チャプター19
〜ドナーガルテンの街 長老の屋敷・正殿〜
久しぶりに大笑いし、ひとしきり懐かしい時間を過ごすと、エルリッヒはすっと立ち上がった。そして、長老の顔を見上げて呟いた。
「お互い、遠くまで来ちゃったね」
「本当に」
短く答えたそこに、数え切れない思いと時間が籠っていた。まさか再開までに百余年を要するとは思わなかったし、魔王が滅んでからもまた百年の平和が続くとは思っていなかったし、そして何より、長老は街とギルドの長として重要な存在になり、かたやエルリッヒは夢を叶え食堂を営んでいる。概ね思い描いた通りの未来、希望した通りの未来に、そこそこ満足している。そんな気持ちは、語らずとも十分に伝わってきた。
「そういえば長老、子供は?」
「五十年ほど前に生まれた息子が一人おります。今はギルドに所属し、その腕をふるっております」
「そっか。じゃあ、跡取りだ。よかったじゃん」
竜人族にとって齢五十はまだ若者だ。きっと、相当な使い手に違いない。いつか会う日が来るのか、その腕前を知る機会に恵まれるのか、それはわからないが、考えただけでも楽しみだった。
「長老の椅子を継ぐのは、優秀な者であればだれでも構いませぬがな」
「うん、そうだね」
客観的に今の地位を眺めているようであり、暗に息子のことを推しているようでもあり、それが微笑ましくてつい目を細めてしまう。
事実、この街の長老に求められるのは街の長、ギルドの長、そして優秀で心根の正しい戦士という、三つの素養だ。これを満たす者はなかなかいない。長老が今この座に、それも長いこと就任しているのは、ギルドの発起人が街を守った中心人物であり、優秀な戦士として、いやさ街の英雄としての実績があったからに他ならない。それまで街の人たちがなんとなく治めていたところで、より強固な防衛体制を持つという目的も兼ねて、街の長を立てたに過ぎない。自治制度そのものが未成熟の段階だったのだ。そして、長老は竜人族ならではの長寿を以って見事その重責を成し遂げた。
まだ若い者には任せられず、人間ではその寿命に不安があり、かといって龍神族だから良いというわけでもない。後継者選びは、本当に難しいのだ。
「この座を息子に託せたら、確かに安泰ですがな、重い席であるが故に、不安も多いのです。この街とギルド、二つのトップに同時になるのですから」
「でも、適任者がいるわけじゃないんでしょ? それとも! 誰か目をつけてる人が? いるんならいいけど……」
長老の口ぶりからは、息子をまだまだ未熟だと思っていることが伝わってくる。しかし、人間でいえば五十歳といえば壮年であり、もう引退を考える年齢だ。それを未熟者とは、なんとも手厳しい。
「めぼしい人材がいる、というわけではないのですがな。それに、我々竜人族はどうも人間族よりも長く生きる分、精神の成長もゆっくりなようですしな。息子も、まだまだ小童ですわ。ワハハ!」
「そっか、そういうもんなんだねぇ! て、人のこと言えないじゃん! わたしゃもう数えてるだけで四百年は生きてるってのに! 未だに大人になりきれないよ。とほほー。なんなんだろうねぇ」
もしかしたら、寿命の違いが直接影響しているのかもしれない。そうは考えるものの、経てきた経験は人間の何倍もの年月だ。それは嘘をつかない。信じれば信じるほど、自分の血肉となっていくはずなのに。はたと考えてしまう。
「心が若いと思えば、良いではありませんか。息子が未熟に思えるのは、身内だからかもしれませぬしな。エルリッヒ様のこの百年も、無駄ではなかったのでしょう?」
「そりゃ、確かにね。人間社会に馴染むのは大変だったし、今だって苦労してるし、そのための年月だし。この三百年はさ、特にいろんなことがあったんだよ」
平和な時代を経て、魔王が登場し、台頭し、それを伝説の勇者が討伐し、そこから再び訪れた平和な時代。時代ごとの立ち回り方、怪しまれないタイミングでの転居、苦労が絶えなかった。そんな経験のすべてが活きているはずだった。
