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番号をかえたばかりの携帯が、真夜中に鳴った。
執着の目はどこまでも追って来る。
携帯電話が鳴ると、すうっと血の気が下がる。
真夜中だと特にそうだ。
アパートの部屋は、部屋の電気がかけていた。常夜灯のオレンジ色がつかないだけだから、寝る段になって消灯すれば問題がない。
だから、ふっと目を覚ました時は、完全な闇である。
今日、実家からもらってきた布団、二階の部屋までえっちらおっちら運び込んだそれは、押し入れの匂いが染みついていて、顔をうずめると妙に泣けてきた。
(押し入れ、座敷の)
仏壇の隣にある、二段になった押し入れは、かっこうの隠れ家だった。
なんとなくかび臭くて、冷たい。水とりぞ●さんが隅っこに潜んでいて、幼い頃、それを見つけては別の場所にもっていき、母に叱られた。
(ままごとのゼリーにちょうどよかったんだ)
ゼリー、いや、寒天だったか。
なんとまあでかい寒天だろうね。いつも発見時には、完全にゼリー化している状態だったから、やっぱりあの押し入れは湿っぽいんだろう。
蒲団圧縮袋に入っていたのだけど、やっぱりその布団は、あの押し入れの匂いがした。
枕元に置いた携帯電話が鳴ったのは、夜中の2時だった。
無料着信ダウンロードで入手した「ハレルヤ」が高らかに鳴り響き、わたしは穏やかな春の日の押し入れから現実の闇の中に連れ戻されたのだった。
ふわっと飛び起きた。
毒々しいオレンジの携帯は、緑とピンクと黄色にちかちかと光りながら、やけにほがらかに「ハレルヤ」を鳴らしている。ばくばくと心臓が唸り始める。
(番号を変えたはず)
と、思い当たってすうっと冷静になった。そうだ、あれのはずはない。もうあれからは逃れたはずなんだ。
着信音はいったん、ぷつんと途切れた。お留守番サービスにつながったのだろう。だが、またすぐに「ハレルヤ」が鳴り始める。
そっと画面を見ると「非通知」になっていた。
(どんなトリックだよ)
仕方がないから電話に出てみた。気持ちが悪くてどうにかなりそうだったが、うるさくて叶わないじゃないか。
「もしもし」
呼びかけてみると、例の聞き覚えのある男の声が受話器から離れた場所からぶつぶつと聞こえて来た。
この嫌がらせ電話が始まったのは、夏位からだ。
ちょうど、会社でわたしの企画が通った頃からだ。色々な異変が起き始めたのは。
「……死ね死ね死ね死ね死ね」
少し離れたところからぶつぶつ聞こえてくる声に耳を澄ましてみると、唱えているのは呪いの言葉だった。
(あー……)
わたしは電話を耳から離すと、とりあえず遠い場所に伏せて置いた。気が済むまで呪いの言葉を呟いていただけばいい。それを聞いていなければならないという義務はないのだった。
「死ね」が「殺す」の夜もあった。
「許さない」のこともあったかもしれない。
低く、太い声だから男だろう。
最初はぞうっとして、すぐさま切ったり、非通知不可の設定にしたりしたものだが、公衆電話からかかってきたり、どこかの固定電話――調べてみたら、ホテルや喫茶店だったりした――からかかってくるようにもなった。
いつも夜中である。
「どなたですか」
と聞いたこともあったが
「へ」
と鼻で笑われて終わった。
わたしは布団の上で体育すわりをして、通話状態が続いているガラケーを眺めた。
ガラケーは開かれたまま伏せられ、匍匐前進や腕立て伏せの苦行に耐えているように見える。
ぼそぼそぶつぶつと陰気な声が、暗闇の冷たい空気を震わせていた。
