水に混じる赤
残酷描写あります。苦手な方は注意してください。
二ジェが幼さに反した鋭い声で、再び警告を発する。
「うえなの!」
はっとして上を見上げると、そう高くない薄青の岩天井に、水の顔が一体、貼り付いていた。スライムのように粘つく動きで糸を引きながら、顔は通路に落下する。
私やリクシャ、二ジェは前衛のジュンヤとピーネと分断されてしまった。隊列の中ほど、場所が悪かったリクシャは、水の顔を避けきれない。
水の顔の痘痕面が喜悦に歪み、口が大きく開いて落ちざまにリクシャの右腕を食んだ。
「イヤァアアアあ亞ああ!」
かん高いリクシャの悲鳴が洞窟に反響する。リクシャの腕は、肘から先をすっぽりと口に収められた。青く透き通った水の顔の口中で、リクシャの腕は少しずつ溶解し、気泡と血を水に溶かす。
リクシャは腕を引き剥がそうと無事な左腕で右腕を引っ張るが、びくともしない。
「リクシャ!? どうしたんだ!?」
水の顔の向こうでジュンヤが焦ったような声を上げた。
今は私たちに注意が向けられているが、リクシャを襲う『顔』の注意が逸れたら、ジュンヤとピーネは挟み撃ちされるだろう。
私はローブのポケットに手を突っ込みながら、声を張り上げた。
「こっちのモンスターは私たちでどうにかする! 二ジェ、新手が来ないか警戒して。リクシャは私が」
白い紙包みを二つ取り出し、短く詠唱する。
「『来たれ』……!」
ごっそりと魔力が減る。カスターとディルを喚びだそうとしたのだが、現れたのはディルだけだった。
「っ、駄目か」
おそらく二人以上喚びだすのに必要な魔力量が足りないんだろう。一人では心もとないかもしれないが、今はどうしようもない。
私はディルに言う。
「リクシャを……!」
それで通じたのか、ディルは無感情に水の顔を見る。
詠唱もなしにリクシャの影から闇が湧き出し、泡を連ねたような形状になって、リクシャごと水の顔を呑み込んだ。
「え」
思わず声が出た。
リクシャごと攻撃してないか、これ。
「リクシャお姉ちゃん!?」
二ジェがあまりの光景に声を上げた。
私には成り行きを見守るしかできない。闇はもごもごと咀嚼するように蠢くと、リクシャだけを吐き出して消えた。
味方ごと攻撃したんじゃなくて、こんな状況にも関わらずほっとする。
ディルも、闇が消えるとすぐに掻き消えて紙包みに戻った。
リクシャは腕を抑えて苦悶の声を上げているが、まだ喋れるなら死んではいない。
二体目の水の顔が消えた奥に、まだ一体目と交戦中のジュンヤとピーネがいた。
私も援護すべきだ。だけど、ディルを喚び出したのでかなりの魔力をとられ、魔力切れを起こしかけていて動けそうにない。
目眩がして、薄青い岩壁に手をつく。
ジュンヤが炎を纏った剣で何度も水の顔を切り裂いているが、すぐに断面同士がくっついてしまって苦戦しているのが見える。
ピーネが下がり、論理魔法を発動させた。
「『氷槍』、行きなさい!」
ピーネの剣先に、氷の投槍がびきびきと音を立てながら成形されていく。
射出された氷の投槍は水の顔の頬のあたりに刺さり、急速に凍てつかせて対象を氷像へと変える。
完全に凍りついた水の顔は醜悪な笑顔のまま、高い音を立てて砕け散った。
ピーネが新手を警戒する一方で、ジュンヤはリクシャのもとに走った。
二ジェがうずくまるリクシャの横で膝をつき、心配そうに覗き込んでいる。
リクシャの右腕は、指が欠損し、手先に向かうにつれ短くなっていた。水の顔の構成成分は酸らしい。
怪我は酷いものだったが、出血は止まっていた。神聖魔法を使えるのはリクシャだけだから、自分で治療したんだろう。
リクシャは憎悪に満ちた鋭い目で私を睨む。
「あなたのせいよ……!」
低く呟かれたそれは、洞窟にこだました。
リクシャの顔が、憎々しげに歪む。
「……死霊術師なら、なんで最初から死霊を先行させないのよ。死なないし痛みも感じない、再召喚すれば代えだってきく。あなたが死霊をもっと早く喚んでいれば、あたしはっ!」
「リクシャ、やめろ! 仲間割れしてる場合じゃないだろ」
ジュンヤが止めるのも聞かず、リクシャは叫ぶ。
「ここに来たのだって、あなたせいじゃない! どうしてっ、あたしが!!」
「リクシャ!」
ジュンヤの咎めに、リクシャは荒い息をつきながら目を伏せた。涙が一筋、ゆっくりと頬に流れ落ちる。
「──神聖魔法でも、欠損した部位は治せないのよ……」
リクシャの指は、治らないのだと。
リクシャは泣いていた。
「リクシャ……」
ジュンヤは負傷した仲間の名前を呟き、舌打ちした。洞窟の先を、眉をひそめて見据える。
「……負傷者も出た。奥に進むのはやめた方がいいかもしれないな」
