チャプター60
〜ドナーガルテンの街 上空〜
指揮官が氷漬けになったのを確認すると、エルリッヒはその場から飛び去った。そして、周囲の注目が自分から逸れたのを確認すると、密かに人間の姿に変化し、再び長老の宮殿へと飛び降りた。大した距離ではなかったので、一度高く飛びあがらなければならないのは少々厄介だったが、これも秘密を守るためだ、仕方ない。
「よっし! 任務完了!」
そして、柱の陰に隠しておいた衣服を身につける。着るのは脱ぐよりも時間がかかるが、何しろ素っ裸で外に出るわけにはいかない。これを面倒と考えるか、楽しむべき人間の文化と捉えるかの違いはあったが、とにかく人間とは衣服を着る生活を送るのである。そして、何より指揮官はまともに戦えないくらいには痛めつけてきた。今頃はみんなが決着をつけている頃だろう。何も急ぐことはないのだ。
「さて、と……着替えも済んだし後は……」
誰にも見られないよう慎重にこの大階段を降りねばならない。今この状況で外をふらついている者など誰一人としていないとは思うが、油断するとろくなことにならないのが世の常だ。死角から気配を探り、周囲を見回し、誰もいないのを確認すると、こそこそと外に出る。そして、今度は足早に駆けていく。何しろ一般人は気配が小さいので、気付かないことも多い。慎重に慎重を重ねて。
「よっ、はっ、とうっ」
最後の数段を飛び降りると、ようやく安堵の息が漏れる。これで無事にみんなのところに戻れる。そう思いながら歩き始めたその時、予想外のことが起こった。
「エル!」
いきなり呼び止められ、心臓が止まりそうになる。指揮官の本気すら受け付けなかったというのに、不意に呼び止められた方がよほど身の危険だった。
考える間もなく、ぎこちない動作で声のした方に首を振った。
「だ、誰……シエナ! なんだ、シエナか〜、よかった〜」
思えば女性の声だったし自分のことを「エル」と呼ぶのはシエナしかいないのだが、咄嗟にそこまで頭が回るほどの余裕はない。飛び上がるほど驚いたというのが正直な気持ちである。だから、呼び止めたのが事情を知るシエナで本当に助かった。いや、言い換えると、事情を知っているからこそまだ安全とは言えないこの場所にやってきたのだろう。
「なんだって、そんなに驚かないでよね。せっかく友達が声をかけたってのに」
「うん、そうなんだけどさ、ほら、誰かに見られたと思ったら焦るじゃん」
慌てる必要はないのだが、ついつい大きく手を振って事情説明をしてしまう。そんなエルリッヒのことを、シエナはふわり、と抱きしめた。
「えっ、えぇっ?」
「どうしても、お礼が言いたくて。そりゃあ、竜の王女様には身の危険なんてないのかもしれないけど、危険な相手に、みんなに正体がバレるかもしれないかもしれないのに元の姿で助けに来てくれた。それが嬉しくて。だから、お礼を言わないなんて、ありえないよ」
大したことをしたつもりがないとまでは言わないものの、見返りを求めての行動ではないので、少し戸惑う。とはいえ、喜んでくれたのなら、そしてこの街を救えたのなら、危険を冒した甲斐もあったというものだ。
「こっちこそ、お世話になったこの街と、大切な友達や仲間を助けたかっただけだから。そういうのって、見返りを求めるものじゃないでしょ? さ、シエナも一緒に行こ。そろそろ決着ついてる頃だと思うから」
そっとシエナの体を離すと、優しく手を握る。そして、マルクト広場方面へと向かった。
ちょうどその頃、マルクト広場では、戸惑いが空気を硬直させていた。
「なんで……なんであいつ行っちまったんだ?」
「わからないよ……止めを刺せるこの状況で行っちゃうなんて。やっぱり、ただの気まぐれだったのかな」
ゲートムントもツァイネも、ドラゴンの行動に意識が持って行かれていた。あのまま息の根を止めてくれるものと思っていたのに、なぜかそのまま飛び去ってしまった。今はもうどこにも見えない。あれほどの強大な力を持ちながら、命までは奪わないというのか。
(エルリッヒ様……)
二人が戸惑う中、長老は一人考えていた。なぜあの場で、あのタイミングで飛び去ってしまったのかを。無益な殺生を行わないというのは通用しない。もしかしたら、自分たちに止めを刺させるため? それとも、今後迂闊に手出しさせないよう、ギリギリまで弱らせてから逃げ帰らせるため? どちらも筋は通る。もちろん、他の可能性もある。いずれにしろ、真意を測るのには情報がいささか足りない。
