第四幕 盲目の羊
村はずれに一軒だけの、大きな羊小屋を備えた家。簡素な石造りのささやかな家が、彼女の住む場所だった。
空は白みかけ、じきに夜が開ける頃合い。早朝、と言っていいだろう。あまりに早い時間帯に申し訳なく思うが、昼間になったら羊の虐殺の知らせが村中に広まって、村を出るのがが難しくなってしまう。気が咎めつつも、おれは薄い木の扉をノックした。
「こんな時間にごめん、ミーナ! 開けてくれ」
この時間じゃ、すぐに出てきてくれはしないと思っていた。だが、羊飼いの朝はおれの想像以上に早いらしい。「はーい?」という声。続いて身支度をしているのか、しばらくごそごそ音がしたかと思うと、すぐにミーナは戸口に現れた。
「わっ、どうしたんです、みなさんおそろいで。ちょっとチーズをわけてほしいとか、そういうのじゃなさそうですけど」
おれのギルドのフルメンバーを見るのは彼女にとって、これが初めてのはずだ。彼女は黒い瞳を好奇心でいっぱいにして、物珍しそうにおれたちを眺めている。
小さな家の奥からは暖かいスープと干し草の匂いがする。これから朝食だったんだろう。
「あー、その、ごめん。こんな時間に」
「ちょっぴり驚きましたけど、大丈夫ですよ。旅の方には、こういうこともありますし」
なんて優しい対応なんだ。ナミでは考えられない。本当に彼女が、あのナミなのか……疑惑はまだ残っているが、目の前にある顔は間違いなく彼女と同一だ。彼女に促され、本題を話す。
「おれたちは今、水の国のギルドマスターからの依頼を受けて、闇の国の調査に来てるんだ。それでミーナ、もしかしたらきみは、魔法がかかっているかもしれない」
「魔法、ですか? でも、村には魔術師どころか魔法を使えるヒトもいませんよ」
ミーナはにっこりと笑い、強調する。
「……何かの間違いですよ。ここは平和なアプ村。小さな諍いはあっても、平和なんです」
そう言った彼女の黒い目は、どこか虚ろだ。おれの隣でリクシャがひっそりと囁いた。
「目の焦点が合ってないっていうのは、精神干渉系の魔法の副作用としてよくある症状よ。説得は難しいわ。ジュンヤ、どうするの?」
ゲームではこういう時、強引に人を連れ去っても問題はない。以前のおれなら、迷わず思い込みで動いてそうしていた。しかし、ここは現実だ。当然、冒険者とはいえそんなことをしては許されない。力が大きい要素であるこの世界では、そこまで咎められることではないんだが……それでも、無理矢理魔法をかけることは、褒められたことじゃない。
「なあ、ミーナ。おれが探してるナミときみは見た目がそっくりなんだ。魔法がかかっていないならそれでいい。でも、知り合いに似たきみをそのままにしておくのは、やっぱり気になる。おれの仲間に、解呪の魔法だけかけさせてくれないか? もしそれで何もなければいいんだ」
「そう言われても……」
ミーナは悩んでいるようだ。たぶん、『ミーナ』という人物の性格設定は、ナミよりもかなり人がいい。こう言われれば、彼女の設定では断りにくいだろう。
強引な笑みのマリーさんが、さらにダメ押しをしてくれる。
「なあミーナちゃん。リーダーがここまで言うとるんや。かれの気を晴らすため、思うて協力してくれへんかなぁ?」
「そうだゾ! そうだゾ!」
「マリーが言うならその通りだわ!」
いやに明るく機嫌の良さそうな猫撫で声。上がった語尾に、くっきりと吊り上げられた口角。ダメとは言わせない笑顔っていうのは、きっとこういうのを言うんだろう。
3匹の使い魔のうち賑やかな2匹も言い募り、無理矢理言わせた感は強いものの、ついにミーナは押し負けたように頷いた。
マリーさんは真面目な眼鏡のお姉さん風の見た目でありながら、かなり要領のいい性格をしているらしい。こっそりとおれに目配せし、口元だけでニヤリと笑いかけてくる。
おれはどう反応したものか、苦笑いを返しておいた。そうこうしているうちにリクシャが前に出て、解呪が始まる。
「じゃあいくわよ。『秩序の円環を回す者よ──』」
リクシャが長杖を掲げて詠唱していく。淡い光がミーナの足下で真っ直ぐな線や曲線を描き、神聖魔法特有の文字の並ぶ魔法陣を形作る。
「う、あ…………!」
ミーナは苦しそうに頭を抱え、家の戸口で膝をついた。リクシャも辛そうに杖をしっかりと握り込み、魔法を操る。だが一際強く発光した直後、バチンッという音を立て、魔法陣は急に消えてしまった。
リクシャが肩で息をする一方、ミーナの体がゆっくりと崩れ落ちる。
