溜まる澱
サブタイトルの読みは、「たまるおり」です。
一人でぼんやりと思い出に浸っていると、給仕の少女が寄って来た。どこか影のある表情で、彼女は微笑む。
「……お決まりでしょうか」
何のことか一瞬わからなかった。だがすぐに注文がまだだったと気付き、品書きを開く。適当に料理を注文すると、給仕の少女は厨房に去って行った。
再び思考に戻ろうとすると、悲しげな、けれど張りのある歌声が、小さな賑わいを割る。
女の吟遊詩人が、酒場の一角で歌っている。彼女は私がいるのとは別の隅のテーブルで、椅子に反対向きに腰掛けていた。鮮烈な青と白をした衣装の、ボリュームある袖の下。日焼けとは無縁の白い手が、小型のハープの弦の上を滑る。
女性にしては低めの声で紡がれるのは、勇者と聖女の冒険譚の一幕らしい。実態はともかく私も勇者として喚ばれただけに気になり、耳を傾ける。
「 定めに従い溢れる七つ世
勇者と聖女は滅びに抗う
水の国で相対するは 悲哀の魔女
魔女の唄は国を覆う 魔女の水は国を流す
赤き血潮が滴りて 血泡を吹くは枯れた喉
勇者の剣は血に濡れて 聖女の瞳は涙に濡れた……」
聞いていて不愉快になった。
この国はどれだけ昔から勇者に無理難題を押し付けていたのかと思うと、胸がむかついてくる。
吟遊詩人と目があう。
吟遊詩人は私の顔色を読み、私にしかわからないくらい微かに、口元だけで笑った。そして、自然な流れで別の歌を歌い始める。
彼女の配慮がなんだか気まずくて、私は青と白のドレスの彼女から視線を外した。
食堂の奥を見ると、女将が忙しそうに、つまみや酒を用意している。料理が運ばれてくるまではまだかかるだろう。
またぼんやりしていると、私の座っているテーブルに、落ち着いた雰囲気の女性が座ってきた。
「お一人かな?」
「……そうだよ」
彼女はなぜか痛ましそうに顔を歪めると、給仕にお茶を注文した。両手の指をテーブルの上で絡めながら、親身な口調で話し始める。
「あなたも大切な人を失って悲しいのはわかるよ。だけどね、早まってはいけない。お酒に逃げれば一時は忘れられるかもしれないが、あなたの大切な人はそれを望まないのではないかな?」
「…………?」
話が見えず、私は眉間に皺を寄せた。
女性は私の反応を見て、おや、と呟き、人差し指をとがった顎に添える。
「すまないね。わたしはてっきり、あなたは恋人に先立たれでもしてやけ酒を飲みに来た無謀な女性かと思ったのだけど。……酷い顔をしていたから。でも、もしかすると違った?」
「……どうしてそう思ったの?」
恋人というのは間違いだが、大切な人をなくしたことは正しい。ディルを含め、ギルドのみんなは友人、むしろ家族みたいなものだった。
否定も肯定もしない私に、女性は悲しげに微笑みながら答える。
「わたしがそうだったからね」
ゆったりとした吟遊詩人の歌が、沈黙を埋める。女性は一呼吸置き、続ける。
「わたしはかつて、やはり大切な人をなくしてね。お酒に逃げようと、酒場に一人で来て飲んだくれてたことがあったのさ。いくら飲んでも、忘れられやしないっていうのにね。それ以来、どうもお節介になってしまっていけない」
「忘れられない……」
「本当は忘れたくなんてないんだよ、誰しもがね」
女性の言葉には、失った者しか持ち得ない重みがあった。
彼女は腰を浮かせた。
「さて、それじゃわたしは行くよ。お節介をして悪かったね。けれど本当に、今のこの町で酔うのはおよしね。この町では最近、死者が歩くから。悲しみに呑まれたヒトは、引き込まれやすいんだよ」
「死体が歩くって」
「 ……信じないだろうけどね。わたしは見たんだよ。死んだはずのヒトが、外を歩いていくのをね」
彼女はお茶の代金を机に置き、去っていった。
ちょうど入れ替わりに、注文していた料理が届く。彼女の頼んだお茶も来たが、注文した当人がもうどこかへ行ってしまっているので、私がもらっておくことにした。
食事を機械的に口に運んでいく。
味なんてろくにわからなかった。
深夜になっても、なかなか寝付けない。下で聞いた、動く死体というのが気になっていた。
女性は言った。死んだはずのヒトが歩くのだと。だったら私はまた、みんなに会えるだろうか。
そして、もっと自信を持って判別できるのだろうか。
……あのディルが、本当に偽物なのかを。
ベッドで仰向けになって、腕を額に乗せる。馬鹿なことだとは理解している。死人に会えるはずはない。あれはただの噂。
けれど、それでも私は……。
どこかの床が軋む音が聞こえた。
侵入者かと跳ね起きるが、部屋に異常はない。次いで、誰かの足音。階下から聞こえるようだ。
短剣を取ろうと枕の下に手を入れるが、期待した感触はない。そういえば、地底湖で落としたんだったか。私に残った、今となっては形見の品なのに……。
