チャプター61
〜ドナーガルテンの街 長老の宮殿〜
「ーーよもやあのような魔族が襲来しようとは、思いもしませんでした」
魔族襲来の翌日、エルリッヒは一人長老の宮殿を訪ねていた。いつものように人払いをし、二人っきりで話をする。エルリッヒにとってだけでなく、長老にとっても心穏やかになるひとときだった。
口を突いて出るのは昨日の話題だが、それももう無事に解決したこと、とても気楽な気持ちだった。
「ほんと、驚きだよ。で、損害は?」
「怪我人が数十名おりますが、死者はおりませぬ。マルクト広場の被害は相応に出ましたが……」
これ以上は野暮と長老は言葉を止める。この百年こそ穏やかなものだったが、かつてよりドナーガルテンの街は魔物の襲来にさらされてきたため、緊急時のマニュアルはもちろんのこと、被害時の復旧の手際から店主たちへの補償まで、あらゆる面から被害への対策がとられていた。だからこそ、わざわざ語る必要はないのである。被害が出たのはエルリッヒも既知のことだったし、街中で屋台や家屋の建て直しが入るのもよく知っていたし、街が全面的にサポートすることも知っていた。だから、主にきになるのは人的被害なのだ。
「怪我人のうち、民間人の被害者と重傷者は?」
「民間人の被害者は数名、いずれも避難時に怪我をしてしまったようです。後はギルド登録の戦士たちですな。百年振りの厄災から街を守ったのです、名誉の負傷といったところでしょうが、中には恐怖心から廃業を考えている者もおるようです。これもまた、やむをえないことですな」
かつても、激戦の果てに怪我や恐怖心から剣を捨てる者がいた。どのようなケアも、時には効果を持たず、引き止めることはできない。そのことを、改めて実感した二人。あの頃の記憶が蘇るようだった。
百年という時の流れの重さと、「今」が繋いだ距離の短さが、同時に襲ってくる。所詮、生き物は百年ぽっちじゃ変わらないのだ。
玉座に座る長老の姿を見て、その考えを一瞬捨てかけたが、視線を落として自分の手のひらを見つめることではっきりと実感する。
「そういえば、あの二人はどうしておりますかな? 結局、我らはこの街の人間ではない彼らに委ねてしまった。街の代表として、心苦しいところです……」
「長老が責任を感じることなんてないよ。長老だって前線で指揮するどころか戦っちゃって、今も本当なら休んでてもいいはずなのにこうしてここに座ってて。それに、あの二人は強い相手と戦うとワクワクしちゃうようなタイプだから、そういうところも大丈夫。それに……今回の戦いでまた一段と強くなれたみたいだしね。おかげで、今日は朝から動けないって言ってご飯も食べずに宿で休んでるけど。あれだけの戦いをしたんだから、反動も来るよね。長老はその辺大丈夫なの?」
見たところ、長老の様子はいつも通りだ。そもそもが人間とは体のつくりが違うから、同じように考えるのは野暮なのかもしれなかったが、なんとタフなのだろうか。老骨に鞭打って、などという言葉がいかに大きな謙遜であるか、身を持って体現していた。
「ここに座っておればいいのですから、気楽なものです。もっとも、大臣や侍女たちにはあれこれ言われました。歳を考えろとか立場を考えろとか。小言を言われなかったあの頃が懐かしいものです」
この百年で、長老を取り巻く環境は大きく様変わりした。自治体と呼べる組織すら存在しなかったこの街に、首長として君臨することになり、ひいてはこの国の形成にも大きな役割を負うこととなった。当然、ギルドの一線からも身をひくことを意味し、戦士としては引退に追い込まれたような状態にもなった。
今でこそ不満はないが、若い頃はここに座ることがじれったくて仕方がなかった。街づくりの視察と称して抜け出したことは、一度や二度ではない。そんな長老にとって、今回の戦いはまさに命の危険が迫るほどの戦いではあったが、それだけに百年間のしがらみから解放されたものでもあった。
「……戦士たる者、実戦から得るものが一番大きい。今回、それを再確認いたしました」
「これからは、そういうことも増えるんじゃないかな。魔王が復活したっていうのも、どうやら本当みたいだし、復活が不十分でも指揮官はあれだけ強かったんだし、他の雑魚達も、今でこそあんなだったけど、魔王が完全復活したら、多分もっと強くなる。実戦で成長する前にやられたんじゃ、話にならないから、気をつけないとね」
少なくとも、この街の戦士達は外の世界の人間達に比べれば十分に強い。だが、それも相手が同じ人間の悪党や獣であってこその話だ。魔族となると、話は違う。かつてを知る竜人族の戦士もそこまでの数はおらず、直接教えを請うことも難しい。ここの戦士が己の力を高めていくしかないのだ。
