水の大精霊
「リクシャ、何やってんだよ!?」
ジュンヤの上ずった声にも、リクシャは反応しない。
「……その女さえ、来なければ」
リクシャの喉から粘つく溶岩のような声が発せられた。赤い瞳が、憎しみと苛立ちの混じった色をちらつかせて私を射抜く。
「その女が来てから、何もかもおかしくなったわ」
無表情でなされた煮え滾った呟き。それは次第に激しさを増し、洞窟に幾重にも反響する慟哭へと変容していく。
「アンタがいるからアタシは怪我をした。ジュンヤも悩んでた。アンタはアタシたちの中に割り込んで、色んなものを変えてしまった。────どうしてよッ、どうして今まで通りじゃいけないのよッ!」
「リクシャ、何を……」
ジュンヤの驚愕も、リクシャを止められはしない。いや、むしろ、彼女の怒りはより火勢を強めていく。
「変えないで! アタシたちの今までを、否定するなッ!」
そう言われても、私にはリクシャたちのことを否定した覚えなどない。
リクシャが怪我をしたのは彼女の実力不足が原因だ。ジュンヤの悩みも、新たな視点を得て今までの自分を振り返っているに過ぎないと思う。それでジュンヤが変わったのだとしたら、成長したということだろう。
攻撃を受けているからには彼女が本気なのはわかる。しかし、『ディル』との戦闘で私には体力魔力ともにほとんど残されていない。
リクシャの詠唱が完成しても、短剣を構えることくらいしかできなかった。
「……アンタさえいなければよかったんだわ。アンタなんか、いらない!」
一方的に言い放つリクシャ。彼女の杖に嵌め込まれた赤い貴石が妖しく輝き、杖の先に浮かぶ魔法陣から真紅の火球が数個、中空に浮かぶ。
「消えてよ。アタシたちの前から消えて! ジュンヤを変えないでッ、連れていかないで! そうしないと──」
燃え盛る火球に照らされた瞳は、揺らめく炎にあわせて濡れた光をたたえていた。
「──もう、ジュンヤとはいられなくなっちゃう」
泣き出しそうな声と同時に、火球が撃ち出された。
早く、防御魔法を構成しないと。残り少ない魔力を練り上げて水盾を発動しようとするが、脇腹の傷が集中力を乱す。このままじゃ間に合わない。
火球はもうすぐそこまで迫っている。
すんでのところで回避しようとするが、足元がふらついて氷に足を取られ転んでしまった。
リクシャの火球は即座に軌道を修正し、氷上に倒れる私に迫る。私はせめてもの防御として、短剣で体を庇った。
二十センチほどの刃では完全な防御など見込めようもないが、ないよりはマシだ。リクシャもBランクギルドの一員。火球をまともに受けたら、よくてミディアムというのは想像に難くない。
火球の到達までの刹那。それまで呆然としていたジュンヤが我に返ったように動いた。火球の射線に割り込み、無謀にも自らの体を盾にする。彼の銀色の鎧が、火炎の橙を映す。
そのまま火球は真っ直ぐに進み、そして────私はもとより、ジュンヤに火炎が炸裂することはなかった。
唐突に、妙齢の女の声が地底湖の冷たい空気を震わせる。
「五月蝿いぞ小娘。黙りやれ」
リクシャよりももっと成熟した女性の声だ。もちろん、私のものでもない。
凛とした、それでいて澄んだ声。それが響くと同時に、ジュンヤと私を包むようにドーム状の薄い水の膜が張る。
見たことのない魔法だが、これは水属性の防御魔法だろうか。魔法名の詠唱すらなかったというのに、水の結界は火球を触れたそばから蒸発させてしまった。
ドームは役割を終え、端から水が引くように消えていく。そして、それと入れ替わりに、堂々とした威厳を纏う水色の髪の女性が空気から溶け出すように現れた。リクシャの前に立ちはだかる形で宙に浮かぶ彼女が何かしたのか、リクシャは糸が切れたように倒れ伏す。
「リクシャ!?」
ジュンヤが駆け寄ろうとするが、女性がそれを手で制した。
「落ち着くがよい、ただ気絶させただけのことよ。……さて、水の大精霊たる妾が問おう。汝らが此度の勇者と聖女かえ?」
水色の流れるような長髪を揺らして振り向く彼女は、吸い込まれそうな黒い瞳をしていた。
とりあえず、助けてくれたところを見るに敵ではなさそうだ。殺意や敵意も感じない。ひとまず警戒を解き、短剣を仕舞った。
彼女のあまりにも急な登場や水の大精霊という名乗りも気になるが、それ以上に、私の中では『勇者』という言葉への呆れが勝っている。
この世界ではもはや、勇者は何か便利屋みたいなものになっている気がする。奴らには自分たちでどうにかする気概はないのだろう。
「大精霊……。それに勇者とか聖女なんかもいるのかよ。さすが異世界だな」
ジュンヤのように素直な感想を言うのが異世界人としては一般的発言なのだろう。が、そんな純粋さはこの世界に来たその日にクラッシュされた。私って汚れるのだろうか。そうだとしても、汚れの原因は間違いなくこの世界だというのは確信できる。
彼女自身については、まあ水の大精霊というのに偽りはなさそうだ。詠唱もなしに行使した水の結界も、彼女が精霊なら当たり前。
精霊は存在自体が魔法陣みたいなものだから、詠唱を必要としないのだ。大と付こうが精霊ならそこは同じだろう。
水の大精霊は柳眉を顰めた。
「勇者と聖女をしらぬ、と? ……おかしいのう、【ナナツヨ】の発動に何ぞ不具合でもあったか」
【ナナツヨ】の発動……? それは、あの魔女が言っていた?
一瞬の思考停止の後、私は思わず声をあげた。
「【ナナツヨ】……!? この世界の名前じゃないナナツヨに心当たりがあるの!?」
「【ナナツヨ】まで知らぬか、これはいよいよ奇怪な。いや待て、汝らは異世界人かえ?」
「そうだよ」
「それならば知らぬのもあり得なくはないが……だが、男はともかく。女、汝は勇者であろう? 【ナナツヨ】を知らぬということはあるまい」
「召喚された時は勇者って呼ばれた。だけど【ナナツヨ】なんて知らないし、私は勇者じゃない。使えないからってモンスターのエサにされかけて捨てられたしね。おまけに仲間は【ナナツヨ】とかいうのに巻き込まれて魔女に全滅させられた」
女は微かに目を見開くと沈黙し、ジュンヤは私の告白に絶句していた。
やがて女の呟きが、小さく響く水音以外は全くの無音の空間を破る。
「……何かが、起きている」
女は一度瞑目すると、真っ直ぐに私の目を見据えた。
「妾からは何も言えぬ。だが、光の国へ行き、大聖堂にて神の声を聞け。求める知識はそこにある」
長くなったので分割しました。
明日か明後日、続きを改稿の後に投稿します。




