かねのねはいまだ
石塔が天を衝く火山帯。行く手から噴き上がるガスの煙と異臭に足を止め、火山の裾野を見下ろす。
ダンジョンの中を通って来るからどのくらい登ったのかははっきりしないが、麓の街並みははるか遠く、小さく見える。ここから見ただけではわからないものの、あそこでは今も、ラトニア- IIに対抗するヒトたちが準備を整えているはずだ。
わたしも、できることをしなくては。
額を流れ落ちる汗を白いローブの袖で拭い、わたしは山の上方を目指した。
ほどなくして、龍が寝そべる窪地に着いた。龍女帝リセットは優雅に伸びをして、首を上げる。
「妾にまだ、何の用があるのじゃ? 何やら下界が騒がしいのは感じておるが、くだらない用事じゃったら丸焼きにしてやろう」
リセットは小さな火を吹いて含み笑いする。しかしそれは、どう見ても強がっているだけにしか見えなかった。おそらくは彼女も事態の致命的な動きを感じているのだろう。
わたしは笑わなかった。龍女帝の顔から萎むようにして笑みが消える。
「あなたのお喋りよりはくだらなくないと思うよ」
「……ほう、言うではないか。命知らずな口を利くものじゃ」
金色の目が殺気立ち、龍の巨体から重圧が放たれた。口調は面白がっているようでいて、気位ばかりは高いようだ。
わたしも少し気が立っていたのだろう。無視するくらいならともかく、らしくない余計な嫌味を言ってしまった自覚はある。
『自分の責任も取れない存在』だという認識が、リセットについては先行してしまっている。おそらくはそれが敵意や苛立ちを招いている。少し気をつけて口を開かないと。
「器人が消えた。昨夜襲撃があった。火の国は援軍を待たずにダンジョン深部に突入する。あなたはいつまでそこにいるつもり?」
「…………妾とて、これで良いとは思っておらぬ。だが、どうしても……ラトニアを処分することは、できぬ。そうとしか言えぬのじゃ」
「事態は動き出した。あれはラトニアじゃない。ラトニア- IIというモンスター。ラトニアの残骸みたいなモノ。ラトニアの肉体に記憶を詰め込まれただけ。それは、もう、別の……存在」
彼女はいつもわたしに厳しかった。けれど、それはわたしを嫌っていたわけじゃない。主であるリディアの迷惑にならないようにするため。そして、ギルドの仲間だったわたしが死なないための優しさだった。
几帳面で、いつも目立たないところから全体を気にかけてくれていた彼女は、もういない。そう思わないと……わたしが壊れてしまいそうだ。
「汝に、何がわかるというのじゃ! あれは我が罪、我が愚蒙の結晶。希望の行き着いた終着点。じゃが、それでもあの子は生きておる……!」
「確かに生きてるね。モンスターとして」
鬣を逆立てていきり立つリセット。彼女にも、本当はわかっているはずだ。ラトニアはもういないし、彼女はああなってしまった自分を見たら止めるよう言うだろう。きっと……誰よりも優しかった主人、リディアが悲しむだろうから。
器人のラトニアが、どういう経緯でリディアを主と仰ぐことになったのか、わたしは知らない。だが、彼女が主をとても大切に思っていたということはよく覚えている。
わたしはポーチから小さな紙包みを取り出した。かさりとした乾いた感触。包みはとても軽い。
軽く、なってしまった。
呪文を詠唱すると、紙包みは淡く光りだす。そして、オレンジがかった赤毛の髪を二つに結った女性が姿を現した。折り目正しくメイド服を着込んだ彼女の頭上には最早猫耳はなく、頭の左右に人間と同じ耳が見えていた。
「嗚呼……ラ、トニア…………妾、は」
リセットは声が出ない。ふらふらと足を踏み出したかと思うと、リセットの体は光に包まれた。足元に魔法陣が輝き、体がどんどん縮んでいく。
光が消えると、リセットは一人の威風堂々とした女性に姿を変えていた。基本は人間のようだが、頬には数枚の赤い鱗が残っている。額からは、二本の美しい白角が真紅の前髪を割って伸びている。
気の強そうなつり目がちな瞳の色は、龍の時と同じ金。悔悟。そして歓喜。複雑な感情が、彼女の瞳の中で混ざり合い、揺らぐ。
「ラトニア……妾は、どうすれば良かったのじゃ? 汝を作ったときも、そして今も。妾はどうすることが正しいというのじゃ……」
ラトニアは何も答えない。実体を与えた魂だけの影法師には記憶がないから、言葉を遣えない。
ラトニアは紅茶色の目で、自らの創造主の瞳を見据えた。以前と変わりない、見透かすような強い目だった。そして、何も言わないままにふっと消えた。
リセットの目から、涙が一筋流れ落ちた。
「妾は、どうすれば…………」
『どうすれば』。かつて自身で決めたことであっても、後悔はつきまとう。どんなに上手くやったとしても、もっと上手くやれたんじゃないか。あのときああしていれば。そういった想いから逃げ切ることは不可能だ。
わたしだって────。
赤、青、黄色、緑、白、黒、茶。7色の淡い光。それらは次第に強まって眩く荒野を照らし、虹色の魔法陣が地を覆った。禍々しいまでの白い光が世界を引き裂き、そして───。
それ以上は思い出したくもない。思い出したくないのに何度も何度も夢や白昼夢の中であの光が仲間たちを奪っていく。繰り返しの中で、わたしはいつも動けない。何もできない。やめてと叫んでも声は出ず、体は石のように動かない。
どうすればよかった? そんなの、私が知りたい。
紙包みをしまいながら、彼女に声をかける。
「リセット。あなたが何もしなくても、火の国のヒトたちはこの七世を終わらせる。ラトニア- IIは死ぬ。でも、無傷では済まない。ラトニア- IIは多量の記憶を吸い取っている。必ず犠牲者が出る。アレはたくさん殺し、それから殺される」
哀れな龍の涙は止まっていた。深く垂れた頭が、彼女の苦悩と失意を表していた。
「終わってしまうよ。あなたの手の届かない場所で。それは、本当にいいの?」
もしも動く体があるというのなら、何かをするべきだ。とにかく、その時その時にできることをしていく。そうしなければ潰れてしまうし、その時なにもしなかった……できなかったことへの後悔は、他のことで後から相殺することができないのだから。
彼女はわたしとは違う。まだ消えてしまう前に、間に合う。間に合えるのだ。
もうこれ以上の言葉はいらないだろう。わたしの言葉に何かを思ったなら行動すればいいし、そうでないならそれで構わない。後は彼女が自分で決めることだ。
わたしは項垂れて思考の渦に沈む龍女帝に背を向け、マレットの工房へと帰路についた。




