腐水の芳香
馬車が地底湖の町に入ると、異臭が鼻についた。耐えられないほどの悪臭というわけではないが、薄っすらと空気に混じって漂っている。
「なんでしょう、この臭い……」
ミィシィが魔法強化されたガラスの窓から外を不安げに見る。
まるで何かが腐っているような臭いだ。
町の入り口をくぐり、しばらく走ると馬車は止まった。
「適当な場所に着いたで! とりあえず降り」
ヘゲロペの声を合図に、私たちは馬車を降りた。
ヘゲロペが御者台から降り、懐に手を入れ布袋を取り出す。次いで、御者台で索敵をしていたリクシャも降りてくる。
そこは、小さな広場の隅だった。
ヘゲロペが、少し考えるようにしてから話し始める。
「あんたらは地底湖に行くんやろ? ワイはその間知り合いの家に泊まって仕入れをする。一週間くらいまでは待ったるけど、それまでにケリつきそうか?」
「大丈夫」
「そんなら、用があったらそこの角をいったとこのエミリオって細工師んとこにおるから、よろしくな。一応ここまでの報酬は半額払っとく。個人依頼やからな。……信頼を大事にしたいもんやな」
私は含みのあるヘゲロペの言葉に頷いた。
つまり、報酬の残りが欲しければ、一週間以内にヘゲロペのところに行ってテンペランティアまでの護衛の続きを受けろということなのだ。
ヘゲロペは銀貨を枚数をきっちり数えると、私に2枚、ジュンヤに8枚の銀貨を手渡す。
「日当銀貨1枚、4日で着いたから、一人頭4枚。半額で一人2枚や。お疲れさん」
「…………」
「ありがとうございます」
私は無言で、ジュンヤは礼を言って受け取る。
「ええ仕事やった。一週間後もこの調子で頼むわ」
ヘゲロペは丸い顔を満足そうに笑ませると、ミィシィを伴って馬車の御者台に上り、馬に鞭をくれながら去っていった。
ミィシィの気弱そうな会釈を残し、馬車は町角に消える。
私は銀貨を腰のポーチにしまい、歩きだす。ジュンヤが慌てて後を追いかけた。
「待てよ、どこ行くんだ?」
「宿屋。部屋をおさえておいて、一休みしたら地底湖に行く」
一般的に、門近くの宿屋は安く、中心部に行くほど高い。都市内でモンスターの襲撃に会う確率は高くはないが、0ではないからだ。
私は中くらいのレベルの宿屋を見つけて入ろうとしたのだが……。
「入れない?」
宿屋には鍵がかかっていた。仕方なく他の宿を探す。やっと営業している宿屋に辿り着けたのは、4軒目だった。
『眠り魚亭』と、建物に看板が掛かっている。
「眠り魚とはまた……」
ピーネが複雑そうに呟いた。
気持ちはわからなくもない。ここに来るまでに倒したモンスターの半分以上は眠り魚だったから。
あれは新種のモンスターだから、偶然の一致のはずだけど。
宿屋に入ると、中年のふっくらした女将が食堂の掃除をしていた。私たちに気付くと、女将はやる気なさそうに、1日鉄貨4枚だと言った。
ひとまず3日部屋をとる。
ジュンヤたちも同様のようだ。
女将は気を利かせて隣部屋にしてくれたが、余計なお節介でしかない。
部屋に入って荷物を下ろすとすぐに、扉がノックされた。扉の向こうに尋ねる。
「誰?」
「ジュンヤだ」
「入っていい」
ジュンヤは部屋に入り、扉を閉めてから口を開く。
「出発をいつ頃にするかききに来たんだが」
「まだ午前中だし、お昼少し前くらいでいいんじゃない?」
「わかった。メンバーにも伝えておく」
ジュンヤは部屋を出ようとして……止まった。そして、躊躇いがちに口を開く。
「その……ディルに会えるといいな」
そして、静かに扉を閉めた。
「…………」
ディルに会えるかもしれない。
そのことに対して、私は嬉しさよりも不安を感じている。あの日、私は厳密に言えばメンバーたちが死ぬのを確認したわけではない。
ただ白い光に包まれて、それが消えた時にみんながいなくなっていたというだけだ。
けれど、感じた死霊の気配は本物だった。
あれがみんなのものではなかったとは考えがたい。だとすれば、地底湖のディルは──何だ?
固めのベッドに腰を沈め、額に手を当てる。
深く考えるのはよそう。情報が足りなさすぎる。地底湖に行きさえすれば、はっきりすることだ。
それでも……できることなら生きていてほしい。そう思うのは、この世界では過ぎた願いなのかな。
私はベッドの上に投げ出した短剣に触れた。
日が高くなってきたころ、私が一人で階下へと向かうと、ジュンヤたちはもう宿の出口で待ち構えていた。
そのまま『フランベルジュ』と合流し、地底湖へ向かった。
町から歩いて数時間。
地底湖の洞窟の入り口は、薄青い岩盤にぽっかりと口を開いて私たちを待ち構えていた。
だが、放つ雰囲気は以前とは別物としか思えない。
「こんなところが観光名所なのか? 禍々しすぎるだろ」
ジュンヤが呟いた。
二ジェが鋭く警告する。
「お兄ちゃん、きをつけて。よくないくうきをかんじるの」
「二ジェ、何か感じるのか?」
「うん。せいれいがざわめいてるの。モンスターがいるよ」
私は洞窟の奥に目を凝らした。
「ここには魔物は出ないはず。異変が起きてると思って間違いなさそうだね」
地底湖の町からここまでの道のりはそう遠くはないが、それでも距離がある。だというのに、ここまで一体のモンスターにも遭遇しなかった。まるで、地底湖には近付けない、あるいは近付かないかのように。
それに、ダンジョンから漏れるこの空気には覚えがある……よく似ているのだ、ダンジョンのものに。
ジュンヤは固い表情で頷いた。
「ああ、慎重に行こう。先頭はおれ、次にピーネ。リクシャと二ジェは後ろに続いてくれ」
フランベルジュのメンバーたちは了承し、指示通りに動いた。
ジュンヤは少し悩むような様子を見せ、続ける。
「ナミには最後尾を頼む」
「わかった」
私たちは隊列を組み、地底湖の洞窟へと足を踏み入れた。
薄青い岩肌が、緩やかな下り勾配で続いている。まだ昼下りだというのに薄暗い。壁では白く光る苔が、ぼんやりとした光を投げかけていた。
私たちは水が浸み出し滑りやすい一本道を下っていく。
足音が水の滴る音と混じって響く以外、まったくの無音だった。
狭い通路への配慮から、武器を剣に持ち替えたピーネが訝そうに言った。
「ここまで、モンスターらしき姿はありませんね」
「ううん、かんじるの。かぜが、けいこくしてる……」
二ジェは尖った耳をそばだてる。そして、洞窟に風が吹いて……
二ジェは叫んだ。
「くるのっ!」
前方から何かがゆっくりと近付いてくる。狭い洞窟の通路を塞ぐようにしているそれは、巨大な顔だ。
水でできた顔が、通路を埋めるように詰まりながら、じりじりと這って移動してきていた。醜悪な『水の顔』は、痘痕のような気泡だらけの顔でにちゃりと笑う。
「新種か!?」
ジュンヤは剣を構えた。だが、二ジェの警告が再びあがる。
「まだいるの!」
どこに……?
後ろを振り返るが、敵の姿どころか気配すらない。前方ではジュンヤとピーネがすでに、水の顔と交戦を始めていた。




