チャプター2
〜竜の紅玉亭 昼下がりの準備中〜
大きな叫び声を上げたところで驚きのエネルギーを発散したらしく、二人は冷静さを取り戻していた。
それを待ち、エルリッヒが事情を説明する。
「ーーだから、せっかくだからこのフライパンを打ってくれた職人さんのところで鍛え直してもらおうかなって思ってさ」
「そっか、そういう事だったんだね」
「驚いちまったよなぁ。確かに、そのフライパン特殊な鉱石でできてそうだもんなぁ。それなら、俺達が護衛しないとだよな!」
この国では、国外まで出かける人はほとんどいない。ルーヴェンライヒ伯爵家が取引しているような一部の商人や、エルリッヒのような国外から来た旅人くらいである。当然、その人数は少なく、ましてこの国で生まれ育った、生粋の民はほとんどいない。だから、外国へ赴くという話には、自然と驚きの声が上がる。
「じゃあ、付き合ってくれるって事で大丈夫?」
「もちろん!」
「任せとけ!」
二人は安易に返事をした。お願いをしたエルリッヒ当人が見ても感じるほどの、安請け合いである。どこにあるどんな国どんな街に行くのか、そこまではどういう旅程で、往復にどれくらいの日数を掛けるのか、などなど、承諾する前に確認しなければならない事は山ほどあるだろうに。
それだけエルリッヒとの三度目の旅が魅力的なのか、スケジュールに余裕があるのか、未知の危険に対して自信があるのか、はたまたまだ見ぬ異国に好奇心が湧くのか。
いずれにしろ好都合だった。この二人なら渋る事はあるまいと踏んでの事ではあったが、同時に、旅の安全が確保され、道中の楽しみが増えた。結果オーライである。
「で、エルちゃん、それはどこの国なの?」
「俺達、この国から出た事ないんだよ」
今更か。心の中で小さく呆れつつも、必要な説明はしてあげなければならない。あいにくと世界地図のようなものは存在せず、ここには羊皮紙もペンもない。前にフォルクローレからもらった紙も、とうに使ってしまった。果たして、口頭での説明だけでどこまで伝えられるか。
「えーと、じゃあどこから説明しようかな。全部伝えると面白くないから、大事なところだけね。行くのはここから北にある国で、船に乗って行くから。片道一週間くらいの、結構近いところだよ。北の港町の、なんて言ったっけ、えぇと、そうだ、ノルドハーフェン。そこから船に乗って行くんだよ」
「なるほどね。その街は俺達も行った事あるけど、いい街だよね」
「でもよー、船に乗るなら、乗船券買わねーとだし、何より、国外渡航許可を取らなきゃだぜ? エルちゃん、その辺大丈夫だよな?」
体育会系の典型のようなゲートムントの口から、珍しく難しい単語が飛び出した。
「国外……渡航……許可? 何それ私知らない」
不意に思い出した。この国にやって来てから数年、一度も外の国には出ていなかった。国外からの移民には寛容でも、国外への移動については何も知らなかった事にも、気付いてしまった。
「ちょ! エルちゃん知らないで提案してたの? ゲートムント、説明してあげてよ」
「お、おう、そだな。って、お前が教えてあげればいいだろうに、ったく。国外渡航許可ってのは、まあそのまんま、外国に行く時に必要な書類なんだよ。国外から来た商人が帰る分にはそういうのいらないんだけどな、俺達みたいな、この国の人間が外国に行く時には、絶対持ってないといけないんだ。陸の関所や船着場で役人に見せないと、密航者扱いされて投獄されちまう。って感じなんだけど、わかったかな」
「う、うん、分かった。あ、でも、私外国から来てるしいらないんじゃ!」
動揺のあまり、いい加減な事を口走ってしまう。が、二人の表情が芳しくないのを見て、すぐに浅はかな考えなのかと思い知る。
幸か不幸か、エルリッヒはもうとっくに、この国の住人なのだ。旅人や商人のように、短期間滞在するだけの人間ではなく、この国に何年も住んでいる。そういう人間は、基本的にこの国の人間として登録される。人柄や生活のアテさえしっかりしていれば、出自や来歴を詳しく話せないエルリッヒのような身の上でも受け入れてくれるのが、この国のいい所なのだ。それが、こんな形で裏目に出ようとは。
「じゃ、じゃあさ、どうすればその許可証はもらえるの? どこに行けばいいの?」
知らないという事はすなわち弱さだ。普段必要のない知識だから仕方がないとはいえ、国外から来て生活している以上、そういう事は知っておいてもいい知識だった。自分が少し恥ずかしい。
「そうだなぁ、発行はお城でしてもらうんだっけか。ツァイネ、知ってるか? 俺、普段必要がねーから、そこまでは詳しくねーんだわ」
