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悪意の執着者を夢に見る。恐らくは同僚の誰かの妬み。
実家では犬が老衰に瀕している。
捨てられようとするぬいぐるみたちを持ち帰る道すがら、奇妙なことを思い出すのだった。
「相本さんはさ、すごく頑張ってるし、企画力も最近ぐんと伸びたよね。だけどさ、色んな話をきくにつけ、君にはまだ時期尚早じゃないかって結論にいたったんだよ」
……課長、部長ら、上の人たちの話し合いの中で。
煙草の煙がゆっくりと渦を巻いている。
パーテーションで仕切った事務所の一角は、応接間を兼ねているのだけど、こんなふうに社員と個別の話をする際にも使われる。
だけどパーテーションだから、会話は筒抜けなんだ。今も多分、「奴」は聞いている。
ガラスの灰皿に、ぱたぱたと灰を落とす。
ものすごく面倒くさい、迷惑なことを話すようにして。
「……来月の人事異動に伴い、相本さんをチーフにするという話は白紙に戻りました。君は今までと変わらず、企画部で頑張ってほしい」
以上。
……。
すごく頑張ってるし、企画力も伸びた。
(そうだよ頑張ってきた。絶対に頭角を現わそうと思った。この会社の何かになろうと)
ぐっと拳を握りしめる。グレーのパンツスーツの膝で。
係長は立ち上がると、さっさと出て行ってしまう。ぱたんと扉が開いた時、冷たい視線を感じて顔を上げた。
……扉はすぐに閉じてしまったが、確かにわたしは感じた。突き刺さる何かを。
嫌な、感じ。
じっとわたしを「監視」しているような。
ひとつひとつの挙動を見ては、何らかの冷たい感想を抱き、それが黒い埃のようにどんどん積み上がってゆく気配――前から感じていた、なにか怖い気がしたけれど、気のせいだ、神経が張っているんだと思っていた――次第にそれは強くなってゆき、この頃では背後で鋭い凝視を感じ、ふっと振り向くまでになっていた。
オフィスだけじゃなく、昼休みの定食屋とか、アパートに向かう帰り道とか。
もちろん振り向いた先には誰もおらず、やっぱり気のせいだわと思っていたのだ。
夏ごろから変な悪戯電話が頻発するようになる。
どんどんエスカレートしてゆく。
やがて、アパートのポストにも変な置手紙が差し込まれるようになり、やがては会社の机の引き出しに、プリントアウトされた紙が入れられるまでになった。
死ね死ね死ね。
許さない、おまえを許さない。
逃げても無駄だ。
おまえは、見られている。
……。
(誰だ)
「相本さん、頑張ってるね」
「相本さんが出した企画書、一発で通ったよ」
「すごいねー、課長は必ずけちつけて、絶対に一度はつっかえされるのに」
「頑張ってるね、勉強もたくさんしてるしね、相本さん」
「相本さん……」
「そんな、たまたまですよー」
笑顔を作って賞賛に応える。心の中は恐怖で凍り付いている。
なぜなら、こんなふうに褒められた日の夜は、悪戯電話が必ずかかってくるから。
そのうち、「奴」は、アパートの部屋や、オフィスの机にまで悪意を示すようになってきた。
「相本さん、体調悪そうだけど大丈夫」
「頑張りすぎてるんじゃないの」
「でも、相本さんがいなくちゃ仕事にならないからね」
「これ、このドリンク置いておくから元気つけてね、ね、期待の星!」
「相本さん、すごいっすよ」
「相本さん……」
へへっと笑って、いつものようにあまりしゃべらずにやり過ごして、仕事に戻る。
集中する。
持ち帰りの仕事もある。アパートに帰ったら、まず目を通しておかねばならない資料がある。
それから予備知識が欲しいから、こないだキンドルで本を買ったんだ。それもちょっと読んで……。
気にしている余裕はないんだよ。
今が大事な時だから。これはチャンスだから。チーフに抜擢されて、だらだら仕事している同期を見返してやるチャンス。
……。
ゴオオオオオオオ。
大粒の冷たい汗を全身にかいていた。
目を開くと、慣れない天井が真っ暗闇の中に浮き上がっていて、カーテンを隔てた向こう側では、今まさに夜行列車が通り抜けていたのだった。
夢を見ていたらしい。
布団から体を起こし、枕元の携帯を見る。今夜は着信はない。時刻は3時すぎ。大丈夫だ、かかってくるとしたら、もっと早い時間である。今まで、3時をすぎてからかかってきたことはなかった。
「9時出勤、5分前まで到着するとして」
突然、渋い声がした。何か重いと思っていたら、うさぎのしろ子ちゃんが蒲団ごしに腹の上に座り込んでいた。
「睡眠時間は最低5時間欲しい。3時に就寝するとして、起床が8時」
なにを言ってるんだこいつは。わたしはふとんから抜け出した。
全身汗だくで冷たいんだよ。今この状態で風邪をひいて医者にかかるとしたら、色々と気が引ける。
