緑の陰
瓦礫の崩れる音と閃光で灼かれた目に、誰もが動けないはず。
この好機を逃すわけにはいかない。
下は森。落ちても何とかなるだろう。私は目ではなく記憶を頼りに走り、ついでにヴァイスの服を掴んで、そのまま崩れた壁から外へ飛び降りた。
浮遊感が体を包んだのもつかの間、すぐに木の枝が肌を引っ掻く痛みを感じる。背中の方から聞こえるボキボキという音。細い枝を折りながら、どんどん体は落ちていく。
最後に受身を取ろうとして、まだヴァイスの服を掴んだまなだということに気付いた。受身はとりたい。しかし、ヴァイスは補佐役で戦闘要員ではない。このまま落ちたら怪我くらいはするだろう。そう思うと、手を離すのも薄情なような……。
いや、やっぱり手を離そう。打ち所が悪くても自己責任。この世界のニンゲンなんて、私の知ったことではない。
しかし、結論を下すのが少し遅かった。
地面は思ったよりも近く、受け身を取るのは間に合いそうにない。レベルの補正があるから死ぬことはなさそうだ。……骨くらい折れるかもしれないが、ポーションでどうにかなる範囲ならいいが。
こうなったからにはせめてヴァイスだけでも庇おうと、落ちながら自分の体をヴァイスの下になるように動かす。激突の衝撃で舌を噛まないように歯を噛み締めた。
「っ、風の精霊よ!」
すぐ近くから上がる、上ずった声。
落下が止まり、私の体はヴァイスもろとも地上30cmほどのところで浮かび上がった。慣性を感じたかと思うと、ゆっくりと森の下草の上に体は着地する。
ヴァイスの精霊魔法だ。水だけでなく風の精霊の力も借りられるとは、なかなか稀有な才能。私が庇おうと考えたのも、無駄だったかもしれない。
「すみません。すぐ退きます」
ヴァイスは焦ったように言い、私の上から退いて立ち上がった。私も立って、服についた土を軽く手で払う。
一応、助かったからにはお礼くらい言っておくべきか。
「……ありがとう」
「いえ」
そんなやり取りをしていると、音もなく少し離れた木の上からユーグが現れた。無音かつ綺麗な動きで、森の下草の上に着地する。
彼は片手を木の幹につけ、にんまりと笑った。
「いやあ、なかなか面白そうな展開だね。あ、そいつの紹介はいいよ。全部聞いてたからねぇ」
胡散臭そうにヴァイスがユーグを見る。
「このエルフは何者ですか?」
「私の協力者。信用できる」
ヴァイスは険しい表情ながらも頷いた。こうなった以上、疑っている場合ではないと判断したのかもしれない。
追っ手がかかるかもしれないというユーグの言葉に従い、私たちは少し離れた森の一角に移動した。
「それで、何が起きているのです?」
倒木に腰掛けたヴァイスが尋ねた。
ユーグを脇目で窺うと、彼は興味なさそうに森の奥の明後日の方向を見ている。ユーグから説明する気はないようだ。逆に私からの説明を妨害するほどの熱意も感じられないので、簡単にヴァイスに事情を話しておくことにした。
「依頼で金の国の国境付近に行ったら、ナナツヨとかいう儀式の触媒にされて【潜水者の街】は全滅。私だけはエルヴィンに庇われて生き残った。同時期に各国に皆そっくりのモンスターが出現。私は神と会って、皆の蘇生と引き換えにモンスターの討伐を救世の勇者として請け負った」
「救世の勇者……貴女が? それに、エルヴィン様は本当に亡くなられているのですか?」
「救世の勇者かは、わからない。だけど神はそう言った。重要なのは、能力があるかないか。……違う?」
ヴァイスは名言を避け、次を促す。
「では、エルヴィン様は?」
思い出す、絶望の光景。目に焼き付いて離れないあの荒地の情景を思い出すのは、簡単だった。
「私も絶命の瞬間をみたわけじゃないよ」
「それなら」
「でも、生きてはいない。死霊を喚べるということは、そういうこと」
目を閉じて、一抱えは優にある巨木に背を預ける。
記憶を辿る度、蘇る。無念と、胸を焼く悲しみが……何度でも、何度でも。
「──七色に光る魔法陣が、あっという間に地面に広がって。そこから真っ直ぐ、圧倒的な光の柱が上がった。私は隅の方にいたことと、エルヴィンに突き飛ばされたから魔法の範囲外に出られた。それから……目の前に、エルヴィンの左腕が落ちた」
荒地に高温で焼き切られたように転がる仲間の腕。あの装備は、絶対にエルヴィンのものだった。
「……エルヴィン様も、帰還なさった際に左腕が義手になっていました。何か関係があるのかもしれません」
「関係?」
「そう感じただけで、詳しくは私にも。【ナナツヨ】などという魔法も、聞いたことがありません。エルフの寿命はニンゲンよりも長い。王族の方ならば、何かご存知ということもあるかもしれませんが」
エルフの王族。
それなら、千年前の救世の勇者のことも何か知っているかもしれない。私の先任者であり、私をこの最悪な世界に喚びつけてくれたかもしれない人物。
そして、エルヴィンの腕のことも気になる。エルヴィンが荒地に唯一残した左腕。偽物のエルヴィンにも、なぜか左腕が欠損している。
これは偶然ではないだろう。
