チャプター4
〜二時間後 竜の紅玉亭〜
なんどか申請を終え、無事に帰ってきた三人は、心労に少し伏せっていた。入り口で足止めを食ってしまったものの、場内に入ってからは順調だった。
何より大きかったのは、予想どおりツァイネの人脈と顔の広さである。親衛隊に入るという事は、国王自らが人物、忠誠心、そして騎士としての戦闘能力を認めた証であり、辞職に際して親衛隊の青い鎧を下賜されるという事は、辞職した後もその身を保証する、という事である。今回もまた、その力の大きさを改めて思い知った。
普段から分かっていたはずなのだが、効果のほどを忘れた頃にこのような出来事が起こるので、新鮮な気持ちで感心してしまう。
初めは訝っていた審議官も、ツァイネの事に気付いた途端、身分の低い馬の骨達を見るような目つきから、急遽偉大なる騎士とその友人を見るような目つきに変わった。エルリッヒもツァイネも、その様思い出すだけで笑いが止まらない。
「やっぱ、ツァイネってすごいんだね〜。驚いちゃった!」
「だな。……にしても、あの時の役人の顔、思い出すだけでおっかしーよなー。あんだけバカにしてたのに、それがツァイネの顔を確認した途端に目の玉ひんむいて驚いてやんの!」
「二人とも、あんまり笑ったら悪いよ?」
思い出してゲラゲラ笑う二人を、ツァイネがたしなめる。当事者のツァイネは、どちらかというと客観的に接していた。
エルリッヒ達は貴族に見下されたような気持ちになっていたので、より一層の可笑しさがあるのだが、実際に宮廷社会で騎士としてのし上がったツァイネは、少し達観したような目線を獲得していた。一人だけでも、こうしてブレーキをかけるメンバーがいるという事は、やはり大きい。
「だってさ〜、あんな顔するなんて、思わないじゃん! ねぇ?」
「そうそう! それに、あそこまで見下されたら、スカッとするだろ!」
コンプレックスというほど大げさな感情ではなかったが、二人にとってやはり庶民という身分は逃れようのないものであり、他の国民と同じように、貴族に対する憧れを抱いていた。だが、同時に見下される事には敏感だった。
「スカッと、ねぇ。俺には分からないや。感覚が麻痺してるのかもね」
「そっかー、ずっとあそこで働いてたんだもんね、私達とは、感覚が変わっちゃうよねぇ。それより、審査通るかな。これで審査が通らなかったら、泣くに泣けないんですけど」
「だな。それは俺も考えてた。あいつら、なーんか性根の悪そうな顔してたし。庶民だからってだけで落としかねねーよ。ま、そうなったら抗議だけどな」
物騒な事を言っているが、二人にとってはそれだけ心配な事だったし、審査官の印象は悪かった。もちろん、この国には話のわかる貴族もいて、あの様な貴族ばかりでない事は百も承知だったが、少なくとも、あの場にいた面々は、きっと選民思想にまみれているのに違いない、と思っていた。
「だからー、大丈夫だって。帰りの道すがら説明したでしょ? 俺の身分は、陛下の信任を受けた上で保証されてるんだ。俺の申請を蹴るって事は、陛下の信用を疑うって事だからね。これはもう、国家反逆罪といってもいいよ。でもって、その友人である二人の身元も、疑っちゃいけないのさ」
「なっ! ツァイネ、それが分かってて! む〜!」
「ひでぇ! ひでぇよ! 俺たちの心配はなんだったんだ!」
無邪気な顔でケタケタと笑うツァイネの姿はあどけなく、とても名うての戦士には見えない。だが、その実力も、身分も、まぎれもない本物だ。そして、同じ平民という階級社会の末席にいるのにこれなのだから、恐ろしい。