……社保だから、一応、まだ。会社、辞めてないし。
しろ子は布団から転がり落ちたが、その丸い見た目とは不似合いな素早さで受け身を取り、たたみの上に座り直したのである。
わたしはそれを横目に見ながら濡れたTシャツを脱ぎ、スポーツバッグからタンクトップを出して被った。
頭まで汗で濡れている。ちょっと異常な寝汗だった。
(自律神経がやられている……)
まあ飲め、と、しろ子ちゃんは顎でたたみの上に置かれたコンビニの袋を示した。そこには最寄りのファミマで買ってきたワンカップとえびせんが入っているはずである。
常夜灯が切れた真っ暗な部屋は、それでもカーテン越しに外の街灯の光が差してうっすら照らされていた。
カーテンが青いから、青い光である。
だから、なんだか大きな水槽の底にいるような気分になるのだった。
ゴオオオオオオ……。
夜汽車は走りすぎ、やがて音は聞こえなくなる。だけど少ししてから遠くの方で、カンカンと踏切の音が聞こえた。
表の通りをがたがたと自転車が走る音が聞こえる。新聞配達だろう。
「例えばおまえの住んでいた(今でもそこに住所はあるんだろうが)会社に近いアパートなら、徒歩で15分でオフィスにたどり着く。それで、始業まで十分に間に合うだろう」
化粧をして、服を選んだりする時間を入れても十分に間に合うだろうよ。
……。
わたしは畳の上を這い、コンビニの袋からワンカップを出した。
とりあえず開封して三口ほど飲んでから、尤もらしいことをぬかしつづけるうさぎの顔を眺めた。
ぬいぐるみのくせに知ったふうなことを。
「電話の声はおっさんだと思うけどね」
わたしが言うと、しろ子ちゃんは「ふ」と鼻で嘲ったのだった。
「どうにでも加工できるだろう。おまえ、現実に戻れ。見たくないものを見ないままやり過ごそうとするのは、たとえその場に踏みとどまっていたとしても、それは既に逃亡しているのと同じだ」
わたしは片膝を抱え、ワンカップをぐびぐび飲んだ。体が良い感じにぬくもってほぐれてきたので、残りの半分をうさぎにやることにする。
うさぎは――相変わらず、くるっと後ろを向いて、決して飲食する姿を見せようとしないのだった――素早く受け取ると、ぐいぐい物凄い速さで飲み干して、心なしかいい感じに色づいたのだった。
時刻は4時になろうとしている。朝の。
部屋の闇が薄れてきていた。
古いぬいぐるみとワンカップを飲み合った、晩。
……。
目が覚めたのは遅い午前で、インスタントのコーヒーを飲んで喝を入れてから身支度をした。
洗濯機を回し、車に乗って実家に行く。両親はふたりとも留守だった。玄関先の犬小屋で、あやこがわんと一声だけ鳴いた。
車庫に隠してある玄関の鍵で家の中に入る。
その前に、犬小屋の中でとぐろを巻いているあやこを覗いてやった。
白内障の目がぎょろっと前を見据えていて、わたしの姿が見えているのだか怪しい。あやこと呼ぶと、すんすんと鼻を鳴らした。
「あやこの調子が悪いのよ。最近はごはんもあまり食べない」
母がこの頃愚痴をこぼしている。
聞くまでもなく、あやこは弱ってきていた。
今年で16歳になる。あやこは中型犬だから、16歳という年齢を人間の年に換算すると、びっくりするほど高齢らしかった。
わたしがこっちに戻ってきて隠れ住むようになって、ほんの10日位。
その間にあやこの容態は見るからに悪くなっている。来た当初はよたよたと散歩していたのが、この頃はうまく一歩が出ないという。散歩の距離もいきなり短くなり、ただ排泄のために、ほんの数メートルを歩くだけになっていた。
片手でひょいとつまみあげる位の、チビだったあやこ。
赤いフェルトの首輪をして、子犬の時はなんだか黒っぽくてはっきりしない色で、薄汚かった。
16年前だから、わたしはまだ学校に行っていた時だね。うちはあまり動物を飼わない家で、あやこの前はシーモンキーがいたくらいだった。
学研かなんかの付録についていたちっぽけな水槽に、シーモンキーがうようよいたんだけど、やがていつの間にか全滅していたんだっけ。
(ペットが死んだという感慨は全くなかったな……)
散歩のときはバウンドして、滅茶苦茶に後ろ足をはねあげて踊るようだったあやこ。
避妊手術の時は、母が涙ぐんでいたけれど、本人はまるっきり平気で、術後、獣医さんの檻の中でご飯をもりもり食べて呆れられていた……。
うわんわんわん。
郵便屋さんが大嫌いなあやこ。
ふっさふさの茶色い毛を、ぎゅっとした、いくつもの冬。本人も寒いから、ぎゅっとされても大人しくして「ふうん」と満足そうにしていたあやこ。
ドッグフードの銘柄も、今はシニア用になって、しかもそれを白湯でふやかしてやらないと食べないあやこ。
逝こうとしている。たぶん、遠くない未来に。