「えぇ? 冒険者ならそこは知っておこうよ。いつ国外に行く依頼を受けるかわからないんだよ? しょうがないなぁ。許可証の発行は、ゲートムントが言ったようにお城に行くんだよ。お城にそういう窓口があるから、目的地と目安の期間と目的を説明して、今度はそれを元に審査されるんだ。といっても、二日以内には結果が通知されると思うよ。何しろ申請する人がほとんどいないから。やましい事じゃなきゃ、案外簡単に取れるって聞いたけど」
さすがは元親衛隊である。城内の事についてはやはり詳しい。しかも、意外と簡単に許可が下りるというのであれば、万々歳だ。自分の無知は恥ずかしいが、それほど悩む事でもなかったのかもしれない。
「じゃあ早速申請に行こう!」
「ちょっと待って。話はまだ終わってないんだ。案外簡単に許可が下りるとは聞いたけど、そもそも申請するのは貴族か、貴族や王室からの依頼を受けた御用商人だったりするからね、俺達みたいな平民が申請した場合は、もっと難しいかもしれない」
「げ、なんだよそれ。元親衛隊員のお前の顔も通じねーのか? あの青い鎧を来て、元親衛隊所属の騎士ですって言いやぁ、すぐに審査してくれるだろ。それか、一応俺やエルちゃんも王様に顔と名前を覚えてもらってるんだ、その辺の事を匂わせれば、どうだ?」
などと、ゲートムントがもっともらしい裏口申請を提案してみるが、ツァイネは意外なほど神妙な面持ちで、首を左右に振った。
「ゲートムント、よく聞いて。国家が繁栄して、治世を続けていくのに危険な事がなんだかわかる? 国の機密や宝を、外国に持ち出す事なんだよ。ここの審査官は、それこそ末は大臣を約束されているような人達で、何しろ普段は閑職だからね、いざ申請が来たら、それこそ張り切って審査すると思うよ。下手をしたら、俺達の事を勝手に調べて審査材料にするかもしれない」
ツァイネからもたらされる話は、どうにも不安材料ばかりだった。慎重に慎重を期す、という事情は理解できるが、初っ端からこれでは、前途多難だった。
「じゃあ、八方ふさがりじゃないか……」
せっかくまたエルリッヒと旅ができると思ったのに、出鼻をくじかれたようで、すっかりうなだれてしまうゲートムント。
「ゲートムント……」
そんな様子を見て、こちらも心苦しそうなツァイネ。彼はお城の内情に詳しいだけに、安易な気休めが出てこなかった。
しかし、二人のそんな様子に、エルリッヒは一人息巻いていた。
「二人とも、何もしないうちから落ち込まないでよね! まずは、申請して審査してもらわない事には何も始まらないし、落ち込むのはまだ早いって事でしょ! 申請自体が簡単なら、やりようはあると思うんだ。王様とのコネは使えないにしても、ツァイネの肩書きが無条件許可に繋がらないにしても、ね」
「って言うと?」
旅の主役であるエルリッヒが諦めていない事で、再び場の空気は明るく、そして軽くなる。このポジティブな姿勢こそが、三百年余りを生きてきた秘訣であり、王女としての安楽な生涯を捨ててまで価値観の違う人間社会に溶け込もうと飛び出した原動力なのだ。
「まず、ツァイネは肩書きがどうであれ、元親衛隊所属の騎士でしょ? 親衛隊に入るには、騎士としての実力と、王様や国への忠誠が要求されるんだよね。て事は、身元の保証は十分。まして辞める時にあの青い鎧を返さなくていいのは、特に信頼が厚い証拠だって教えてくれたくらいだから、身元を調べれば、断る理由は見つけにくいはず。何しろ、王様の信頼にケチをつける事にもなりかねないからね。次にゲートムント。ゲートムントは庶民の出身だし、根っからの戦士だから、普通に審査されるだろうけど、ツァイネのそばにいるだけで、信頼のおこぼれに預かってるようなもんだと思うんだ。だから、大丈夫。んで、私なんだけど、外国から来たって言っても、前は西の国から来たし、今回は北の国に行くわけだから、その辺が心配。ただ、最悪ルーヴェンライヒ伯爵の権力にすがる事もできるかなーっていう打算はあるんだ。身元や人柄の保障くらいは、してくれそうでしょ? という事で、まずはお城に向かおう! 全てはそれからだよ!」
ひとしきりの根拠を説明し、勢いづけるために、再びフライパンを手に取り、その手を高く突き上げた。快活なエルリッヒの姿を見ているだけで、男二人は自然と元気が湧いてくる。先ほどまでの慎重なムードも何処へやら、すっかり楽天的な空気が支配していた。
「そうだよな、やる前からどうのこうのって、俺達らしくないよな!」
「ちょっとゲートムント、君はそうだろうけど、俺は違うからね? ったくも〜」
呆れつつも楽しそうな声からは、二人のお互いに対する信頼が見て取れた。大丈夫だ、この旅は絶対楽しいものになる。
エルリッヒの胸には、そんな予感めいたものが去来していた。
〜つづく〜