腐肉の教会
威嚇射撃を受けた扉が倒れる。内側に、ではなく、内側から。
両手を突き出してそれをなしたモノが、戸のなくなった出入り口からこちらを見た。元は何色だったのかわからない、白く濁った目。溶け崩れた肉は、鼻に痛い腐臭を撒き散らす。髪は乱れ腐汁を吸い、まるで海藻のようだ。
水死体は体から汁を垂らしながら、素早く私たちに向かって来る。
その一体を皮切りに、教会の出入り口は次から次へと水死体を吐き出し始めた。
前に出たネーフェの手はすでに次の矢を掴んでいたが、動きが一瞬止まった。
一瞬で留めたのは、彼女の実力と精神力の成せる技だろう。すぐに彼女は唇を噛みながらも射撃を再開する。
ネーフェの手が霞んで見えるほど素早く動くたび、こちらへ盲目的に進む水死体たちは倒れていく。私も短剣を握って論理魔法を使い、黒い茨で水死体の足を縛って援護する。
近くまで迫った水死体がまた一体、水の矢を受けて地に伏した。腐汁が地面を濡らし、むせたくなるような嫌な臭いが立ち昇る。
私は一瞬だけ下へ目を落とす。もう動くことのなくなったソレも他と同様に、腰までくらいしか背丈のない、幼い子供の水死体のようだった。
地面に倒れた水死体が消えてドロップアイテムと魔晶石になり始めると、ようやくモンスターの波が途切れた。油断なく長弓の柄を握るネーフェの呟きには、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「これで終わってくれたでしょうか……」
「いや、まだだよ」
私が感じた死霊の気配の数には、まだ及ばない。
私の視線の先で、教会の前方の壁が轟音を立てて破砕された。剥き出しになった神への祈りの場から歩み出るのは、五体の子供の水死体のようなモンスター。私たちが倒したものよりは年齢が上の子供に見える。その子らを取り巻きにして、唯一の大人の水死体が中心に佇む。溶解した顔は頭蓋骨が見えていて、もう性別もわからない。
あれが、ここを管理していたという司教だろう。手には錫杖を持ち、この世界では圧倒的な力を持つ秩序真教の、白い司祭服を着ている。
モンスターに成り果てた司教が、水でふやけて膨張した唇を動かした。ここからでは聞き取れないけれど、これは……。
「気をつけて、魔法が来る!」
私は警告した。
司教の錫杖の先に、白い魔法陣が浮かぶ。
私が後ろに飛び退くと同時に、ネーフェも左に跳ぶ。
次の瞬間、私たちがいた場所にレーザーのような光の線が走り、地面がわずかに抉れる。
ネーフェの長弓が司祭に狙いをつけるよりも早く、五体の水死体と化した子供たちは獣のように四つ足になって私たちに飛びかかった。
「……行きます。『水壁』」
ネーフェが論理魔法で厚い水の壁を作り、下がる。私も遅れて壁の左側をカバーするように、闇の茨を発生させた。
だがモンスターと化した子供たちも馬鹿ではない。壁の手前で左右に分かれ、半数は茨を強行突破しようとし、もう半分は空いた壁の右方に方向転換した。
「狙いが……」
ネーフェは悔しげに呟くと、構えていた弓を背に戻し、ギルド職員の制服の内側から細いナイフを取り出した。片手に三本ずつ、指で挟み込むようにして構える。
子供の水死体は素早いし体格が小さいため、弓で狙うのは難しい。先行した年齢層の低い水死体たちもそこは同じだったが、幼すぎたためか耐久性が低かったため、まだ対処できた。
しかし今度は司教という指揮官がいて、統制のとれた動きで翻弄してくる。
水の防御魔法が消えたら、厳しい状態になるだろう。
……私のギフトでどうにかできないだろうか。
しかし、相手との間には距離が開いているから、どんな効力があったにしても、あの弱々しい光は届きそうにない。
それなら、私がここで死ぬつもりはない以上、選択肢は一つだ。
私は腰のポーチに手を突っ込んだ。取り出すのは、白い紙包み。
リディアのローブは洗濯のため女将に預けてしまったが、これはしっかり抜き取っておいた。
「もう少し時間を稼いで」
私は、投げナイフで果敢に右方からやって来る水死体をさばくネーフェに告げた。
ネーフェは苦境の中にあっても律儀に応える。