「私は一人でも行く」
そもそも初めは、私一人で来る予定だった。ジュンヤたちがいた方が戦力的に都合がいいが、いなくても困りはしない。
魔力切れの症状もおさまってきた。
ジュンヤは少し考えて、告げる。
「おれはナミに同行する。ピーネと二ジェは、リクシャを連れて離脱してくれ。あのモンスター相手なら、少人数の方が有利だ」
「わかりました。先に、町へ帰還します」
ピーネは応えると、リクシャと二ジェを連れ、出口へと向かっていく。
「あなたは一緒に戻らなくていいの?」
メンバーを帰還させてギルドマスターだけが残るというのは、普通はない。
ジュンヤに帰ってほしいわけではない。しかし、もし私を一人で行かせることへの罪悪感や躊躇からの行動なら、不要どころかむしろ邪魔だ。
「おまえは危なっかしすぎる。前は危険人物的な意味で危ないと思ったが、今は別の意味で危ういと思う」
「そう」
まあ、好きにすればいい。
ジュンヤは水の顔のドロップアイテムと大振りの魔晶石を拾った。二つずつあるそれらの一組を私に投げ、奥に進む。
それなりに大きい魔晶石だ。ドロップアイテムは、小瓶に入った水だった。ギルドに行って鑑定してもらえば、正体がわかるだろう。
ポーチに受け取ったものを押し込み、私も奥へ向かう。
足を動かしながら、リクシャの言葉について考えた。
リクシャは甘い。冒険者なんかやってる時点で、負傷の可能性は常につきまとう。怪我をすれば自分の未熟さを呪うしかないし、危険があるからこそ得るものも多いはずだ。
私のせいにしたのも、八つ当たりとしか思えない。私は『フランベルジュ』のメンバーじゃないんだから、本来助ける義理もなかったのに。
しかも、私に着いてくると言い出したのはジュンヤだし、それに同行すると決めたのはリクシャ本人だ。
でも……。
『……死霊術師なら、なんで最初から死霊を先行させないのよ。死なないし痛みも感じない、再召喚すれば代えだってきく。あなたが死霊をもっと早く喚んでいれば、あたしはっ!』
……それだけは、事実だった。
私はまだ忘れられない。死んだみんなと一緒に過ごした時間を。
とても大切だった、あの記憶を。
金属の擦れる音で我に返る。いつの間にか、前を行くジュンヤが剣を抜いていた。
通路にはまた道を塞ぐように、『水の顔』が詰まっていた。
「『氷槍』!」
ジュンヤが論理魔法を発動させた。氷の投げ槍は生成されない。魔法付与のギフトの効果か、代わりにジュンヤの剣が冷気を帯び、霜が付いている。
「ナミは魔防低下を頼む」
「『見えない侵食を』」
私が即座に詠唱を終えると、ジュンヤは水の顔に突っ込んでいった。水の顔は口を開けて水泡のイボだらけの舌を伸ばすが、ジュンヤは軽くかわす。
そして大きく踏み込んで、両手で握った剣を振り下ろした。
水の顔は斜めに真っ二つになり、断面からびきびきと凍りついた。
数秒も経てば、残るのは魔晶石とドロップアイテムだけだ。
「弱点さえわかればちょろいな」
ジュンヤはにやりと笑って、ドロップアイテムと魔晶石を拾い、先に進む。
薄青い洞窟の気温はどんどん下がっていく。比例するかのように、腐臭が濃くなった。
「寒いな」
「そろそろだよ」
私が答えると、ちょうど広間が見えてきた。湖の中心に誰かが横たわっていて、その誰かのローブに見覚えがある私はジュンヤを押しのけて走りだす。
「おいっ」
誰かが何かを言った気がする。私にはそれも聞こえない。
「ディル!」
ディルの名前を呼びながら、緩やかな坂道を駆け下りる。足が縺れるのさえもどかしい。
広間に入ったところでジュンヤに追いつかれ、腕を掴まれた。
「やめて、行かせてよ!」
「落ち着け!」
私は充分落ち着いている。死んだと思ってたディルがそこにいるんだから、会いに行くのは当たり前だ。
腕を振り払おうと抵抗すると、ジュンヤは後ろから私を羽交い締めにした。
「……っ!」
「落ち着けって言ってるだろ! あれがディルだっていうのか!?」
黒いローブに、黒い金属の杖。小柄な体。
俯いて湖面を覗き込んでいたディルが、ゆっくりとこちらを向く。
「じゃあ、おまえの知ってるディルには……あんな尾鰭があったっていうのかよ!?」
ジュンヤは弾劾するかのように、言った。
ディルは、地底湖の上に乗っていた。
ディルは、退屈そうに寝そべっていた。
ローブの裾から、大きな黒い、魚の尾を投げ出して。
湖は赤黒く濁り、ヒトの腕や足が水面に何本も飛び出している。沈んでいるのは、動物や人間、モンスターの、無数の死骸。
どれも水でふやけて、ぶよぶよに膨張している。
ディルのようなナニカが、悪夢のような湖の上で、私を見て緩く微笑んだ。
「久しぶり」




