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幕間:一夜のできごと

〜帆船マリアテッセ号 甲板〜



 夜、食事を終えた一行は各々船室に戻り、自由な時間を過ごしていた。男衆が何をしているかは知らないが、エルリッヒは一人甲板に出て、その舳先に立って夜風に当たっていた。

 王都よりも北に位置するこの海峡だが、北部の火山地帯や、これから向かう国の火山気候など、火山が多いため、気温は高かった。それだけに、吹き付ける潮風がとても気持ちいい。

「ふー、まだ寝るなんてもったいないし、外に出て正解正解♪」

 見上げると、星空が美しい。王都と比べても街の灯りがない分、より星が輝いて見える。まさに、満天の星空だ。そして、甲板に視線を移すと、そこは船窓からの灯りが漏れており、多少明るくなっていた。甲板自体に灯りはないものの、夜目の効く人間には、これでも十分だろう。

 辺りには、幾人かの乗客が出ていた。やはり皆同じように、風に当たりに来たのだろう。皆一様に、心地好さそうな様子をしている。

 しかし、その中に混じって、かすかに嫌な声が聞こえてきた。明らかな、嘔吐のうめき声である。

「あぁ……誰か船酔いしたのか」

 と、気の毒に思いながら小さく呟く。外に出ている乗客の中にも、船酔い対策で風に当たっている者はいるかもしれないが、人によっては潮風特有の匂いですら、酔いを加速させてしまう。まして今は食後であり、一番危険な時間だ。いくら大して揺れていないと言っても、ダメな人間は、はなから酔いやすいのだ。本当に、気の毒としか言いようがなかった。

 当のエルリッヒはと言えば、経験上船酔いには強いようだったが、そもそも本来の姿に戻ってしまえば、船など目ではないほどの速度で飛び、あまつさえ船ではたとえ大きな嵐に巻き込まれたとしても経験できないような、曲芸飛翔すらやってのけていた。それを平然とこなしているのだから、考えれば船程度の速度、揺れで酔うなどと、ありえようはずもないのだった。

「ん〜、気持ちいい!」

 進行方向は真っ暗闇で、何も見えない。おそらく、何があってもそれを判別することはできないであろう、漆黒の世界が広がっていた。それでも構わず航行できるのは、船乗りの勘と経験がなせる技に他ならない。そういう、人間の偉業を感じとるだけでも、十二分にワクワクしていた。

「あの声さえなきゃなぁ……」

 相変わらず耳に届く、嗚咽。しかも、この声には覚えがある。

「……ゲートムントだ」

 まぎれもないその声は、まさしくゲートムントのもの。声の距離感からすると、船の最後尾だろうか。できるだけ迷惑をかけない場所でという事なのかもしれない。果たして、行くべきか、放っておくべきか。

 腕を組み、少しの間悩んだ。

「う〜ん……私だったらいくら親しい相手でも、吐いてダウンしてる真っ最中に声かけられたら嫌だしなー。でも、あの二人だったら、救いとか癒しとか言い出しかねないしなー。わからん! こればっかりはわからん!」

 格好の悪いところを見られて、プライドを傷つけても気の毒だ。かといって、その場に立ち会って背中でもさすってあげれば、喜ぶかもしれない。体は楽にならなくても、精神的には違うはずだ。

 この二つの葛藤について思案した末、ゆるく結論を出した。

「ま、声をかけたりはしないけど、楽になるまでは付き合ってあげるよ」

 夜風に当たりながら、ゲートムントが楽になるまで待つことにした。多少時間を要しても、それは一向に構わない。吐けば吐いただけ楽になるだろうから、楽になって船室に戻ろうとする頃にでも声をかけてやれば、それで十分だろう。そんな算段をした。

「どんどこ吐いて、楽になっちゃいな〜。ご飯が無駄になっちゃうけどねっ」

 ついつい食事のことを気にするのは、エルリッヒの職業病だった。




ー30分後ー



 辺りの乗客が部屋に戻り始めた頃、ようやくゲートムントの嗚咽が大人しくなってきた。出すものを出し切った、ということだろうか。

 遠くに聞こえる息遣いは荒く、嘔吐に要するエネルギーの大きさを浮かばせた。

「さてと、そろそろ出番かな」

 長らく陣取っていた船首から離れ、ゲートムントのいる船尾へと向かった。声の様子からだと、まだ動いている気配はなく、船酔いとの折り合いをつけているところなのだろう。迂闊に部屋に戻って、また酔いが再来したのでは、意味がない。それならばいっそ、まだこの場に止まって、次に来る波を迎え撃った方がよほどいい。真意はわからないまでも、当たらずとも遠からずといったところだろうと判断した。

「お客さん、だいぶ減ったなぁ。時間も時間だしなー」

 甲板を歩く乾いた音が響く。さっき出てきた時は、みんなの話し声でかき消されていたのに。部屋に戻ったみんなは、もう寝てしまうのだろうか。明日は明日で、到着予定は昼過ぎだというのに。

 そんなことを考えながら歩いていたら、いつしか船尾に着いていた。着ている物が黒いから、夜闇に紛れて見付けづらいが、夜目の効くエルリッヒには関係なかった。紛れもなく、そこで柵につかまりながらうずくまっていたのは、ゲートムントその人である。

 一応、声をかける前に大丈夫そうかを計る。声をかけていきなり嘔吐されたのでは、たまった物ではない。

(相変わらず息は荒いけど、これくらいならいいか……)