「ミーナ!」
おれはミーナの体を受け止めた。セミロングの黒髪がおれの肩のあたりにかかり、なんていうか、女の子の香りがする。分厚くごわごわした村人娘の服越しに、脱力した彼女の体の、柔らかい感触が届く。
途端にミーナを意識してしまい、おれは赤面して動けなくなった。
「……ジュンヤ。いつまで、その格好で、いるつもりかしら」
フリーズしていたおれに、ブリザードのような温度の声。リクシャが疲労の色を見せつつも、赤い絶対零度の眼差しでおれを見ていた。びくりと背筋に震えが走り、ミーナを慌てて戸口にもたれかからせる。
落ち着け、おれ。相手はナミ(かもしれない)人物なんだ。
リクシャは必死に思考を逸らすおれを見て、ため息をついた。
「ミーナには羊の魔法がかけられてるわ。でも、解呪はできなかった」
彼女は悔しそうに、戸口に座らされたミーナを見下ろす。
「ミーナはナミよ。間違いない。あたしの解呪は完璧だった。なのに、抵抗されたわ」
「はぁ、そういうこと。ナミは解呪を拒絶しはった、いうことやねぇ」
「どういうことだ?」
2人の間では意味が通じたらしい。この場でリーダーのおれだけが話についていけていないということに、一抹の寂しさを感じながらおれは尋ねた。
リクシャはハッとして付け加える。
「だ、大丈夫! ジュンヤは前衛職だしあんまり詳しくないのも仕方ないわ!」
取りなしてくれるリクシャの発言すら物悲しい。もっとも、ニヤニヤしておれたちを見ているだけのマリーさんよりは説明してくれる気があるらしい。リクシャは場に漂う微妙な空気を払拭するように、こほんとわざとらしい咳をした。
「状態異常系の魔法をかける時、抵抗されて失敗することがあるわよね? あれと同じことが起きたのよ」
「でも解呪って回復魔法だろ。抵抗されることなんかあるのか?」
「ジュンヤくん、まだまだお子様やねえ」
マリーさんがコロコロ笑いながら口を出す。
「つまりねぇ。ナミにとっては、羊の見せる夢は有益や、いうことなんよ。あの子は見たくて夢を見とうの。むしろ、そっから目ぇ覚まさそういう、リクシャの解呪の方が余計なんよ」
「解呪が余計……?」
状態異常にかかっているんだから、それを回復することが余計なんてないだろう。意味がよくわからないでいるおれに、マリーさんは含み笑う。
「まあ、ねえ。ジュンヤくんみたいなヒトには、わからへんかもなぁ。リクシャの方が、こういうんは詳しいんとちゃう?」
リクシャは少し躊躇うようにしてから、おれの方に視線を向け、重く口を開く。
「聞いたことがあるわ。強い負荷が心にかかっているヒトで、なおかつ魔法への耐性が高いと、そういうことがあるって。辛い現実から、無意識に逃避して心を守ろうとするらしいのよ」
ナミは逃避なんてするような性格じゃない。いや……だからこそ、なのか。逃避しないんじゃなくて、できない。そうして自分を追い詰めて傷つくような、一種自罰的な所が彼女にはあった。
最後に水の国で見たあの状態のまま、戦って戦って。いずれ、いつかは無理が出るのは、側から見ていたおれでもわかっていた。
草原に風が吹き、さざ波のように低い草を倒していく。地平線は仄かに金色がかって、夜明けは間近だ。人気がないうちに、ニジェとミーナを運んでこの村から去らないといけない。
「ミーナとニジェ、2人を徒歩で運ぶのは難しいな……」
「ほんなら、うちがギルドまで行って馬を借りて来ようか?」
「けど、ギルドを通すわけにもいかないし」
「勝手に入って、厩舎にお金を置いとけばええんとちゃう? 早う行かんと、羊殺しと誘拐ちゅうことで追手がかかるかもしれへんよ」
たしかに、暗愚羊の洗脳の効果が切れていないなら、十分にあり得ることだ。
「そうですね。お願いします」
「了解やわぁ」
マリーさんは使い魔を引き連れ、ギルドへと颯爽と歩き出す。人目を避けるため、おれはリクシャと協力して2人を家の中に運び込むことにした。
ふと、家の前で振り向く。
マリーさんの向かった、村への道。あの先にいるヒトビトも、全員が羊に騙されている。
暗愚羊。あの目を縫い閉じられた羊が盲目なんじゃない。あいつらの魔法にかかって、偽りの舞台で役を演じ続ける、ニンゲンたちの方が盲目なんだ。
朝焼けに染まりつつある草原。草が風に流れる音に混じって、微かな歌声が聞こえる。歌声は闇の国の都心、『学院』のある方から響いている。
────この歌声の主が、おれたちの敵だ。