がしゃがしゃと窓の外で電車が通り抜ける音がした。アパートのすぐ後ろは線路になっており、汽車が通ると結構な音がする。それでも、眠ってしまえば夜汽車の音など耳に届かないものだ。
……この時間に汽車が通るんだな。
はじめて知った。
つまり、わたしは引っ越ししてからはじめて、件の電話を取ったのだった。
眠りから引き戻されたばかりの頭で、ぼうっと考えた。
体育すわりのひざに顎を乗せて。ぴかぴかとガラケーは光り、畳の上に不思議な色を落としている。
どうして変更したばかりの番号に奴からかかってきたのだろうと考えているうちに、気分が悪くなってきた。
そもそも、こいつが誰なのか、いろいろと考えるうちに息が詰まってきて、常に見張られているような気持になって、それですべてがおかしくなってきたのである。
「逃げても無駄だ」
プリントアウトされた明朝体がふいに脳裏にうかび、わたしはぐらっとした。
赤い文字で、呪詛の言葉が連ねられた呪いの手紙。
恐ろしいのは、その封筒が部屋のポストに差し込まれていたことだった。
(ここまで、きた……)
そのアパートは4階建てであり、わたしの部屋は3階の角部屋だった。
会社に近いから、まるでうちの会社の独身寮状態だった。だから会社の人はみんな、誰がどの部屋に住んでいるのか知っている。
(誰だろう)
アパートの部屋の中にいても、会社に行っても、猛禽のように光る眼がくまなくわたしを追っている気がした。
そしてその眼は、この田舎の、安アパートにまで、わたしを追ってきているらしかった。
落ち着け、とわたしはとりあえず立ち上がり、未だぶつぶつと唱え続けている電話を放置して、ふすまを開いた。
トイレと玄関と風呂場が闇の中に佇んでおり、ひっそりしている。
冷たい床に足を置き、まずトイレに行ってから台所の扉を開いた。コンビニで買ったワイルドターキーのボトルが流しにあるから、そいつをやろうと思ったのである。
ところが、台所のノブを握った瞬間、背筋が凍った。
なんだか音がした。真っ暗な台所の中から。
にちゃ、くちゃっ……。
わたしは洗面台から、そっと女性用剃刀を取った。プラスチックのカバーをはずし、片手でそれを握りしめた。
(あー、携帯、携帯で警察に電話すればいいんだった)
気づいた時、わたしは既にノブを回し、扉を開いてしまっていた。
真っ暗闇の中で咀嚼音が響いており、心底ぞっとしながら素早く電気をつけた。
テーブルもなにもない床に尻をついて、タッパの中身を口につめていたのは思いがけないものだった。
タッパ。昼間、母が煮物をつめてくれたタッパ……。
片手に剃刀を持って、片手で壁によりかかりながら、わたしは呆然としていた。
うさぎのしろ子ちゃんが、おでんを喰らっている。
うさぎは無表情でこちらを振り向いており、顔をべったべたに出汁で濡らしていたのだった。
タッパの中身は空になっている。大根もこんにゃくもがんもどきも、うさぎが食べた。
くらくらとして、もういい加減「普通」の状態に戻りたいものだと思った。うさぎの凝視を浴びながら流しのワイルドターキーを取り、きゅきゅと蓋を開いてボトルからじかに飲んだ。
くわっと喉が熱くなり、胃が温められる。
「なにか言え」
と、うさぎが言うので、とりあえず空いたタッパを床から拾い上げて流しに放り込んだ。明日にでも洗おう。
ワイルドターキーを握りしめながら、うさぎの前にしゃがみ込んだ。スリッパもないから、素足がぺたぺたする。
つくづくと、出汁で薄茶色に染まったうさぎの口元を眺めた。
手づかみで(どらえもんみたいにグーになっている手で)食っていたから、もちろん両手も茶色くなっていた。全体的に、ほのかにおでん臭いぬいぐるみになっていた。
「明日押し洗いする」
