サーカスの知らせ
見渡す限りの乳白色の帳が視界を遮る。どこかで鳥が長く鳴く声が聞こえる。
立ち込める靄。限られた視界では、足元の他、僅かな範囲しか様子はわからない。渓流のどうどうという激しい流水音を耳に、おれたちは苔むした岩を踏んで進んでいく。
ここはマルジュード渓谷。土の国と闇の国の境界にあたる地域だ。
「もうちょい先に行けば橋があるさかい、気張りやぁ」
のんびりした口調でおれたち【フランベルジュ】を案内するのは、Bランク冒険者のマリーさん。フルネームだとマリー・マリオネットというなんとも覚えやすい名前の彼女のクラスは、調教師だ。
「がんばって、がんばって!」
「マリーもガンバレ!」
「……………」
彼女の足元でかしましく騒いでいるのが、彼女の従えるモンスター。3匹の下位悪魔はみんな2頭身のデフォルメしたピエロのような見た目。同じようでいて、それぞれ微妙に違う姿をしている。
こうして同行してくれてはいるが、マリーの本職は冒険者ではない。闇の国の誇る学術機関『学院』の教授が、本来の彼女の職業だ。各地の伝承の中でも特に、ヒトから失伝してしまったものを研究しているのだという。
そんな彼女は頻繁にフィールドワークを行なっており、国を出ているうちに闇の国が異変に晒されて、帰国できなくなってしまったらしい。
イヴァンさんからの依頼を受注した際、おれたちが最初にしたことが案内人探しだった。
ホームである水の国以外の地理には明るくないため、闇の国出身で各地を旅した経験が豊富、なおかつ自衛ができるレベルの人材である彼女を見つけて雇うことができたのは幸運だったと思う。
『怠惰な観賞魚』討伐とナミとの出会いは、おれたちに大きな変化をもたらした。以前のおれたちは、どこか変な余裕があったんだと思う。自分の力を過信して、多面的に物事を考えることができていなかった。
今から振り返ると、それはとても楽で簡単。そして、危ういことだった。
過去の未熟な自分を思い出すたび、いつもナミのことが脳裏を過る。仲間を手にかけることになった彼女は、冒険者としておれよりもずっと優秀で……反面、とても危うく不安定だった。ともすると、前のおれよりも。
苦い感情が、おれの胸に充満していく。あのままずっとひとりきりで、ナミは戦ってきたんだろうか。
イヴァンさんが言うには、ナミはあれから各地を回って強力なモンスターを倒していったらしい。彼女の仲間と、瓜二つの容姿をした、モンスターを。
助けてやれなかった、なんて傲慢なことは考えていない。ナミは誰にも助けてほしくはないだろうし、おれにそれができたとも思わない。
でも──本当に、あの時彼女を追わなくてよかったのか。出来ることは一つもなかったのか。少しだけ、胸の奥に引っかかっている。それがきっと、おれに苦い感情を感じさせているんだろう。
靄の奥に、かすかに木々や苔の緑と石の灰色以外の色が見えた。
「マリーお姉ちゃん。あれがはしなの?」
「そうやね。あれが闇の国の入り口だわぁ」
ニジェがマリーさんに尋ね、おれたちは橋の前に移動した。橋は木の板を蔓で縛った作りだった。幅は荷馬車がやや余裕をもって通れるくらい。モンスターは多少出ても、交易で使う経路なんだろう。
「聞いた話だと、ここを通った瞬間に連絡がとれなくなるんだったよな」
「ええ。闇の国に一歩でも入るとおかしくなるって、水の国のギルドマスターは言ってたわ」
リクシャがおれの確認に同意し、荷物入れから魔道具を取り出す。イヴァンさんから調査用として預かった、強力な『遠話』の魔法が刻まれた魔道具。一見、手のひらに収まるサイズの丸手鏡にしか見えないこれは、水の国のギルドの職員ネーフェさんの持つ対の魔道具と繋がっている。
「ネーフェさん、聞こえる?」
リクシャが丸手鏡を手のひらに載せて語りかけると、鏡に魚人族の大人しそうな女性の姿が映し出された。
「……はい、聞こえております。闇の国へ入られるのですね」
「その前に、ウチが偵察するさかい」
マリーさんは小さく手を挙げて注意を引くと、下位悪魔に目線を移した。
「アーリー、できるな?」
アーリーと呼ばれたとんがり帽子の悪魔は、こくんと頷いた。涙マークの化粧、なのか……? よくわからないけど、白塗りの頬にそういうマークのある泣きピエロ、アーリーが両手のひらを揃える。
「ま、まり。水と風、どっちがいい、かな?」
「んー? そやなぁ。水の方が今回はええんとちゃう?」
「わ、わかった、まり」
アーリーの揃えられた手のひらの上に、水でできた鳥が現れた。そのまま鳥は飛び立ち、靄をかき分けて国境を越え、闇の国に進入していく。
アーリーは目を閉じて精神を集中させると、呟くようにして報告する。
「……音。音の魔法が、せいしんかんしょうしてる。すごくつよい魔法」
「魔法、ですか? 歌唱魔法であれば、聞き続けでもしない限りは問題ないと思うのですが」
ネーフェが疑問の声を上げた。
「こ、これはだめ。いっしゅんでも、ヒトがきいたら、だ、だめ、です」
「なんやわからんけど、そういう初見殺しの魔法なんやろ? まあ、ずーっと補助魔法かけ続けるんはヒトには魔力的に難しいけど。ウチらがおってよかったわぁ。ビスタ」
「マリー、わかるわ! わたし、みんなを強くするわ!」
今度はビスタと呼ばれた下位悪魔が、元気よく手を挙げて魔法を使った。おれたちの足元に大きな魔法陣が一瞬輝き、消える。感覚からして魔法防御上昇の補助魔法だろう。
「これで、大丈夫なのか?」
「ええと思うよ?」
「よし、それじゃあ行くか。ネーフェさんも、何かあったらまた連絡します」
リクシャが魔道具をしまい、念のためおれだけがまず先行する。木製の橋は激流の上に架かるにしては心許ないが、上に乗ると案外丈夫そうだ。橋を渡りきり、深呼吸。
どこからかかすかに音楽が聞こえる気がするけれど、自分でわかる範囲では異常はない。
「大丈夫そうだ! みんなも渡ってきてくれ!」
ニジェ、リクシャ、マリーさんと3匹の下位悪魔。みんながおれの号令で、橋を渡りだす。
ふと、背中に視線を感じて振り向いた。渓谷の木々の向こうの草地の遠くに、小さく黒いなにかの動物の群れが見える。新しく出現しだしたモンスターだろうか。今のところ、距離があるから警戒の必要はなさそうだ。
「この歌、なんだか気持ち悪いわね」
「多分、モンスターが歌っとるんとちゃう? そりゃあ、気分ええもんやないやろな」
「風の精霊もつらそうなの。ニジェ、このお歌きらい……」
杖を抱くリクシャ。意外と平気そうなマリー。眉を悲しそうに下げるニジェ。
三者三様の反応をする仲間と共に、おれは闇の国の探索を開始した。