舌打ちをしようとして、やめる。部屋の窓に、できるだけ静かに駆け寄った。
窓をゆっくり、音を立てないように指一本分だけ開く。宿屋の前の通りに、中年の女性が立っていた。女性は脇目もふらず、よろけながら小走りに、路地の向こうの夜闇へと消えていく。
右手を前に伸ばし、誰かを引きとめようとしているように見える。
女性の微かな呼び声が、夜風に乗って届く。
「ディル……!」
産毛が逆立つような焦燥感。
私は壁に掛けておいた白いローブを引っ掴み、適当に羽織って部屋を飛び出した。
廊下を駆けていると隣室の扉が開く気配がしたが、気にしていられない。
宿屋の入り口の鍵は開いていた。
私が通りに出ると、女性はちょうど角を曲がるところだった。
「待って!」
私は呼び止めながら走る。
中年の女性は、ふらふらした足取りで進む。小走りとはいえあまり速くないから、どうにか後衛の私でも追いつけた。角を曲がりきったところで、女性は追っていた誰かを捕まえられたらしい。
だが、その誰か──いや、『何か』を見て、私は警戒を引き上げた。
この町にいくつか巡る、太い水路のうちの一つ。その前で、宿屋の女将がぶよぶよに膨張した水死体としか見えないモノに手を引かれていた。ぽたり、ぽたりと濁った水滴が、路面へと落ちる。
水死体の向かう先にあるのは、膝くらいの水位の水路だ。
何をしようとしているのか、考えたくもない。
「っ、……『闇棘痛苦』!」
迂闊に攻撃魔法を使えば、女将を巻き込んでしまう。武器を持たない私の魔法では、威力も制御も心もとない。
とっさに相手の足を論理魔法で拘束しようと試みた。発動までの数秒のタイムラグがもどかしい。
数秒後、水死体の足元から闇の茨が湧き出し、腐って膨張したその足を戒めた。腐肉が棘で裂け、悪臭が濃くなる。
「女将!」
呼びかけると、こちらに背を向ける女将が、びくりと震えた。そして目の前にいるモノを認識し、硬直する。
「こっちへ!」
女将は身を返し、転げるように私の方へと走ってきた。
女将を背にかばい、私は論理魔法の維持に集中しながら問う。
「あの水死体みたいなのは何?」
「どういうことだい、さっきまでディルがいたのに……死体になっちまった。アタシはみたことないよ、あんなの」
会話する間にも、水死体は脚力に任せて闇の茨を引き千切っている。
背後から複数の足音が近付いてくる。
新手かと身構え振り向くと、ジュンヤたちが武器を手に走り寄って来た。
「ナミ、どうした!?」
「あのモンスターが。私じゃ倒しきれない。頼む」
ジュンヤは暗い通りに目を凝らし水死体を見ると、次いで私の手に視線を移す。
「そうか、短剣は」
納得したように呟き、ジュンヤは剣を抜いて論理魔法を放つ。
「『炎槍』っ!」
ジュンヤの剣先から炎槍が射出される。
水死体はなすすべもなく腹部を貫かれ、倒れた。あまり頑丈なモンスターではないらしい。
だが、私の横手にある水路から、飛沫が跳ね上がる。水路の縁にかかるのは、屍肉色の手。新たな水死体は機敏に路上へと這い上がり、手近にいる獲物……つまり私に、腐汁と水の滴る手を伸ばし、掴みかかる。
ジュンヤは改めてそれを見て、目を剥いた。
「……、人間、なのか!?」
ピーネが槍、二ジェが弓を構えるも、ジュンヤの様子に躊躇い動けない。
水死体は私のローブを引き、水路へと落とそうとする。
脆いくせに力は強く、水路の縁から私の体が投げ出される。
水面が迫ってくる。そう深くない水の底には、いくつかの水死体が沈んで、私に手を伸ばしていた。
鼻を突く、暴力的なまでの悪臭、腐臭。
こんなところで、私は──!
何か、何かないの。この状態をどうにかする方法。
数瞬の間、私は必死に手段を模索した。
まず、魔法は間に合いそうにない。
かといって、水路に落ちたくらいでは死なないだろうが、待ち受けている水死体すべてを相手にしては、無事ではすまない。
なぜかこのタイミングで、ミィシィの顔が頭をよぎった。
……まだ、方法はある。
私は藁にもすがる思いで叫んだ。
「『浄化』!」
それは、今まで一度も発動したことのない、私のギフト。
水死体を押しやろうともがく私の手から、弱い白い光が溢れる。蝋燭よりはマシなくらいの、小さい光。
私を拘束する力が急速に弱まる。
何か柔らかいものと共に、水路に体が叩きつけられた。汚水が服に染み込む。
少し打った頭に手をやり、起き上がる。
膝までの高さの水路の水に、水死体たちは糸が切れたように横たわっていた。
私も真下に一体下敷きにしていて、臭いと腐肉の気色悪い感触に顔をしかめる。
もう動くことのないそれらは、しばらくたってもドロップアイテムと魔晶石になることはなかった。