 エルリッヒが歩き出してからこっち、一度も吐いた様子はなかった。やはり、予想通りに一段落したのだろう。

「ゲートムント」

 一歩ずつ近づきながら、さりげなく声をかける。あくまでも、迷惑にならないように、機嫌を損ねないように。そして何より、船酔いを再発させないように。

「っ!! エ、エルちゃん!」

 突然の声に、驚きを隠せない様子のゲートムント。しかし、度重なる嘔吐の疲労からか、相変わらずぐったりとしていて、その場から動くことも、居住まいを正すこともできないでいるようだ。

「あー、いいからいいから、そのままそのまま。楽にしてて」

「楽にったって、こっちはクタクタだよ。それより、なんでここに?」

 疲れ切った様子のゲートムントは、会話をするのも大変そうだった。あれだけなんども吐けば、それはそうだろう。喉も痛めているはずだ。

「風に当たってたら、聞き覚えのある声がするじゃん。しかもなんか吐いてるし。辛い時に声を掛けても悪いかなー、と思ってさ。少しは楽になっただろうから、様子を見に来たってわけ。ホント、大丈夫?」

「いや、正直あんまり大丈夫じゃねーわ。さっきまで吐いてたくらいだし。せっかくの晩飯も全部パー、カッコ悪りぃ」

 話をしながらも少しずつ復調しているようではあったが、なにぶん船酔いを治そうというのに船上では限界がある。心底かっこ悪そうにしているゲートムントの姿が、少しばかり自嘲気味に見えた。

 いい格好をしていたいという気持ちはわからないでもないが、そこまで自分を飾る場でもないだろうというのがエルリッヒの正直な気持ちだった。

「船って初めてなの?」

「もっと小さい、こう、小舟みたいなの乗ったことあるんだけど、その時は平気だったんだよ。だから、これも平気だと思って過信してたわ。もしここで海の魔物でも出たらと思うと、ホント情けねぇー」

 いいところを見せたい、という気持ちと同時に伝わってくる、戦士としての誇り。いついかなる時でも敵襲に備えて万全でありたいという気持ちが、あっさりと船酔いに負けてしまった。そのことで、自尊心を砕いてしまったのだろう。自信過剰になるよりはいいのかもしれないが、こんなことで落ち込まれては先が思いやられるし、何より今の姿が、少しかわいそうでもあった。

「まぁまぁ、元気出しなよ。旅はまだ長いんだし、船酔いなんて、しょーがないじゃん。克服できればいいんだろうけど、それも人それぞれだし。とりあえず、吐く物は吐いちゃったんでしょ? だったら、寝てれば朝だし、少しは楽になるって」

「そういうもんか? エルちゃんはなんともないんだな、羨ましいよ。こんなんじゃ、何かあっても守れねーじゃん。でも、ありがとな。ここで話して、だいぶ楽になったわ」

 少しだけ余裕が出てきたのか、表情も和らいできた。足元に放り出されていた水筒を手に取ると、中の水を口に含み、ひとしきりゆすぐと、そのまま海上に吐き出した。うがいの一つもしなければ、不快感に耐えられないと言ったところだろう。

「それじゃ、とりあえず部屋に戻るかな。寝れば少しは楽になる、だろうし……」

 自信なさげな声からは、船酔いに対する絶対的な恐怖心が感じられた。この手のトラウマは、一度植えつけられてしまうとなかなか払拭できない。ましてもう大人だ、大きくなったら克服、というわけにもいかない。

「無理しないで向き合うといいよ。さ、戻ろう」

 ゆるりと立ち上がったゲートムントに、そっと手を差し伸べる。

「……ありがとな」

「いえいえ、苦しんでる友達を助けるのも、務めでしょ?」

 にっこりと笑みを浮かべ、答える。それは、薄暗い中でもはっきりとわかるものだった。

 まるで救いを求めるかのように、差し出された手を掴む。自分より軽いはずのエルリッヒの体は、少しも揺らぐことなくこの身を引き上げてくれた。それほどまでに、衰弱しているのだろう。

 触れた手の温かさが、とてもありがたい。

「部屋まで戻れる?」

「柵に掴まりながらなら、なんとかな……」

 さっきまで吐いていた上に、そもそも船酔い体質ということが明るみになってしまった。ただ甲板を歩くだけでも、ふらふらだ。わずかな船体の揺れすら、脅威となってゲートムントの三半規管を襲う。

「あーあー、そんなんじゃ心配だよ。ほら、肩貸して」

「えっ? ちょ!」

 けが人を運ぶように肩を貸してくれるエルリッヒ。確かに、はるかに安定して歩ける。物理的な安定はもちろん、精神的な安息も大きかった。

 時折視界に入る赤い髪や、潮風に紛れて鼻腔をくすぐるエルリッヒの香りに、ついつい鼓動が高鳴る。図らずも、それが船酔いを紛らわせるのにちょうどよい効果を発揮していた。

「まーったく、どれだけ吐いたわけ? ふらふらじゃん」

「面目ない。後、このことはツァイネには秘密にしてくれ。頼む!」

 それが、疲れ切った心から出た、精一杯の強がりだった。こんな恥ずかしいところは知られたくない。

 考えただけでもカッコ悪くて死にたくなってくる。その気持ちを知ってか知らずか、エルリッヒはゲートムントの顔を見ることもなく答えた。

「いいよ」

 そうして、二人は船室へと戻って行った。




 港への到着は、翌日の昼である。

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