「君の手紙は読まなくてもわかる」と婚約者が言うので、今年の一行は別の方に渡しました
「君の手紙は、読まなくてもわかるよ」
ヴァンサンさまはそう言って、封筒の表を指で弾いた。
「ありがとう、オーレリー。来年も楽しみにしているよ」
彼は封を切らずに、手紙を上着の内ポケットにしまった。封蝋には、うちの家紋の星飴が押してある。割れていない。
この人は、わたしの前で封を切ったことが一度もない。五年続けて、一度も。読まなくてもわかる、というのは照れ隠しで、あとでひとりのときに読んでくれているのだと、わたしは思っていた。
一年に一度の大凪の夜だった。王都の浜の向こうで、海は端から端まで鏡になり、空の星をそっくり抱えていた。この夜だけは、どの水も誰の心も問わずに星を映す。だから人は、言葉で言えないことを一行だけ紙に書いて、好きな人に渡す。
わたしが一緒に差し出した星飴の包みは、彼の手から、焚き火を囲む友人たちのほうへ回っていった。砂糖を煮詰めて透かした、星のかたちの飴。大凪の夜には浜でこれを食べる。わたしの家は、王家にこの飴を納める菓子司だ。今年の包みは、三日前にわたしが自分で煮た。いちばん澄んだ鍋のぶんだけを選んで包んだ。
「フルーレ家の星飴だ」「さすが婚約者どの」
笑い声が、浜の向こうで弾けた。
ヴァンサンさまは片手を上げて、そちらへ歩いていった。背中がまっすぐで、歩き方に迷いがない。あの人はいつもそうだ。行く先を知っている人の歩き方をする。
わたしは浜に残った。
手紙を書くのは、得意ではない。言いたいことはいつも、喉のあたりでもつれる。だからわたしは、思ったことを紙に何行も書いて、一行になるまで削る。本当のことだけが残るまで。
今年の一行は、去年までと違うことを書いた。
前の晩、わたしは便箋に二十行近く書いた。浜で待った時間のこと。友人たちの焚き火から聞こえてくる笑い声のこと。十六の夜に言い当てられて、うれしかったこと。それを一行ずつ消していった。消すたびに、胸の中で何かが一つずつ片づいていった。最後に残った一行を、清書して封をした。
残りの紙は、工房の竈にくべた。砂糖の焦げる匂いのする火で、よく燃えた。
その一行は、いま彼の上着の、左の胸のあたりにしまわれている。彼が友人の肩を叩いて笑うたびに、その胸のあたりが揺れる。
潮風が冷たくなってきた。
少し離れた砂の上で、誰かが流木を組んでいた。背の高い影が、火打ち石を二度打つ。乾いた木に火が移ると、その影は膝の砂を払い、何も言わずに暗いほうへ歩いていった。
毎年、そうだった。わたしが浜に残っていると、いつのまにか近くに火が一つある。誰の火なのか、わたしは知らない。確かめに行ったこともない。確かめたら、自分が五年、ひとりで浜に残っていたことを、誰かに知られていると認めることになる。
わたしは焚き火のそばに膝をつき、手をかざした。
来年は、書かない。
声には出さなかった。出しても、聞く人はいなかった。
*
年が明けて、初夏の新月の夜会は、ロジエ伯爵家の広間で開かれた。
ロジエ家は、王宮の星窓を造った建築家の家だ。この屋敷の天井にも、格子に区切られた天窓が並んでいて、星の光が床に淡い四角を落としていた。ヴァンサンさまも建築家で、この夏、王立劇場の天井の改修を任されている。
「図面は、一目見れば全部わかるんだ」
前に、彼がそう言ったことがある。どこに力がかかって、どこが軋むか。どこに窓を開ければ、どこに星が落ちるか。
「人も同じだよ。一目見れば、だいたいわかる」
そう言って笑う彼を、わたしは頼もしいと思っていた。
「皆さんに、お知らせがあります」
ヴァンサンさまが杯を掲げると、話し声が引いていった。彼の手は、わたしの腰に回されていた。
「秋の新月に、式を挙げることになりました」
拍手が起きた。
わたしは、拍手の中で笑顔を作った。その日取りを、わたしはいま初めて聞いた。
「まあ、おめでとう」「五年越しですものね」
年配の夫人が、扇の陰からわたしに目配せをした。
「オーレリーさまは、今年もお手紙を?」
「ええ、大凪には毎年」
わたしより先に、ヴァンサンさまが答えた。
「五通、ちゃんと取ってありますよ。封も切らずにね」
小さな笑いが起きた。悪意のない、あたたかい笑いだった。
