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現実生活から逃げて田舎の実家付近に仮住まいをするようになった「わたし」。

住所も新しい電話の番号も知人には伝えないまま、あてのない生活に突入する。


ある日、必要なものを実家の自室から持ち出そうとしたところ、古いぬいぐるみが俺を連れてゆけと語り掛けて来た。


部屋の整頓、ぬいぐるみとの会話、老いた家族と飼い犬、過去の回想。

それは癒しと再生の過程。


※不定期連載となります。5、6話程度の中編です。

 色々あって、田舎の実家の近くに仮住まいすることとなる。


 まるで尻はしょって逃げるみたいに、あらゆることからとんづらして、誰にも居場所を教えずここに来た。

 とりあえず実家に諸事情を話すと、もはや後期高齢者になろうといている母は目を見開いて無言だった。

 おとうさんには、仕事の都合でしばらくこっちにいることになったとでも言っておくから、あんた言うんじゃないよと念を押され、その判断に素直に従うことにする。


 ……。


 携帯電話の番号を変えるついでに、新しいのに変えた。

 それまで、ひっきりなしに変な電話がかかってきて、いいかげん人生嫌になりかけていた。電話番号を変えるということは現実面でものすごく支障があって、変えたその日のうちに色々なところに連絡をしなくてはならなかった。

 色々ね。

 

 まだ、前まで住んでたところは解約してないから、家主に。

 あとは銀行やら保険やら――鬼のように電話をかけまくって、気が付けば夕方近くなっていた。


 フローリングの床にぺたんと座っている。

 荷物はスポーツバッグひとつだけだし、とりあえずの処置として、窓にはカーテンだけ着けてある。

 水道、ガス、電気については入居した日に済ましてしまったから、これは問題ない。お陰で飯も食えるし暖も取れるってわけだ。

 布団はないが、幸いこのアパートは滅茶苦茶に安価のくせに2部屋あり、もう一室がたたみなのだった。

 バスタオルを枕とタオルケット代わりにして、しばらくはしのげそうだ。ただし、もう2週間もすれば気温が劇的に下がってくるだろうから、いいかげん布団の類はなんとかしなくてはなるまい。


 ついさっきまで通話しまくっていた新しいガラケーを眺める。

 この色しかなかったんかとつっこみたくなるような、ものすごいオレンジ色。なんか、南半球にこんな色した凄い虫がいそうだ。

 0円機種のやつ。全く何のこだわりもないから、最悪、通話さえできればいい。例えば運悪く買ったのが毒入りカップ麺で、食ったそばから死にそうになるとか、いきなり暴漢が乱入するとか、そういうことがあれば、携帯さえあれば110番できるからね。


 ぼんやり何もない洋間を見回した。

 1DKでも、あっちじゃこんな安価で部屋など借りることはできない。しかも敷金礼金0円キャンペーン中だった。めちゃくちゃにラッキーなことだ、こんな物件に巡り合うなんて。もちろん即決しすぐに入居したのだけど、今のわたしはこの幸運を手放しで喜ぶような精神状態ではない。


 刻々と時間は過ぎており、床に置いた電波時計が黄色く15時50分を示している。

 白いフローリングの床が冷たい。尻から寒気が上がってくるようだ。

 (いいかげん、布団をなんとかしなくてはならない)

 それと鍋がひとつあれば。


 そうだ、実家に行こう。わたしはそう思って重たい尻をあげた。


 おんぼろ軽で10分くらいのところに、実家はある。

 集合団地の一角だ。塀はないから砂利が敷かれた庭に直接車をとめる。

 もう15歳になろうとしている老犬が、犬小屋の中から出てこないまま、わわわわわと鳴いた。

 玄関を開く前に、犬小屋の中を覗いでやると、茶色い体でしっかりお座りしたまま、わんわん鳴いている。白内障の目にわたしの姿が分かったかどうか。手を小屋の中に入れて頭をわしわししてやると、やっと黙った。


 父はいない。用事にでかけたか。

 おうい来たよと呼びかけながら中に上がった。台所からは煮物のにおいがして、母がいるらしい。ひょいと入っていって、使ってない鍋はないか、蒲団を一組借りれないかと聞いてみた。


 母は調理の手をとめないまま、

 「なんでも持ってきな」

 と言った。


 ぐつぐつ煮えている鍋に蓋をしてしまうと、きづかわしげな顔で振り向く。

 昔から使っている変な猫の柄のエプロンで手を拭いていた。

 母の着ている小花が散ったハイネックとか、どことなくがに股の骨と皮みたいな体とか、やたら懐かしい。今のこんな状態じゃあ、油断したら、抱き着いて泣きじゃくってしまいそうになるから、あまり近づかないし気持ちを引き締めている。