「まあまあ。あんまり俺がこういう話をすると、二人とも態度が大きくなりそうだったからさ。貴族の中には、俺達平民を見下してる人も確かにいるよ? でも、俺達自身が卑屈になったら元も子もないし、大きな態度になっても、感じ悪いでしょ? せめて自分達くらいは綺麗な心根でいなきゃ」
なんと清い心の持ち主だろうか。世俗にまみれ、ギスギスしていた自分達が恥ずかしくなる。ともすればドロドロしている貴族社会を知り、親衛隊を辞してからも盗賊や猛獣相手の血なまぐさい世界に身を置いているというのに、どうしたらこのように清浄でいられるのか。
二人は気にせずにはいられなかった。
「ツァイネ、お前……」
「本当は聖人の生まれ変わりなんじゃないの?」
「ちょっと、何言ってるのさ。聖人とか飛躍しすぎでしょ。俺はさ、陰謀渦巻く世界を見てきたんだ。だから、自分の心はしっかり保っておかないと、これはダメになりそうだなって思ったんだよ。で、二人にも、あんまり下衆な気持ちで相対して欲しくないなって思ってさ。余計なお世話かもしれないけど、二人は俺にとって大事な存在だから」
心に突き刺さった。まさにそんな言葉が相応しかった。照れるでも恩着せがましくなるでもなく、さらりと言った言葉だったが、二人の心には、大きな衝撃が走っていた。人はこういう時、自己を省みるのかもしれない。
「ツァイネ、ありがとう! 私、大事な事を思い出したよ!」
「俺もだ!」
「え? え?」
そんなに大層な事を言ったつもりはなかったのに。二人はツァイネの手を取り、その感動を訴えた。素直に喜んでおけばいいのだろうが、やはりどこか違和感が残る。
「い、いや、俺……」
今のところ、違和感は戸惑いという形でしか表現できない。二人の心に何かしらを残したという事は、望外の結果になったが、それにしても度合いが大きすぎた。
「いや、みなまで言わないで! 分かってるから!」
「そうだぞ!」
掴んだ手に力を込め、一歩、また一歩と詰め寄ったその瞬間、ドアをノックする音が響いた。
「あれ? 誰だろ。今日はお休みにしてるのに」
珍しく来客だろうか。平静に戻ったエルリッヒは、ドアまで向かい誰かしらを出迎える。後に残ったのは、手をつなぎ見つめ合う格好になった、ゲートムントとツァイネ。もちろん、二人に男色の気はない。
「はーい、どなたですか〜?」
警戒心を見せる事もなく扉を開け、相手を確認する。すると、そこに立っていたのは、一人の兵士だった。紛れもなく、王城勤務の兵士だ。それが証拠に、目の前に立っている兵士は、城内警備をしていた兵士と同じ鎧を着ている。
自分より背が高い事もあり、逆光になってしまい暗くて相手の顔がよく見えない。それが、無用な威圧感を生み出している。
一瞬、身構えてしまう。
「あの、お城の兵士さんが何の用でしょうか」
「あー、エルリッヒ・フォン・ドラシェケーニッヒ殿の家はここでよいかな?」
声からするとまだ若いだろうに、妙に年寄りじみた話し方をするものだ。そして、どうやらここを訪れたのは間違いではないらしい。国外渡航許可の申請が降りるのは、早くても明日という事なので、その結果ではないだろう。であればなんだ。考えられる事は一つである。
『書類に不備があった』
嫌な予想が脳裏を駆け巡る。
「娘、どうなのだ? ここでよいのか、よくないのか、どっちなのだ?」
「あー、ここです。私ですけど、なんの用でしょう。答えてもらってませんよね?」
威圧感はあるが、簡素な鎧にやり一つ携えただけの兵士など、恐るるに足りない相手だ。恐れる事なく詰め寄る。
対する兵士は、その様子に怒ったりはせず、逆に少しばかり困ったような表情になった。どうやら、頭ごなしに見下してくるような輩ではないらしい。それだけでも、エルリッヒの警戒心が少しずつ溶けていく。