「封も?」
「読まなくてもわかるんです。一年目に言い当てたんですよ。『あなたの前だと、水が静かです』。そうだったね、オーレリー」
わたしは、頷いた。
十六の大凪の夜、わたしは確かにそう書いた。求婚の決まり文句だ。この国では、恋をすると水は荒れ、心が安らぐと凪いで星を映す。だから「あなたの前だと水が静か」は、あなたのそばにいると安心できる、という意味になる。
彼は封筒を受け取り、裏返して、開けずに言い当てた。わたしは顔が熱くなって、何も言えなかった。彼は得意そうに笑った。その笑い方を、わたしは嫌いではなかった。
「毎年、それさ。ねえ」
「健気だこと」「いいわねえ、若い方は」
夫人たちが微笑む。
その輪の中で、わたしはやっとわかった。
あとで読んでくれていたのではなかった。二通目も、三通目も、四通目も、去年の五通目も、この人は読んでいない。読んでいないから、知らない。わたしが去年の大凪に何を書いたのかを、知らない。知らないまま、秋の式の日を決めた。
客の輪がほどけたとき、わたしは彼の袖に指をかけた。
「ヴァンサンさま」
「うん?」
「一通だけで、いいんです。読んでいただけませんか」
彼は少し首をかしげて、それから笑った。
「読まなくてもわかるさ。星二つだっただろう?」
十六の春の試し映しのことだ。婚約の前に、二人で一つの盃を覗いた。水面に星が二つ並んで映った。互いの前で、二人とも心が静かだという印。
あのとき、わたしは恋をしていたのではなかった。ただ、安心していた。この人なら怖くない、と。それでも星は映る。
「言葉なんて、いらない仲なんだよ。僕たちは」
彼はわたしの額に軽く口づけて、次の客の輪へ戻っていった。
広間の隅に、背の高い人が立っていた。日に焼けた顔で、海軍の濃紺の上着を着ている。ヴァンサンさまの従兄の、ギュスターヴさまだ。測量の船に乗っていて、一年のほとんどを海の上で過ごす。たまに夜会の隅で見かける人だった。わたしは、この人と挨拶以上の言葉を交わしたことがない。
広間じゅうが笑っていたあいだ、その人だけが笑っていなかった。わたしと目が合うと、彼は少しだけ目を伏せた。
わたしは、自分の帯盃の蓋に指を置いた。開けなかった。
次の満月に、父に頼もう。婚約の書面を、お返しする。
*
満月の夜は、盃をしまう。心の話はしない夜で、家同士の約束や商談は、たいていこの夜に交わされる。
「理由を伺おう」
ロジエ伯爵は、書斎の机の向こうで眼鏡を外した。白い髭の、孫に甘い人だ。机の上には、五年前に両家が交わした婚約の書面が広げてあった。
隣で、父が額の汗を拭いた。父は菓子司で、口が重い。この五年で、うちの工房の得意先はずいぶん増えた。ロジエ家の縁で、名のある家の婚礼の星飴を任されるようになったからだ。今夜ここへ来るのも、父は渋々だった。
「理由は」
わたしは、膝の上で手を重ねた。
「手紙に、書きました」
ヴァンサンさまが、窓際で振り返った。
「手紙?」
彼は机の引き出しを開けた。中に、五通の封筒が年の順に並んでいた。角がそろえてある。大事にしまわれているのが、わかった。
五つの封蝋。五つの星飴。一つも割れていない。
「これのことかい」
「はい」
「オーレリー」
彼は笑った。困ったように、優しく。
「拗ねているんだね。式の日を先に言ってしまったから。ごめんよ。でも、君ならわかってくれると思ったんだ」
彼は引き出しを閉めた。封は、切らなかった。
「お祖父さま、気にしないでください。彼女は少し疲れているだけです。式の前の娘は、皆そうだと言うでしょう」
「ふむ」
伯爵は眼鏡をかけ直し、わたしを見た。責める目ではなかった。困った孫の嫁を見る目だった。
「婚約を解くなら、解く側が理由を示すものだ。手紙に書いた、では理由にならん。理由のない書面は、受け取れんな、フルーレ子爵」
「は。……ごもっともで」
父は頭を下げ、書面を引っこめた。
帰りの馬車の中で、父はしばらく何も言わなかった。満月が窓の外を、ゆっくりついてきた。
「オーレリー」
「はい」
「波を立てるな」
父の口癖だった。言わぬが花、波を立てるな。職人はものを作ればいい、口で語るものじゃない。わたしは、その言葉を聞いて育った。
わたしは窓の外の月を見た。
