チャプター1
おじさんの浮気疑惑事件から3ヶ月、王都にもようやく春の兆しが訪れていた。花の季節である。
竜の翼ははためかない 〜竜の炎よりも熱いモノ〜
王都南側に位置するコッペパン通りにある食堂、「竜の紅玉亭」は、いつものように賑わっていた。お昼時と夕飯時、それぞれの営業時間になると、近所の住人が訪れる。最近では、コッペパン通りから離れた通りに住んでいる住人までもが訪れているようになっていた。
それというのも、職人通りに居を構える錬金術士のフォルクローレや、冒険者が集うギルドでも腕利きと評判のゲートムントとツァイネの二人などが、しきりに宣伝しているというのだ。当然、店主であるエルリッヒはそのような事は頼んでいない。あくまでも、自主的な宣伝である。
とてもありがたい事だったが、反面手が足りなくなったり、食材が足りなくなったりするので、あくまでも一人で切り盛りできる範囲が一番だとも思っていた。
そんなエルリッヒは、最近厨房で首をかしげることがある。といっても、常連客しか気付かないような、かすかなものだったが、確かに首を傾げていた。
それが何故なのかは、誰にも話しておらず、当の本人しか知らない事だったが。
今回の物語は、そんな春先の出来事である。
「う〜ん……」
昼下がり、午後の準備時間を迎えた食堂で、エルリッヒは一人唸っていた。手にはあのフライパンが握られている。あまりの重量に、戦士であるゲートムントですら持ち上げる事ができなかったほどの、あのフライパンである。料理人としての友であると同時に、旅人としての、重要な武器でもあった。
「やっぱりそろそろ限界かなぁ」
右手でフライパンをぶんぶんと振るいながら、しきりにその底を見つめている。最近、どうもすり減ってきたような気がするのだ。お客さんが増えた事以上に、長い事使ってきたのが原因だろう。そもそも、この手の調理器具はさほど長く使うようなものでもない。古い物を下取りに出して、ある程度の期間で新調するのが一般的なのだ、それを百年近く愛用するというのは、もはや常軌を逸していると言ってもいい。それだけの使用に耐えうる物だった、という側面はもちろんあるのだが、それにしてもいい加減手入れをしなければ、と思うようになってきた。
「さて、どうしたもんか」
手入れをするにも自分一人では無理だ。どこの誰に頼もうか、材料はどうしようか、色々と思案していたところ、馴染み深い気配が近づいてきた。ゲートムントとツァイネである。
二人は冬の国内漫遊武者修行以来、時にコンビで、時にソロで、護衛や討伐といった依頼が増えたらしく、日々忙しくしている。当然、このお店に来る機会も減ってしまった。
と言っても、常連と呼ぶには十分な程度には、訪れてくれているのだが。
そんな二人がこの時間を狙ってやってくるというのは、一体どういう風の吹き回しだろうか。今が準備中という事は、百も承知のはずである。もしかしたら、食事をたかりに来たのかもしれない。お金に困っているわけではなさそうだが、時折タダ飯を食べにやってくる。恐らくは、食事がどうというより、ゆっくり話がしたいという事なのだろうが。
「エルちゃ〜ん、いる〜?」
いつものように、友人の気軽さでお店に入ってくる。入り口に掛けられた「準備中」の札もお構い無しだ。確かに、客ではないのかもしれないが、それにしてもあまりに自由である。誰もいなかったらどうするのだろうか。時には外出する事もあるのだから。
「いるけど、いきなり入ってこないでよね〜。私がいなかったらどうするのさ。それに、もし着替え中に入ってきてたら、首が胴体とさようならしてるところだよ?」
さらりと怖い事を言う。この二人には、それくらい言わないと釘を刺してる事にはなるまい。大切な友人だが、その間柄にも守るべきルールや、忘れてはならない遠慮というものがあるはずなのだ。伊達に二人の十倍以上生きていない。
「ご、ごめん。そこまで考えてなかったよ。ほら、ゲートムントも謝って」
「お、おう。なんか、いきなり訪ねて、邪魔だったかな……」
「いや、そういう事じゃないんだけど、親しき中にも礼儀ありって事。それより、どうしたの? また食事をたかりに来たんじゃないでしょーね。それだったら、生憎だけどこれから夜の仕込みで、何も用意できないよ? それとも、別件?」
自分より背の高い二人が小さく見えるほど、申し訳なさそうな表情をしている。そんな空気を吹き飛ばすように、ぱっと表情を変え、明るい顔を作った。途端に二人の表情も明るくなる。全く、現金なものだ。
空気が軽くなったところで二人をカウンター席に座らせて、話の続きを促した。
「いや、なんていうか、最近忙しくてゆっくり話もできなかったから」
「久しぶりに声が聞きたいなーって思って」
やっぱりそうか。声が聞きたい顔が見たい。これだけ長い事生きてきていまだに理解できないでいるが、人が人を好きになるという事は、そういう単純な動機でも強い原動力になるのだろう。この二人には残酷な結果になるかもしれないが、早く恋愛感情というものを覚えてみたいものだ、と思った。
「なーんだ、そういう事か」
二人が今の自分の態度をどう思っているか、まして露骨に向けられた自分への感情に気づいていると思っているのかどうかなど、推し量る事のできない部分をほのめかしつつ、はぐらかしつつ、さらりとドライに応対する。ありがたく、そして嬉しいとは思うが、何かが違うのだ。態度一つで残酷な期待を持たせる事にもなりかねないので、対応は慎重にしなければならない。
全く、美人揃いのこの王都にあって、どこがよくて自分を選んだのだろうか。一度どこかで確認したい疑問だった。
人間の価値観を必死に獲得してきたエルリッヒにとって、最後に残った課題がこの「恋愛感情」だった。やはり、姿形は人間と同じでも、結局は自分は別の生き物だ、という事なのだろうか。
一瞬そんな事を考えつつ、話を先に進める。
「で、何話す? なんだったら、いい話があるけど」
「何!」
「気になる!」
身を乗り出すような二人の食いつきに、「渡りに船だ」と思った。手にはまだ、あのフライパンが握られたままである。
「これなんだけど」
「フライパンが、どうかしたの?」
「それ、あのやたら重たいやつだよなぁ。それが?」
修行により多少は持ち上げられるようになったとはいえ、それを軽々と片手で持っているエルリッヒの姿に内心でびびりつつ、平静を装う二人。その正体をしらない二人にとって、この腕力はエルリッヒに対して数多く存在する謎のうち、最も大いなる謎だった。
「んー、それがさぁ、最近このフライパンがちょっとすり減ってきたかなーって。いい加減お手入れしたいんだよね」
「うんうん、いいんじゃないかな」
「だよなあ。俺も賛成。でも、それがなんで面白い話なんだ?」
話の意図が読めない。フライパンがすり減るだの、メンテナンスが必要だの、そんな話は料理を生業にしているエルリッヒにとっては、日常的な話題ではないのか。それが何故。
「そうそう、ここからなんだけどさ、せっかくだから作ってくれた工房で直してもらおうと思うんだよね。そこで相談なんだけど」
フライパンをカウンターの上に置き、自らもカウンターで頬杖をつくと、二人に向かい語りかけた。それも、とびっきりの笑顔で。
「二人とも、外国に行ってみない?」
「「えぇ〜〜〜っ!!!」」
その声は、通り中に響き渡った。
〜つづく〜