「あ〜あ、まだまだ経験しなきゃね」
「そうですな。まだまだ退位できませんわい」
吹き抜けの空を見上げ、漠然とした自分のちっぽけさ、未熟さを感じながら雲を追いかけていた。
不意に訪れる、世の中に対して謙虚になれるこういう瞬間が好きだった。なんのために住処を、そして竜社会を飛び出したのかを思い出させてくれる。
「よしっ、そろそろ行こうかな。長老、昔話に付き合ってくれてありがとね」
「こちらこそ、久しぶりに楽しい時間を過ごせました。ここを訪れてくれて、感謝いたします」
旧交を暖める時間はこれで終わり。ここを後にしたらゲートムントたちと合流しよう。彼らはすぐにこの街に馴染むだろうが、だからこそ、一緒にいたら楽しいに違いない。
「あ、そうそう、大臣たちによろしく言っといてね。無理言って退室させちゃったし、絶対私のこと怪しんでるだろうから」
正体は秘密のままでね、と言い含める。長老に正体を明かしているのは、それ相応の経緯があり、時代背景があってのことなのだ。今この時代には、明かすべきではない。それは無用な混乱を招いてしまう。
「承知いたしました。他の面々はともかく、頭の固い大臣を納得させるのは、なかなか骨が折れそうですがな。優秀なのはよいのですが、なにぶん堅物で」
「あははー。わかる。下にいた護衛の人も、なんか頭の固い感じだったし。あれって、やっぱりそういう教育なの?」
乾いた笑いの後に浮かぶ疑問。しかし、長老は苦笑いとともに大きく手を振り否定する。
「いやいやそのようなことはありませんぞ。ギルドの風には合いませんからな。ただ、ここを、そして長老の椅子を守ろうとするあまり、つい必死になってしまうのでしょう。ありがたいことです」
後進が育ち、組織が発展していった結果のことなのだろう。そして、人間族であれば黎明期のギルドなどは知らない。まだ若く、自身もことあるごとに剣を携え魔物と対峙していた頃の長老を。
今の若者には、その頃の逸話ばかりが伝わっている。巨大な竜の尻尾を一太刀で切断したとか、魔物の吐き出す火炎を大きなうちわで扇いで消し去ったとか、悪魔と取っ組み合いをしてその腕をへし折ってやったとか。荒唐無稽な逸話は、結局のところはギルドや町人たちが長老を尊敬するあまりに生み出した与太話がほとんどではあったが、慕われることは悪いことではない。だから長老も否定したり怒ったりはしていないが、噂が一人歩きしている現状は、少しばかり面映ゆかった。
「みんな、長老が好きなんだね。この街の支柱か、うんうん、すごいよ」
「あの頃のエルリッヒ様の助力は、忘れませんぞ? 間違いなく、今のこの街の形成とギルド組織には必要だったのですから」
改めて言われると照れるが、細かく数えればきりがないほどの武勲はあげていた。そして、それが直接街の治安維持につながるような時代だったし、エルリッヒの活躍自体がギルドの功績として見られていたのだから、決して持ち上げているわけではなかった。だからこそ、余計にこそばゆい。心の内は常に市井の娘なのだから。
「おっと、別れ際に話し込んじゃ悪いね。それじゃ、行くね。街を出るときにはまた、今度は三人で挨拶に来るから。あと、それまでに何かあったら、そのときはよろしく。って、何もないか」
「南の国の猛者とやらですか。顔を見るのが今から楽しみですわい。それでは、よい日々をお過ごしください」
エルリッヒの方が偉いと言っても旧知の仲、長老は軽く手を振るだけで見送った。そんな様を、等のエルリッヒは振り返りもしない。どうせまたすぐ会えるのだから。別れを惜しむのはそのときでいい。
そんな前向きな気持ちで、大階段を下りていく。きっと今頃は、大臣が我先にと戻ってきて、長老に説明を求めている頃だろう。考えると、急におかしくなった。
〜つづく〜