引き出しの中の五つの封蝋が、目の裏に残っていた。割れていない星飴が、五つ。
*
噂は、夏の初めの風より早かった。
フルーレの娘が、ロジエ家に婚約を返そうとしたらしい。式の日まで決まっていたのに。心変わりだ。どなたか、ほかに。
婚礼の季に入っていたのに、星飴の注文が一つ取り消された。三日後に、もう一つ。どちらも、ロジエ家と付き合いの深い家からだった。
店に来た若い奥方が、包みを受け取りながら、わたしの顔をちらりと見た。
「まあ、オーレリーさま。お元気そうで、何より」
その「何より」の言い方で、わたしは噂がどこまで届いているのかを知った。
わたしは言い返さなかった。言い返せば、それも噂になる。黙っていれば、いずれ収まる。そう思っていた。収まらなかった。
わたしは工房で砂糖を煮た。
銅の鍋の底で、砂糖が透明になり、それからごく淡い金色に変わっていく。その一瞬を逃さずに火から下ろす。早ければ濁り、遅ければ焦げる。この火加減だけは、子どものころから父に褒められてきた。父がわたしを褒めるのは、ほとんど鍋の前だけだった。
鍋の柄を握るわたしの手を、職人頭のマルトが横から黙って押さえた。
「焦げますよ、お嬢さん」
金色が、少し深くなりかけていた。
「……ありがとう」
マルトは何も訊かずに、鍋を替わった。三十年この工房にいる人だ。わたしが泣いたときも、父に叱られたときも、マルトはこうやって黙って鍋を替わってくれた。
店のほうで、扉の鈴が鳴った。
出ていくと、濃紺の上着の人が、硝子の棚の前に立っていた。ギュスターヴさまだった。
「星飴を、一包み」
「はい」
わたしは飴を量り、薄紙に包んだ。噂のことを訊かれるだろうと思った。ヴァンサンさまの従兄だ。訊かれたら、何と答えればいいのだろう。
彼は何も訊かなかった。
棚の飴を、しばらく黙って見ていた。光に透かすように、少しだけ首を傾けて。
代金を置いて、包みを受け取るとき、一つだけ言った。
「今年も、浜に行かれますか」
大凪の夜のことだ。
わたしは、答えられなかった。行けば、六通目を渡すことになる。行かなければ、去年の一行が、本当になる。
彼は答えを待たずに、軽く頭を下げて出ていった。扉の鈴が、もう一度鳴った。
その夜、わたしは机に便箋を一枚出した。大凪まで、まだ二月ある。
便箋は、しまえないまま、机の上に残った。
*
「式の前に、もう一通書けばいい」
夕食のあと、父が言った。三つめの注文が取り消された日だった。
「今度こそ読んでくださる。拗ねていると思っておいでなら、そうでないと書けばいいんだ。言わぬが花だ、オーレリー。待てば、届く」
大凪を待つ、という言い回しがこの国にはある。言葉で言う勇気が出るまで、待つこと。いつまでも言わない人への皮肉にもなる。
「……はい」
わたしは、頷いてしまった。
頷けば、注文は戻ってくるかもしれない。父が夜中に帳場で溜め息をつくこともなくなる。書けばいい。もう一通。あの人が読みたい一行を。
部屋に戻って、ペンを取った。
あなたの前だと、
そこまで書いて、手が止まった。
インクが、ペン先で丸く膨らんでいた。見ているうちに、それは便箋に落ちて、黒い丸い染みになった。
翌朝、わたしは浜へ行った。
大凪の夜の浜とは、別の場所みたいだった。昼の海は青く、ふつうに波を立てている。波打ち際に、紅白に塗られた細い杭が等間隔に並んでいた。その一本を、背の高い人が木槌で打っていた。上着を脱いで、白いシャツの袖をまくっている。
「ギュスターヴさま」
彼は木槌を下ろした。驚いた顔はしなかった。
「測量ですか」
「大凪の夜に、星の位置で浅瀬を測ります。海が鏡になるのは、あの一夜だけなので。その前に、目印を」
「毎年、ここで?」
「毎年、ここで」
彼の足もとに、革の書類鞄が置いてあった。口が開いていて、紐で束ねた紙の束がのぞいている。
「それも、測量の?」
「よその船から届いた記録です。今朝、受け取りました」
束の紐は、もうほどかれていた。どの紙にも、鉛筆で小さな印がついている。
「もう、全部ご覧になったんですか」
「受け取ったら、その場で確かめます」
彼は当たり前のことのように言った。
「しまっておいた記録は、たいてい、船が沈むまで開かれないので」