「うむ、そうですな。魔王の居城により近いこの国は、それだけ危機も迫りやすいというもの。今回のことも、突如攻められたような形になってしまいましたからな。その辺りの防衛機構も、しっかりせねば……」
この街だけではない。もし魔王が復活してしまえば、この世界全体が焦土にされかねない。かつての魔王がどれほどの強さだったのか、結局知る者はいないが、少なくともこの街は猛攻を凌いできた。だが、他の街はどうだろうか。平和ボケしているのではないだろうか、強力な武具を失っているのではないだろうか。考えられる懸念はいくらでもあった。
「とりあえず、完全復活じゃないみたいだし、他の街や国が攻められたっていう話も聞かないけど、油断はできないよね」
「そうですな。この街も、かつてのような厳戒態勢で臨む必要があるのかもしれません……伝説のドラゴンは、南の国に帰ってしまうのですから」
ちらり、とエルリッヒの存在に触れる。かつてこの街が窮地になると現れてくれた桜色の竜は、今一度の伝説を見せ、帰ってしまう。その奇跡には、すがることができないのだった。
「ごめん……次の時は、私は街でのんきに笑ってるかもしれない……」
「いえそういうことではございません! 今回助けて頂いたことだって、大いに感謝しておるのです。街のみんなやあの二人の若者に正体がバレるかもしれない危険を冒してまで救って頂いたのですから。そうではなく、本来なら我々だけでこの街を守るのが筋、ということなのです。そのために、気を引き締めねばならぬ、ということなのです」
慌てた様子で話す長老の姿は、とても小娘を前にしているようには見えない。二人の間にあるのは、それほどの関係なのだ。それでも、この街を思う気持ちは、どちらも同じくらい強かった。ほんの一時滞在しただけだが、この街にとって一番大変な時期に居合わせ、その窮地に立ち向かったのだ、思い入れも深まって当然である。
「なぁに、かつてはいきなりこの世界に魔王が登場しましたが、今度は準備期間があるようなもの、何としてでも、あの頃より強い街にしてみせますわい!」
「その言葉、信じちゃうからね?」
見上げた先に待つその顔は、自信に満ちていた。そして、エルリッヒもまた、信頼に満ちた瞳をしていた。
〜ドナーガルテンの街 宿屋「竜の雄叫び」〜
長老の元を後にしたエルリッヒは寄り道をすることなく宿屋に戻ってきた。昨日の疲労で動けないと、食事も摂らずに部屋で寝ている二人を見舞いに来た。と言っても同じ宿屋の別室というだけで、エルリッヒもここに逗留しているのだが、さすがに男たちの部屋に入ることはしない。だから、お見舞いという名目でもないと、なかなか入れない。
「二人とも〜、いる〜?」
遠慮がちにノックをして、扉の向こうに耳をそばだてる。
『エルちゃん〜? どうぞ〜』
ドア越しに、ツァイネの声が弱々しく聞こえてきた。まだ疲れが取れないのか、それともドア越しだからか。とりあえず許可は得たのでドアを開けて中に入る。
まだ鎧戸が閉まったままで、部屋は真っ暗だ。これでは起きることもままならないだろう。心なしか、空気も淀んで見える。
「お邪魔しまーす。鎧戸開けてもいい?」
部屋の左右に配置されたベッドからはそれぞれ小さく「了解」と聞こえてきた。それではとばかりに部屋の奥に進み、鎧戸と窓を開け放った。途端に日差しと緩やかな風が入ってくる。これで少しは起きようという気にもなるだろう。
「二人共、大丈夫?」
「ん〜、まだ眠いけど……」
右側のベッドから、頭まで布団をかぶったゲートムントの声がする。左側のベッドからは、壁を向いたツァイネが
「なんとかね…‥」
二人共、疲労困憊の様子だったが、心配する必要はなさそうだった。
「んじゃ、今からお昼作ってくるけど、できたら呼ぶからその時は起きてきなよね」
普段なら飛び起きそうな言葉にも、反応は薄かった。それほど疲れている、ということなのだろうが、今までこんなことはなかった。全く、無理をしたものである。
「なんだかんだ言っても、二人は今回の立役者なんだからさ。精一杯腕振るっちゃうよ?」
「ホント?」
「それ美味やつだ……」
小さく聞こえた声は、前向きだった。
「じゃ、できたら呼ぶから、支度して降りてきてよね」
きっと二人はもう大丈夫だ。そう思ったエルリッヒは部屋を後にした。階段を下りて向かうのは厨房。二人のために、いや、せっかくだ、宿泊客全員の、そしてスタッフの分まで作ってやろうではないかk。きっと楽しい食事になる。
その足取りは、とても軽やかだった。
〜つづく〜