「とりあえず、中に入れてはくれぬか。このような往来で話をしていては、近隣の住民に疑われかねん」
「まあ、そういう事ならいいですけど」
渋々といった様子は崩さずに、中に通す。中にはゲートムントとツァイネがいる。兵士の持ってきた話がなんであれ、どうにでもなるだろう。そう踏んでいた部分もあった。
「かたじけない」
これまた堅苦しい物言いで礼を言うと、エルリッヒに付いて中へと入って来た。
「さ、それじゃあ話してください。なんで来たんですか?」
とりあえずは槍を壁に立てかけさせ、そのまま客席に座らせると、早速本題を促した。一体何用でここへ来たというのか。申請書類の件以外、庶民の自宅兼食堂を訪ねる理由など、何も思い付かない。
「先ほどそなた達が出した国外渡航許可の申請について参ったのだ。要件と言ったら、それ以外にないだろう?」
「じゃあ、やっぱり……」
不備があったのかと、意気消沈してしまう。そもそも、窓口で書くだけで、こちらから持って行く物は何もないのだから、不備も何もあったものではないのに、どういう事か。若干落ち込んでいるエルリッヒには、そこまでは頭が働かなかった。
「何がやっぱりなのだ。他ならぬツァイネ殿とそのご友人の申請、わざわざこうして、最短で許可証を渡しに来たのではないか」
「ほらやっぱり。って、今なんて。許可証? じゃあ!」
事の次第は分からないが、兵士が腰に下げた筒から取り出したのは、紛れもなく国外渡航許可証だった。もちろん、三人分である。
「ここだけの話、あの申請は、民間人からの申請など通さぬ。だが、ツァイネ殿の申請とあれば別だ。断れば陛下の信頼をないがしろにする事に繋がるのだからな。形だけの審査すら行われなかったと聞く。口頭では説明したのだろう? だからか、書類は内容も見ずに承認印だったそうだ。それで、こうして審査官殿直々の命で、この私が届けに参ったのだ。分かったか?」
「はい、分かりました」
「よっしゃ! これで外国へ行けるぜ!」
「だね! 兵士さん、名前は知らないけど、ありがとうございます。俺からも、審査官殿にお礼を言っておいてください」
ツァイネが声をかけると、兵士の表情が一気に固くなった。
「いえ、こちらこそ、噂に名高いツァイネ殿にお声をかけていただき、恐悦至極にございます! ツァイネ殿の名声は、親衛隊を辞した今も城内に轟いており……」
「あはは、そういう堅苦しいのはいいって。だから辞めたんだし。それより、ちゃんと受け取ったから、早く戻ってちゃんと届けたって事を伝えてあげなきゃ。向こうだって、今頃肝が冷えてるかもしれないしね」
さすがは勝手知ったるツァイネ。こういう時の「次の仕事」も分かっている。兵士は嬉しそうに一礼をすると、猛スピードでお城へと帰って行った。
「は〜、こんなに早く手に入るなんて!」
「だよなぁ!」
「嬉しいのはわかるけど、これからが大変なんじゃないの? 旅に出る準備、これからでしょ? 道中だって何があるか分からないんだし。とりあえず、これは俺が預かっておくから、各自準備をしよう。エルちゃん、出発は三日後でいい?」
テキパキと段取りを決めていくツァイネのなんと頼もしい事か。二人はただ、頷く事しかできなかった。
「それじゃ、今日はこれで解散にしようか」
「うん、そうだね」
「あー、楽しみだぜ!」
三者三様、という以上にはまとまった気持ちで、二人は帰って行った。エルリッヒも、旅支度をせねばならない。
「よーし、張り切っちゃうぞ〜!」
勢いよくジャンプしたその瞬間、街に小さな地震が起こった。エルリッヒの力が、思いがけず出てしまった事は、言うまでもない。
それほどまでに、この旅立ちが楽しみだった。
〜つづく〜