しいんとした寒々とした家の中、とんとんと二階に上がり、自室に入った。
埃除けを被ったぬいぐるみ群をゴミ袋に詰め込んだ。
今日は両親がいないし、誰も見ていないからチャンスである。このぬいぐるみ達を、連れ帰ろうと思った。
このまま部屋に置いておけばいつか捨てられてしまうのだ。
ここにあるぬいぐるみやこけしには、思い出が詰まっている。
幼い時の喜びや涙、思春期の恥ずかしいことまで、こいつらと一緒に分かち合ってきたんだ。
ひとつひとつを見ていると、この犬はいついつ、だれにもらったとか、このクマはどこの店で買ってもらったとか、昨日のことのようによみがえるのだった。
ぬいぐるみ群をどさっと車に乗せて、ついでに台所からジャガイモをいくつか拝借して、安アパートに持ち帰った。
(だけど、捨てられちゃって、もういない子もいるんだよな……)
あまりにも汚れてしまったとか、やぶれてしまったとかで、泣く泣く手放したぬいぐるみもある。
小さなひよこのぬいぐるみは、小学校の時、友達からもらった手作りのものだった。だけど手作りのせいかもろくて、縫い目からくちゃくちゃと中身が出てしまっていた。やがてぺちゃんこになったひよこは、どう見てもぬいぐるみではなくなり、ただの黄色い物体となり、母がいい加減捨てなさいと言ってきたのだった。
(ぴよちゃん……)
ハンドルを握りながら、ちょっと微笑んだ。
失った時はひどく悲しくて、ものすごい罪悪感にかられるものだけど、今から思い出すと、捨てられたことすらあったかい思い出の一部なのだった。
(いやだ捨てないで、ぴよちゃん、ぴよちゃあん……)
わんわん泣いて、そのころは祖母もいたから、祖母にまでたしなめられた。
いい加減にぎゃあぎゃあ泣くのを止めて、ごはんを食べてしまいなさい……。
確か、宿題をさぼったことが親にばれた日だったか。
叱責の延長のように、ひよこのぬいぐるみを取り上げられたのである。
泣きながら食べた夕食の食卓は、それでも、焼き魚の匂いと味噌汁のあったかさが溢れていて、ニュース番組が聞こえていて、家族はみんな揃っていたのだった。
他にも捨てられた玩具は色々ある。当然だろう。
鍵盤が壊れた玩具のピアノとか。
タオルでこしらえたクマのチャチャ。
パペット仕様になっていた、ぞうのパオーン。
そう、中にはすごく大事なぬいぐるみもあって、なんでだろう、どうして手放すことになったのか……。
(……森のおうちに帰ったんだよ)
そんなふうに言われて、信じてしまった。ある朝目覚めたら、一緒に寝ていたはずのぬいぐるみが消えていて、その理由を、両親はこう言ったのだ。森のおうちに帰った、と。
どうして、わたしを置いていっちゃったの、ずっと一緒だったじゃない、どうして、どうして、どうして……。
(もうじき中学校でしょう、いつまでも人形遊びなんかして)
いいかげん、それ、汚いから捨てなさいよー。
いやだ捨てない、この子は一生側にいるんだから、この子には命が入っているんだから。大事な友達だから。
「あれ」
もうすぐ安アパートに到着する段になり、わたしは思わず声を上げたのである。
角を曲がり損ねて塀に激突するところだったじゃないか。
ありえないことに思い当たったのだった。
そんな馬鹿な。記憶違いだろう。ありえない。
(森のおうちに帰ったの。そこにはお友達がいっぱいいて、みんな早く帰っておいでってずっと呼んでたんだよ)
やだやだやだ、探す。見つかるまで探すから。
あれは、小学校6年生の秋。
ちょうど今頃の季節だった。
ある朝、しろ子ちゃんが、手元から消えた。
「森に帰った」と親は言ったけれど、大人になった今、それがただの子供だましだったこと位わかる。
しろ子ちゃんと呼んで可愛がっていたうさぎのぬいぐるみは、中学校にあがる前に、とりあげられ捨てられたはずだった。
ものすごく悲しんだわたしは、しばらく思い出しては涙ぐんでいるほどだった。
しろ子ちゃんが主人公の物語をいくつも作り、しろ子ちゃんはいつも全知全能で、できないことなどないスーパーうさぎだった。
(しろ子ちゃんじゃなかったのかもしれない)
駐車場に車をとめながら、わたしは首を傾げた。
しろ子ちゃんがとうの昔に捨てられていなくなっているのだとしたら、じゃあ、この安アパートで酒だのおでんだのを喰らって汚くなっている、件のうさぎは一体なにものだ?
後部座席からじゃがいもとぬいぐるみの詰まった袋を取り出した時、冷たい風が意味ありげに吹いてきた。
空はグレーに曇っている。今にも降りそうだった。
少しずつホラー味が出て参りました。
ぬいぐるみを押し洗いすると、汚い汁がいつまでも出てくるものです。
可愛い顔して、ずいぶん薄汚れているのでした。