そして、当の指揮官はというと、こちらも大きな戸惑いを覚えていた。
(なぜ、殺さなかった……このままでは、どの道回復するまでには時間がかかる。そうなれば、この命が尽きるのも、時間の問題だというのに……)
ずっと遠巻きに見ていた戦士たちなら、今の弱った状態でもどうにでもなる。しかし、”あの三人”はそうではない。いくら体力を奪われたといえど、並の実力ではない。そして、自分が謎のドラゴンと戦っている間、ずっと体を休めていた。この分厚い氷越しに攻撃するなど、造作もないはずだ。今、襲ってこないのが不思議なくらいである。
誰もが皆、エルリッヒのとった行動に頭を奪われ、体の動きがおろそかになっていた。
「さーて、みんなの様子はどうかな?」
今頃は鎧を脱いでくつろいでいるはずである。そんなところに戻ってくるのだから、さぞ歓待されることだろう。まるで自分が和平の使者にでもなったかのような気持ちでマルクト広場にたどり着いた。みんなのいるところまではまだ少しあるが、様子は十分に確認できる。
そこで待っていたのは、思いもしない光景。
「なんで? なんで指揮官がまだあそこにいるのさ!」
もうとっくに消滅していても不思議はないくらいの時間は経っている。それが、なぜまだあそこで氷漬けになっているのだ。一体、この短時間に何が起こったのか。いや、むしろなぜ何も起こっていないのか。全てが不思議でならなかったし、目の前に息も絶え絶えな敵がいるのにそのままにしておくということが、理解できなかった。
「ねえエル、エルがやっつけたんじゃないの?」
「ううん、止めは刺してないんだ。私が倒しちゃったら、みんなのプライドに響くと思って。自分たちで最後は締めた方が、充実感あるでしょ? なのに、なんでかな……」
ゲートムントとツァイネは空と指揮官に目線を泳がせているようだし、長老も何やら考え込んでいる。このまま放っておけば、遅かれ早かれ指揮官は回復して、牙を剥いてくる。それではダメなのだ。
全く、何と不甲斐ないのだろうか。こんなチャンスを放っておくなんて。仕方ない。ここは自分が方向性を示すしかない。もう一度だけ、炎を吐くような気持ちで大きく息を吸い込んだ。そして、力強く叫ぶ。
「お前たちーーっ、何をやっているーー!! 早く止めを刺せーーっ!!」
広場中に響く叫び声が、辺り一帯の空気を吹き飛ばした。突如響き渡ったエルリッヒの声に、誰もが戸惑いを忘れるほどの勢いで今なすべきことに気づいた。
「はっ! 俺は何を! 考えてる場合じゃねぇ!」
「そうだよ。まずはあいつ倒さなきゃ! エルちゃん、ありがとう!」
それは当然、エルリッヒの真意について思案していた長老の思考も吹き飛ばした。エルリッヒ本人が止めを刺せと言うのだから、逃げ帰らせるなど、真意のはずもない。
「お前たち!」
「おう! ツァイネ、まずはあの分厚い氷をなんとかするぞ! 炎の剣で叩っ切れ!」
「わかった!」
星降りの剣を鞘にしまうと、その手で今度は道具袋からオレンジ色の宝石を取り出す。いわゆる、「炎の力」が宿った宝石だ。それを剣にはめ込むと、刀身に赤々とした炎がほとばしる。
宝石の効果が無事に働いているのを確認すると、いくばくか回復した力を振り絞って駆け出した。そして、氷に封じ込められたままの指揮官の目の前に立つと、その姿を冷たく見下ろして、勢い良く剣を突き立てた。
「がはぁ!」
炎は氷を溶かし、鎧をまとっていない指揮官の腹を深く貫いた。間違いなく、この戦いでツァイネが与えた最も大きな一撃である。
次に、後を追うようにこの場にしてやってきたゲートムントと長老が、それぞれ左右に立ち、交差するように鋭く獲物を振り回した。指揮官の血で、辺りが紫色に染まる。
「み、見事だ……人間どもよ。天運をも味方につけるとは……。だが、我の命が尽きようとも、魔王様がいる限り……この世界はいずれ火の海に……!」
その言葉を遮るように、ゲートムントの槍は指揮官の心臓を貫いていた。人間ならここだ、という当て推量で位置を決めたが、どうやらそのあたりの構造は同じだったらしい。指揮官は一瞬苦しそうな表情を浮かべると、すぐに動かなくなった。そして、足先からゆっくりと、黒い霧になって消えていく。
「火の海か。そんなこと、俺たちが止めてやるよ」
まるで決意表明のような一言が、氷塊の上に降り注いだ。氷が溶けるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
〜つづく〜