 あんたお金はあるのと聞いてきたから、大丈夫と答えておいた。

 冗談じゃない、年金もらいながらパートしてる親に無心できるか。


 鍋だけでいいの、やかんはと聞かれたので、それも欲しいと言った。

 「片手鍋と、ちいさいフライパンならあるよ。やかんも、もらいものでまだ使ってないのがあるから、それを持って行って」

 まとめておくから、あんたは布団を車に積んでしまいなさい、座敷の押し入れにあるから、と母は言い、せかすように手を動かした。

 「おとうさんが帰って来ないうちに。あんたは仕事でこっちに帰ってきていることになってるんだからね。いろいろ突っ込まれるよ」


 おとうさんはと聞くと、六時くらいに帰ってくると思うよ、と返ってきた。

 四時回っている。なるほど、だらだら居座っていたら、二時間なんてあっという間だ。


 「煮物少し持って行って」と母は言った。

 座敷の押し入れから布団を出して車に積んでいると、これもさっさと積んでしまいなと、がちゃがちゃ鍋類がつまったゴミ袋を押し付けられた。

 「これも」

 と、最後に熱いタッパを渡してから、思い出したように母は言った。


 「二階のあんたの部屋に色々あるから、必要なものがあれば持っていきなさい。というかもう、あの部屋整理したいから、いいかげんに捨てたいんだよ色々。捨てられたくないものは全部持って行ってちょうだい」


 山のようになんでもあるから、こっちにいつまでいるのか知らないけれど、いるあいだにちょっと通って整理してよ。おとうさんはだいたい午後にはいないから、一時間でも二時間でも時間作って、自分のもん整理しな……。


 はいはいとわたしは返事をした。

 がさがさ音がして、犬が犬小屋から出てきて庭に降りている。首をかしげてわたしたちのやり取りを聞いている。

 ふさふさもふもふの茶色い雑種だけど、数年のうちにずいぶん老いた。

 耳とか顔の毛が白っぽくなってきている。歩き方もなんだかぎこちない。


 「あやこの散歩に行ってくるからね、30分くらいで戻るけど、それまで部屋の整理してて」

 かあさん戻って来たら、あんたいいかげん帰りな。

 

 あやこは散歩と聞くと、うろうろとし始めた。理解したらしい。

 わたしに与えられた残り時間はあやこの散歩の30分足らず。大急ぎで家の中に入り、二階にあがっていく間に、玄関の方ではあやこにリードをつけて、よたよたと出てゆく気配がした。

 犬は本当に老いた。

 日課の散歩は欠かさないようだが、30分も歩くのだろうか。


 全てがいちいち感慨深かった。

 気持ちが弱っている時だから、余計に感じやすくなっている。鼻がつんとしていた。涙がじわっと滲んだが、ぐっとこらえながら自室の扉を開いた。埃っぽい空気、昔から使っていた緑色のカーテン、色々積まれた床、ベッド、勉強机。

 ……。


 机の前のカーテンは西日を透かしていた。なんとなくカーテンをまくると、既に刈り取られた田んぼが広々とひろがっており、遙か向こうには小さな寺があるのだった。

 二車線の道路がえんえんと伸びており、山がくっきりと尖った線を見せている。山脈は透明感のある夕日に照らされて、深い影を作っていた。


 歩道を、黒いジャケットを着た母と、よたよた動くあやこが歩いている。背後に伸びた影はゆったりと長かった。

 また涙が沸いてきそうになったのでカーテンを閉じると、深呼吸して、部屋の中を見回したのである。


 古い衣類掛け、プラスチックのハンガー、半纏、ジーンズ、なぜか知らないけれど軍手の束、広辞苑……。

 ベッドには懐かしい文庫本だの、目覚まし時計だのが積まれていた。

 その中に、埃除けの布がかぶせてある部分があったからはぐってみると、大量のぬいぐるみだのこけしだのが姿を現わしたのである。


 ぬいぐるみ……。


 なにか胸をつかれて、わたしは手を伸ばした。

 古い教科書の束の向こう側に、置き去りにされた記憶の塊。


 ぺこ、さんちゃん、けろろ、みいちゃん、うさうさ、ぱんだ……。

 子供の時につけた名前を今でも覚えていることが脅威だった。すごい、こんなことを覚えているなんて。

 

 きりんのぬいぐるみの「ぺこ」を抱き上げた時、「こら」と、声が聞こえた。

 隣のおっさんだろうと思っていたら、また「おい」と聞こえたので、父かと思ってぎくりとした。見回していると、また声は聞こえた。


 「俺だ」


 ちかちかと光った。ぬいぐるみ溜まりのほうだ。

 こけしとクマのぬいぐるみが重なった下のほうで、もごもご何かが動いている。

 

 「……」

 

 頭の芯がぼうっとしてきた。

 ぬいぐるみとこけしの山は崩れ、にゅっとなんか出て来た。


 うさぎだ。

 赤い服を着たやつ。丸々として、両腕で抱えるような人形で、よく覚えていた。

 小学校4年の誕生日に買ってもらったやつ。


 わたしはゆっくりと床に尻もちをついた。腰が抜けたのだった。

 「しろ子ちゃん」

 と、呼ぶと、うさぎは――黒い目ふたつと口元にバッテンがついただけの単純な無表情のはずだったが――なんだかものすごく皺を寄せて怒りを露にして、こう言ったのだった。


 「俺は雄だ」


 がたがたと玄関の方で音がする。

 案の定、30分も散歩なんかできなかったようだ。

 あやこのよたよたした歩きっぷりは、もういっそ、散歩なんかやめとけばと言いたいくらいだったから。

 

 (今日はこれでアパートに戻らねばならないけれど)


 腰を抜かした体に気合を入れながら、わたしは途方に暮れて、目の前で表情をつけているぬいぐるみを眺めたのである。

 うさぎは数学の教科書にあごを乗せ、脅迫するような目で(ただの黒いフェルトのはずだけど)わたしを睨んでいるのだった。


 「俺を持ち帰れ」


 と、うさぎは言った。

しろこちゃんはブルーナのうさこちゃんです

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