「さて。そろそろ話はいいかな?」
少し離れたところで木に寄りかかっていたユーグは、そう言ってヴァイスの様子をちらりと見てから私に視線を向けた。
「こうなったからには猶予がどうとか言ってる場合じゃあない。すぐにでも決行するよ」
「……わかってる」
……私はもう戻れない。
どんなに心が軋んでも、先へ進むしか道はない。アレはやっぱりエルヴィンじゃない。
それに、私は水の国ですでに選択を終えているのだ。
あの日々に、戻りたい。戻れるものなら今すぐに。
だが、それはもう叶わない。
剣呑な目をして薄っぺらく笑いながら、ユーグが挑発的にヴァイスに尋ねる。
「で、偽エルヴィン様が一人になる時間や警備の隙を教えてもらおうか。もりろん、拒否はしないだろうね?」
「私が正直に答えると思っているのですか」
「嘘をついてもいいよ? 俺もその方が楽しめるからねえ」
にやにやと唇を歪めるユーグ。
ヴァイスは揺れているようだった。まだエルヴィンが本物なのか偽物なのか、判じ兼ねているのかもしれない。
私は出来うる限り誠実に回答し証拠を揃えたつもりではある。しかし、今まで主として仕えてきたニンゲンが、実はモンスターだと言われてすぐに納得できるはずもない。まして外見があれだけ瓜二つなのだから。
「……迷うのは、私もわかるつもり。だけど今まで戦ったディルとリディアは二人とも事実モンスターだった。ここが初めてじゃないの。このことは水の国のギルドマスターを通じてギルド上層部も情報として保持してる」
ヴァイスは何も言わず、顔を俯けた。
膝の上で組んだ両手は、微かに震えている。
「見たでしょ、エルヴィンのあの凶行を。みんな、そうだった。リディアもディルも、記憶は本人そのままみたいなのに、どこか狂って壊れてた」
私は詠唱し、エルヴィンの死霊をヴァイスの正面に喚び出した。
エルヴィンの長身に遮蔽され、倒木に腰掛けているヴァイスの顔は見えなくなる。
「……エルヴィンはこうして力を貸してくれてる。私は、あの偽物のしてることが皆が望んでたことだとは思わない」
後はヴァイスが決めること。
答えが仮に拒絶であろうと構わなかった。悩む気持ちは共感できる。ただ、その時はしばらく拘束させてもらう必要はあるが。
木の葉の擦れる音と、遠くからの動物の鳴き声が、昼下がりの森の空気を乱す。
ヴァイスは感情を押し込めたような声で言った。
「…………塔。城の外れにある高い塔に、エルヴィン様は欠かさず毎晩訪れられていました」
「……そう」
その情報で、襲撃の機会が決定した。
「それじゃあ、決行は明日の夜。オレは周辺の警戒と隠蔽をしてくるから」
ユーグはヴァイスの気持ちがわからないのか、それとも汲み取る気がないのか。朗らかに言い放つと、影の落ちだした森の中に消えた。
言葉通りの目的だけでなく、ヴァイスの情報の裏付けを取りに下見へ向かったのかもしれない。
ヴァイスの目の前から、エルヴィンの死霊が燐光となって消える。
彼は結局、エルヴィンを裏切るような形になってしまった。
それを意図した私のせいで。
「ごめん」
「いえ……これが正しいと、わかっているのです」
ヴァイスの青い瞳は伏せられ、地面を見据えていた。
「私とエルヴィン様は、元より補佐となるまでほとんど接点がありませんでした。ですが……城で数度お見かけした幼少の頃のエルヴィン様が、木の国の状態を憂いていらっしゃったことは、よく覚えています。そんなあの方が、現状を望まれるはずはないでしょう」
何か違和感がある。
「それならどうしてエルヴィンは冒険者に?」
国に不満があるなら、尚更出奔する理由はない。今現に王を務めているくらいだ、エルフの中での身分は高いはず。だったら内部から食い込んでいくのが普通ではないだろうか。
「エルヴィン様は、その聡明さと美貌、求心力から改革派のエルフの旗頭として叔母にあたる元女王や従姉妹である姫と対立していました。そしてどうやら、そのことに苦しんでおられた。『リーファが羨ましい』と──ああ、これは姫の名なのですが──零していらっしゃるのを聞いたことがあります」
ヴァイスは物憂げにため息をついた。
「ましてエルヴィン様のギフトは【魅了】。エルフの上層部は二派に分裂しました。しかしある日、エルヴィン様は『もうたくさんだ』と言い残し、国を去りました。『何も知らず叔母上に追従して微笑んでいられるリーファが羨ましい。私はもう争いたくない』と」
「それでエルヴィンは冒険者になったんだね」
「……はい。その後も女王は変わらずで、エルフの国は緩やかな衰退の道を進んでいます。エルヴィン様は帰還後、女王を……おそらくは暗殺しました。姫は婚姻を結んで王位の礎とされるつもりでしょう。リーファ様は泣き暮らされているようですが」
私の知るエルヴィンには、およそ野心というものはなかった。確か、世界が見たいと言った私に自分も同じだと言っていた。
エルヴィンは……何もかもから逃げたかったのかもしれない。国の現状を見て見ぬ振りをするには善良すぎ、気付かずにいるには賢すぎたのだろう。




