒲団が干せること、スーパーで魚が安かったことを喜ぶ気持ちが再び戻ってきた。
レジのおばちゃんと顔見知りになり、冗談を言われて笑ったりもした。
現実から全速力で逃げて、最果ての地にまで逃げのびたような、そんなわたしだけれど、少しずつ戻り始めている。
だけどそれは、恐怖を直視したり、困難な現実に取り組む段階が近づいてきたことを示していたのだった。
人生様に無理やり申請して入手した、一時の休暇。
それは決して永遠のものではなく、もうじき終わろうとしているらしい。
……。
24時間スーパーで、早朝買ってきた赤魚を煮ていると、電話が鳴った。
この時間の電話は母からの電話に間違いがないので、安心してとる。やはり母だった。
あやこが今朝、散歩中に突然横倒れして体全体が硬直したようになり、まったく立てなくなった。
それと、うちのほうに森田さんから連絡するようにって電話がはいったんだけど……。
通話が切れてからも、わたしは茫然と立ち尽くしていた。
ふつふつと、アルミホイルの落し蓋をした赤魚を前にして。
犬については、ついにこの時がきたかという思いだった。
それと、森田さん――じゅんこちゃん――は、少し嬉しかった。
じゅんこちゃんはオフィスの同僚の一人で、この町の出身者だ。学校も同じだったけれど、学生時代はたいして関りがなかった。
同じ職場になったことで、何となく気持ちが近づいて、色々なことを話し合う友達のような仲になっていた。
社会に出てから、友人と呼べる人が本当にいなかった。
口をつぐんで、ひたすら現実の中で戦うような毎日だったけれど、じゅんこちゃんが後からオフィスに入ってきてくれて――じゅんこちゃんは中途入社だった――生活に彩りができたのだ。
わたしはじゅんこちゃんにまで黙って、会社から逃げてきたのである。
そのじゅんこちゃんの方から連絡が来た。……正直、しみじみと嬉しかったのである。
ガスコンロの火を止めた。
フライパンで煮ていた魚は、まだふつふつと浮いていた。じゅうぶんに煮えていると思うから、あとは晩まで味をしみこませておけばいい。
あやこの様子を見に実家に向かおうと思ったけれど、その前にじゅんこちゃんに連絡をしなくてはね。
わたしは人恋しくなっていたのだと思う。
故郷に逃げ込んでひっそりと暮らしている、こんな過去の中に身を潜めているような時間は、この上なく楽ではあったけれど、そのかわりに孤独だった。
(会社の事も気になるし……)
それを思うと、とたんに絶望的な程、気分が重たくなったけれど、それでもわたしは、じゅんこちゃんの声が聴きたいと思った。わたしを心配してくれる人が「現実」の世界にもいるんだと知りたかったのだ。
身支度をしながら、じゅんこちゃんの携帯に電話をした。
この昼間に、と思ったけれど、今日は国民の祝日なのだった。今の生活は、カレンダーなどあってないようなものだ。時々、何曜日なのかすら忘れることがあった。
じゅんこちゃんはすぐに出てくれた。知らない番号からの電話だったのに。
「あー、モトっち、どうしてるの、やっぱりそっちにいるの今」
死ぬほど懐かしい声が、素っ頓狂に跳ねあがっている。
「いきなり消えちゃってさ、でもアパートはそのまんまだし、事件かって騒ぎになりかけたけれど、モトっち、大場先輩を通して有給こっそりとってたんだって」
大場先輩。わたしが尊敬し、かつ、きわめて事務的に物事を伝えることができる稀有な人。
まだ奥さんはいないし若いのに、どっしりと安定した感じがあり、仕事もよくできた。企画部と連携して仕事をすることが多い企画営業部に所属していて、上層部ともよく通じている。
わたしは大場先輩に、きわめて事務的に淡々と、神経が参っているので長期休暇を申請したい旨を相談したのである。なんとか周囲に内密に、誰にも事情を知られずに休むことはできないだろうか、復帰後の事はこの際、考慮しなくてもいいから。
アドバイスに従って、わたしは心療内科で診断書をもらい、大場先輩の導きで、極秘で休暇を取ることに成功していたのだった。極めて切迫した心身状態だから、という理由で、引き継ぎもなにもなく、本当に全てを放り出すようにして突然休みに入ったのである。
大場先輩と上層部以外は、みんな、わたしが唐突に姿を消し、欠勤を続けているものだと信じているはずだった。
実は、新しい携帯番号も、大場先輩にだけは教えてある。
これは、大場先輩との約束だったからだ。
こういうかたちで有給を取るために協力するかわりに、音信不通になられるのは困るから、連絡先が決まったら、教えてほしいと。
それで、大場先輩には教えたのだけど。
(大場先輩の口から社内に漏れ伝わることだけは絶対にないはず)
「大場先輩に教えてもらったの。わたし、モトっちと仲良かったから」
で、どうするの、こっちはみんな、びっくりしてるよ。ううん、仕事に穴あけられたことについては何とかなったから大丈夫だけど、さすがに怒ってる人もいて、酷い事言ってる人もいるし……。
ねえモトっち、どうするの。戻ってくるの。一回そっち行くから、顔見て話そうよ。
……。
なんとなくごまかしながら、なあなあにして話を流し、それでもしっかりと、じゅんこちゃんはわたしの新しいメアドと住所をゲットしてしまった。
通話が終わり、車の鍵をちゃらちゃらさせながら部屋を出る。