「……あまり、保ちません。手を打つなら早く」
私は集中して、紙包みに魔力を注ぐ。発動は一言。
「『来たれ』」
もう会えないみんなと同じ姿のそれを召喚して、私の心が疼く。
まだ、戦わせるのかと。
まだ、私は生きるのかと。
「……ディル。敵を殺して」
私は、何にも必要とされない存在のくせに。
『ディル』は敵を見据え、詠唱することもなく、ただ右手に持つ杖の石突で地面を軽く叩いた。
すると、モンスターたちは音も立てずに沈む。一見地面に埋まっているように見えるが、よく見れば違う。モンスター自身の影が、底無し沼のように本体を呑み込んでいるのだ。
体が完全に沈み込むと、影もまた揺らいで消えた。
地面の上に、ドロップアイテムと魔晶石がいくつも転がる。
『ディル』もあっという間に掻き消え、残るのはネーフェと私の二人きり。
からん、と。軽い音がした。
ネーフェの投げナイフが、落ちる音だった。
「さっきのは、ディルですよね? 【潜水者の街】は全滅したはずじゃ」
「そう」
私が肯定すると、彼女の顔に隠しきれない嫌悪感が浮かんだ。すぐにそれは消えたが、それは単に上から無表情をかぶせただけだった。
「……私は支部長に報告に戻ります。報酬はギルドでお受け取り下さい」
ネーフェはそれだけを事務的に告げると踵を返し、元来た道を歩み去る。
ただでさえ死霊術師は不吉なのに、死んだ仲間を使役するのが生理的に耐えられなかったのだろう。……こんなのはよくあることだ。
理不尽だなんて思うほどのことでもありやしない。
死霊の気配は、もう消えている。無数のドロップアイテムと魔晶石に囲まれて、私は一人で戦果を拾い集めた。
崖の下に移動し、腐臭を放つ水源をもう一度見上げる。
どうして水源からこんな臭いがするのだろう。
……そういえば、ディルが以前言っていた。この国に走る水路は、あの地底湖から伸びていると。
まさか、あのモンスターは……。
私は論理魔法の水盾をいくつか、地面と水平に発動した。階段のように浮かぶ水を足場に、水源の洞窟へと足を踏み入れる。
格子の隙間を体を縦にしてくぐり抜け、追加で足場を出しながら奥へ進んでいく。濃くなる腐臭に、服の袖で鼻を覆う。
入って数十メートルくらいのところで、また鉄格子があった。最初のものより目が細かくて、幅は子供の腕がやっと通るくらいだ。
だが、その格子は無残に切断されて用をなしてはいなかった。
切り口は鋭い。格子の残骸なのか、何本か鉄の棒が、こちら側の水の下に沈んでいる。向こう側、地底湖の方から切断したようだ。
金属を切るというのは、たとえ魔法を使っても難しい。……だが、地底湖の『ディル』ほどの実力があれば、このくらいは簡単だろう。
それに、あの水死体のようなモンスター。モンスターは基本的にヒトに従属しない。どんなテイマーでも、一匹二匹ならともかく、あれだけの数のモンスターを従えるのは不可能だ。それでも、ヒトではなく同じモンスターなら。……ディルなら、命令をきかせることができるかもしれない。
疑いは確信になった。あのモンスターを手引きしたのは、おそらく『ディル』だ。
ネーフェがギルドに教会の状態を報告すれば、遠からず地底湖には調査団が派遣される。ギルドはこの町に根ざしているから、水源がどこに繋がっているかはすぐにわかってしまうだろう。
もしかしたら、行方不明者もいるのだから、派遣されるのは調査団ではなく討伐隊かもしれない。
討伐隊…………。……私はまた、仲間を殺されるの……?
いつまでもここにいても、何にもならない。洞窟を出ようと、外に繋がる荒い格子をくぐるときのことだった。壁の崩れた教会の向こう、沈みかけた夕陽に照らされる町並みが目に留まる。赤味の強いオレンジ色の光を反射して、蜘蛛の巣のように広がる町の水路が朱金色に波打つ。
綺麗な光景なのに、寂寥感と焦燥が膨れ上がっていく。……あの水の下に、『ディル』によって幾人のニンゲンが沈められていったのだろうか。そして……ディルもまた、討伐されれ水底に沈むのだろうか。
──急がないと。
誰かに仲間が殺されるのは、もう耐えられない。
私はギルドではなく宿屋に向かった。