と、わたしは宣言した。
近所のコインランドリーでぐるぐる乾燥してやるからな。
臭いうさぎを前にして、ワイルドターキーを流し込んでいるうちに、すべてがくだらなく思えて来た。
気持ち悪い電話も、酔っぱらった冷静な頭で考えてみれば、どうってことない。携帯電話がナイフを持って飛びかかってくるわけじゃあるめえ。
そうだ、世の中すべてどうってことない。
古いぬいぐるみに魂が入り込み、夜中におでんを喰っていたとしても、それが一体なんだ。
放っておけ、食いたいなら食ってるがいい、部屋が出汁臭くなるのは嫌だから、洗ってやるだけだ。
「あれが来てるんだろ」
うさぎは意味深に言う。
丸いあごをくいと動かし、和室の方を示した。
嫌がらせ電話のことを言っているらしい。
「一つ言っておくが、おまえ、めちゃくちゃ残酷で目も当てられないくらい嫌な死に方する瀬戸際にいるからな」
だから、俺が来た。おまえは自分の過去に護られているんだ。
過去。
しろ子ちゃんと遊んだ日々に。
男前の声でぶすっと、不吉かつ謎めいたことを言われた。
わたしはまた一口ワイルドターキーを流し込んだ。どう返してよいのか。
「そいつは(と、和室をまたあごで示した)おまえが心底びびるまで付きまとうぞ。再起不能になって、外出するのも怖いってくらいに追い詰めるまでやる感じだ」
なに言ってんだよ、こうやって田舎まで逃げて来たじゃないか。仕事ほっちゃらかしてさ。既に相当追い詰められてると思うけれど。
わたしの心の声を読んだらしく、うさぎは深煎りコーヒーのように渋い声で「ふ」と笑ったのだった。
「おまえはまだ心底びびっていない。電話番号をかえて、誰にも一切言わないで、安いアパートを探して、実家の側にまで逃げた。その行動すべてが、奴は気に入らないんだよ」
会社で、涙ひとつ見せないで、誰にも相談すらしないで――。
(相本さん、最近おかしいよね……)
(寝不足みたいで、ふらふらしてるし、前はあんなミスなんか考えられなかった)
フロアの隅で。
目覚ましのコーヒーをと給湯室に入ろうとして、同僚たちの会話が聞こえて立ちすくんだ。
そうだった。わたしは会社では最後の瞬間まで、頑固にふるまっていたのだ。
……。
わたしは立ち上がると、洋間の床に置かれたラジカセをONにした。
フランス・ギャルの歌声が真夜中の、がらんどうのような部屋にひっそりと響く。
ボリュームを絞ると、ギャルの無邪気な歌声は、なにか秘密の言葉を呟いているように聞こえるのだった。
洋間の青いカーテンの向こうは狭い道路になっていて、このあたりはアパートが多くて独身者がうろうろしているので、こんな真夜中でも車どおりはある。
車が走り抜ける音がして、ライトがふわっとカーテンに移った。
ぼんやりとした楕円はすうっとカーテンを過り、やがて消える。影絵みたいだ。
「くれ」
というので、ウイスキーを渡すと、うさぎはくるっと背中を向けてらっぱのみをしたのだった。
(どんなふうに飲食するのか、いつか見ることもあるだろう……)
ミッフィーが、そのバッテンの口をエイリアンみたいに開いて、ぎざぎざの歯が覗いている有名なイラストが頭に浮かんだ。
「明日、絶対に洗うからね」
と、そのまん丸い体に向かって言うと、もごもごとうさぎは言ったのだった。
「風呂は好きだ」
ウイスキーを返してもらう。
小学四年の夜を思い出した。しろ子ちゃんと一緒にふとんに入った夜。
その、しろ子ちゃんと酒を回し飲みする日が来ようとは。
少し、闇が薄れてきた。
夜明けが近づいている。
まだ通話は続いているのかな。
ちょっとだけ可笑しくなった。
うさぎは過去からきた守り人。
あと、酒が飲みたい。