水鏡の貴方
「お姉ちゃん!」
見上げると、二ジェが水路の縁から身を乗り出していた。
「二ジェ」
「お姉ちゃん、だいじょうぶ? いま、おねがいするから、もうちょっとまっててほしいの」
二ジェが小さな手で弓を握り、難しい顔をする。精神集中しているのだろうが、場違いなまでに微笑ましい。
「う〜……あげて」
二ジェが一言告げると、風が私の体を水路の上まで持ち上げた。路面に足がつくと、浮遊感は消える。風の精霊魔法なのだろう。
「ありがとう」
私は礼を告げたが、二ジェには聞こえていない様子だ。二ジェは心配そうに、ジュンヤに目を向ける。
ジュンヤが地面に膝をつき、体をくの字に折って、手で口を覆いながら嘔吐していた。視線は彼の倒した水死体のドロップアイテムと魔晶石に釘付けになっている。
二ジェが困惑も顕に呟く。
「……お兄ちゃん」
二ジェは狭い歩幅でジュンヤに近づいた。
「お兄ちゃん、どうしたの? さっきのモンスターになにかされたの?」
二ジェはこの世界の住人だし、幼い。ジュンヤの迷いも葛藤も、理解できないのだろう。
ピーネは昨日の昼間のことでうっすらと感づいているのか、何も訊かず魔法で三又鉾の穂先から水を出した。
「ジュンヤ、ひとまず手と口を流してください。二ジェも、今はそっと」
「……はーい」
二ジェは拗ねたような声で返事をすると、ドロップアイテムと魔晶石を拾う私の方に寄ってきた。
倒したのはジュンヤだが、実際に体を張ったのは私。これはもらっておいても構わないだろう。
拾ったものをローブにしまい込み、建物の陰で座り込んでいた女将に向き直る。
「女将、宿に戻って話を聞かせて」
女将は強張った表情で、かくりと頷いた。
私たちは、宿の食堂で一つの机を囲んで座っていた。
各自の前には湯気をたてるお茶が置かれているが、手を付ける者はいない。
私は服の袖口を弄んだ。腐臭の染み込んだローブを女将に預け、久しぶりに普通の服装になっているけれど、どうにも落ち着かない。
こういう時に率先して口を開いてくれるジュンヤは、部屋に戻されていてこの場にはいない。
ピーネの横顔を見ると、何かを深く考えこんでいる様子だ。
二ジェは年齢的にも性格的にも、こういったことには向かない。実際、今も退屈そうに、隣で足をぶらぶらさせている。
諦めて、私は口を開いた。
「いったい何があったの?」
「寝てたら、窓から音がしたんだよ。で、開けてみたら知り合いの顔が見えてね。いてもたってもいられず追いかけたんだ」
「あれはいったい何? 噂になってるみたいだけど」
「アタシにはわからないね。だけど、アタシにはあれが、ヒトに見えた」
二ジェはぼんやりと空中を見ていたが、唐突に口を開く。
「あれはモンスターで、まぼろしをみせるの」
「どうして知ってるの?」
「かぜのせいれいがいってるの」
「二ジェは精霊魔法の使い手。風の精霊をいつも連れてるのです」
尋ねる私に、ピーネが付け加えた。
あの水死体そのもののモンスターが幻を見せて、自身を相手が会いたいと思うヒトと錯覚させるのが、噂のタネのようだ。
「そう。女将にはもしかして……ディルが見えてた?」
「……ああ」
私は女将の顔を見た。
モンスターは、無作為に幻を選ぶのではないと思われる。確実に、追ってくれる人物。言い換えれば、その人が追わずにはいられない、会いたいと思い焦がれる人物の幻影を見せるはず。
私は端的に質問する。
「女将はディルの知り合いなんだよね」
「ああ」
「どうしてディルに会いたいと思ってたの?」
「……この町のニンゲンは、みんなディルに負い目があるんだよ。ディルはね。『可哀想な子』だったのさ」
「……意味がわからない」
ディルのどこが可哀想なのだ。
ディルは魔術師として一流の実力を持ち、Sランク──冒険者としても最高位にあった。
どうやら女将の言い草だと、この町が出身地のようだが……。
「アンタはそうかもね。でも、そこの魚人族のお姉ちゃんはわかるだろうさ」
ピーネは怪訝な顔をして、眉をひそめる。
女将が続ける。
「ディルの髪は黒いだろ? 魚人族はそこのお姉ちゃんみたいに、普通は生まれつき青い髪と水精霊の加護を持ってる。でも、ディルにはそれがなかったんだよ。この町に魚人族は多いけどね、ディルみたいに黒いのはいなかったはずだ」
言われてみれば、今まで見かけた魚人族の髪と水掻きは青色だった。
水色や紫がかったヒトもいたけれど、やはり青系統。
「ディルは、闇精霊の強い加護を持ってた。だから他の水精霊の加護が届かなかったのさ。ディルはそのせいでね、泳げなかったんだよ」
「それは……可哀想です」
神妙な口調で、ピーネが言った。一度言葉を切り、ためらいがちに続ける。
「魚人族は水のようにたゆたう種族。泳げないなら……水に愛されていないなら、それはもう」
ピーネはその先は言わなかった。
種族的な感覚は、私にはわからない。
私の視線の先で、お茶の液面が凪いでいる。
女将は再び口を開いた。
「ディルの父親は、そんなディルを認めなかった。ディルは必死で論理魔法を覚えて、アタシにはよくわかんないけど……泳げるように、魔法を創った。10の時にね。わかるかい?」
10歳で新しい論理魔法を創るのは、相当な努力と才能が必要だ。
創るどころか習得することさえ、才能がないらしい私には難しく、いまだに各属性で一種類ずつしか論理魔法は扱えない。もちろん死霊術系の魔法は別だけれど。
ディルにいくら才能があっても、魔法の創造は並大抵のことではない。血の滲むような努力があったのだと断言できる。
「町のニンゲンは、ディルの努力を可哀想だと思った。誰も、ディルを認めようとしなかった。出来損ないの魚人もどきの悪あがきだってね。そのうちに闇の国から教授が来て、ディルの才能はここにいても潰れるだけだって連れてったんだ」
女将はお茶のカップを手に取り、一息に飲み干した。
「ディルがすごい魔術師として有名になるにつれ、アタシたちはディルにどう顔向けしていいかわからなくなった。だから……ディルがアタシを引き込みに来ても、恨んでても当然なんだよ」
女将はカップを机に置いた。
悲しげな、苦しんでいるかのような顔。
「……アタシだって客商売だ。死人が歩くっていう噂は聞いたことある。ディルはもしかして……」
中途半端な希望はかえって残酷だ。
私は迷わず、真実を告げる。
「ディルは死んだ。ディルだけじゃない。【潜水者の街】は、私以外全滅」
「アンタは同じギルドのメンバーだったんだね。ディルは……そうかい、やっぱり死んじまってたんだね」
女将は空になったカップの中を見下ろして、ぽつりと呟く。
「一度でいいから、認めてやりたかったねえ」
なくなったものは、戻らない。