さあっと涼しい風が向かってきて、前髪が吹き飛ばされた。
アパートの二回からは、通りを挟んだ向かい側の空き地が見渡せる。
セイタカアワダチソウがこんもりと育っていて、その間に白くなったすすきが揺れていた。気持ち悪いくらい大きなちょうちょがふらふら飛んでいて、空は淡く晴れている。
日は傾こうとしていた。秋の午後の進行は早い。
(現実に追いつかれちゃったなあ)
なんとなく溜息が出た。今はあやこの様子を見に行かないと。
まだ、現実に戻る準備が、整っていない。
……。
犬は痩せた体をタオルの上に横たえ、パニックを起こしたように吠え続けていた。
動きたいのに動けない。起き上がろうにも、もうその四本の足はあやこの意思通りに機能しない。
あやこは玄関の犬小屋ではなく、玄関の中に入れられていた。段ボールの上にタオルを敷き、体の上には毛布が掛けられていた。
白内障の目を大きく開き、涙のようなものが沸いているのを見た時、わたしはすとんと足元の何かが崩れた様に思った。
朽ちかけた、まほろば。
温かい楽しい思い出の世界の一部が崩れた。
散歩をせがんでやかましく吠えたてたあやこ、立ち上がっておやつを欲しがったあやこ。
台所の扉が開いて、テレビ番組の音が漏れて来た。
母が顔を覗かせて、わたしとあやこをじっと眺めた。
「仕方がない、トシだから」
と、きっぱりと母は言い、それはまるで自分自身に言い聞かせているようである。手に、輪っかにしたタオルを持っていたので、それをどうするのか聞いたら、「寝たきりの犬は褥瘡を作りやすいから、褥瘡除けに作ってみた」のだという。
「一日に何回か、体の向きを変えてやるんだよ」
もうね、自分で全然動けないから、抱えて、よいしょってやるの。
愕然としていると、母は溜息をついた。もしかしたら、早くも(犬の)介護疲れかもしれない。
「便もね、出てない。たぶん自力では無理だね。おしっこも朝から全然出てないから、おしっこが出るツボを調べて、さっき押してやったら、じょわじょわ出た」
「そんなに悪いんだ」
わたしは言った。
狂ったようにえんえんと吠え続けているあやこを尻目に、とりあえずうちにあがった。
「森田さんには連絡したんだろうね」
二階にあがろうとしたわたしの背中に向かい、母が突き刺すように言った。
「さっきしたよ」
と答えると、母は重たい沈黙を残し、居間に戻っていった。扉ごしに、こもったような声で、天ぷら作ったから少し持っていきなさいね、と怒鳴ってきた。
天ぷら。
……たぶん、サツマイモの天ぷら。
安アパートに戻ったのは、夕暮れ時だった。
そろそろ父が帰るから早く行きな、と、追い立てられるようにして戻ったのである。
西日が強烈だった。
ぐわっとフロントガラスから目に飛び込むような赤。
まだ住人は誰も帰ってきていない。駐車場にはわたしの車しかなかった。
何冊かの本と、天ぷらの入ったタッパを抱えて二階の部屋に戻る。
部屋は、レースのカーテンを透かして入った西日に染め上げられており、すべてが長い影を落としていたのだった。
がらんとした洋間には、ぬいぐるみやらこけしやら、ずらっと床に並べられている。
この間、実家から持ち出した古い玩具たちだ。
無機質な硝子やボタン、フェルトの目を見開き、身動き一つしないまま、西日を浴びて塊になっている。
それはまるで、過去の残骸のように見える。想い出の型。だけど、流し込むものはなくて、器だけが残っている。
そんな感じだ。
件の不審なうさぎのぬいぐるみはどこだろうかと思ったら、ぬいぐるみの山の向こう側にガラス窓に向けて座っており、全身で西日を浴びていたのである。
無言でいるから、わたしも特に喋らなかった。
それより、ぬいぐるみの山の中に、なんとなく気になる一体を見つけて取り上げたのである。
バービー人形。
胴体に首、頭、四肢がはめこまれた造りになっていて、長い時間を経て、どんなふうにもみくちゃに扱われて来たのだろうか、もうそこには、四肢がなかった。
それでも、ノースリーブのワンピースを着た姿で、白いパンツをはいた姿で、長くてさらさらの茶色い髪をつけた顔を、首の上に乗せている。
茶色い目の和製バービー。
(今は、ジェニーちゃんっていうんだっけか……)
無残な姿になったバービー。
だけど、確かにこの子は何かを語り掛けていた。持っていて、役に立つから、と。
「分かっていると思うが、おまえが今いる場所は、じきに終わる」
バービーの頬についた黒ずみを指でぬぐおうとしていると、そんな台詞が降ってきた。
「見たくないものを見るための、体力気力を充電させておくことだ」
見たくないものを、見るための。
文庫本とタッパを床に置き、手足のない人形をそっと抱きしめる。
バービーちゃん。この子にも、たくさんの温かい記憶が詰まっている……。
(大事な子、手足なんかなくたって、どんな姿だろうと、捨てる事なんかできるわけがない)
「ま、たいていは、準備ができないうちに、物事は起きてしまうものだ」
しろ子ちゃんが、男前の声で言った。
まん丸い体は西日を浴びて、歪に長い影を床に落としている。
犬も、寝たきりになると、体位交換が必要です。
驚くほどすぐに褥瘡はできるものです。
排尿ができない状態の場合、尿を出すためのツボがあるので、試してみてください。
ネットで検索すると出てきますよ。
以上、愛犬が突然寝たきりになった時の参考のために。