わたしは、杭の列の向こうの砂を見た。去年、焚き火のあったあたりだ。黒く焦げた流木のかけらが、まだ少し残っていた。
「毎年、浜に火を残していってくださったのは」
彼は少し黙った。木槌の柄を、持ち替えた。
「冷えるので」
それだけだった。
五年、毎年。わたしがあの浜にいつまで残っていたのか、ヴァンサンさまが友人の輪から一度も戻らなかったことも、この人は見ていたはずだ。それを、彼は一言も口にしなかった。従弟の悪口も、わたしへの同情も、何も。
訊けば、答えてくれたかもしれない。どうして声をかけてくださらなかったのですか、と。
訊かなかった。この人が言わずにいたことを、わたしが無理に言わせてはいけない気がした。
「今年の大凪のあと、南の測量に出ます」
彼は海のほうを見て言った。
「一年、戻りません」
家に戻ると、わたしは自分の部屋の机の前に立った。
あなたの前だと、で止まった便箋。インクの丸い染み。
わたしは、それを二つに破った。
破った紙を手に、わたしは五年を数えた。十六、十七、十八、十九、二十。五つの大凪の夜。五つの一行。どの夜も、わたしは本当のことしか書かなかった。それだけは、自分で知っている。
書けなかったのではなかった。書きたくなかったのだ。わたしの言葉を、あの人の読みたい言葉に書き換えたくなかった。
*
盛夏の新月の夜会で、ヴァンサンさまは杯を掲げた。
「心変わりなどと、根も葉もないことを言う人がいるようなので」
客が笑った。彼は片目をつぶってみせた。
「証を見せましょう。来月の新月に、彼女が五年かけて書いてくれた恋文を、皆さんの前で読みます。彼女には、隣で頷いてもらう。それで、つまらない噂はおしまいです」
喝采が起きた。素敵、と誰かが言った。五年分の恋文ですって。
ヴァンサンさまは、わたしに向かって杯を傾けた。誇らしそうに。
この人は、善いことをしているつもりなのだ。わたしの名誉を、大きな身振りで守ってくれるつもりなのだ。
三日後、彼は工房を訪ねてきた。
店の奥の、小さな応接の間に通した。彼は薔薇の花束を持っていた。わたしの好きな花が何か、彼は訊いたことがない。
「怒っているのかい」
「いいえ」
「よかった」
彼は花束を卓に置いて、わたしの手を取った。手のひらが温かかった。
「君は何もしなくていいんだ。隣に立って、頷いてくれるだけでいい。あとは僕がうまくやる。皆の前で読めば、誰も君を悪く言えなくなる」
「ヴァンサンさま」
わたしは、取られた手をそのままにして言った。
「その前に、お一人で読んでいただけませんか。今夜でも、明日でも」
彼は笑った。
「せっかくなら、皆の前で初めて開けたほうが素敵だろう? 五年分の恋文を、その場で。きっと皆、泣くよ」
悪い人ではないのだ、と思った。
この人は本当に、そう信じている。わたしの五年が、全部恋文だと。開けなくても、中身はわかっていると。
彼が帰ったあと、父が奥から出てきた。話を聞いていたのだと思う。
「頷けばいい」
父は花束のほうを見ていた。
「それで、全部元に戻る。注文も、噂も、式も」
わたしは、膝の上の帯盃を見た。
頷けば、五通の一行は、全部恋文になる。わたしの口で、わたしの書いたものを、あの人の読みたいものに変えることになる。
ほかの誰でもない、わたしの口で。
*
大凪の前の、最後の新月だった。
家を出る前、マルトが勝手口でわたしの襟を直した。
「お嬢さん」
「なあに」
「鍋を火から下ろすときを決めるのは、煮ている人ですよ」
それだけ言って、マルトは工房へ戻っていった。
ロジエ家の広間は、いつもより人が多かった。星窓の下に小さな卓が置かれ、銀の盆に、五通の封筒が年の順に載せてあった。封は、まだ一つも切られていない。
わたしは、広間の入口で立ち止まった。
後ろで、父が足を止める気配がした。今夜は父も来ていた。来るように、ロジエ家から言われていた。
腰の鎖から、帯盃を外した。
今夜は、水は要らない。覗いても覗かなくても、今夜の答えはこの盃の中にはない。わたしは外した盃を、手のひらで包んだ。銀が、少し冷たかった。
盆の前で、ヴァンサンさまが手招きしている。客の目が、こちらへ集まりはじめていた。
頷けば、父の工房は守られる。マルトの仕事も、職人たちの冬の給金も。ロジエ家も、フルーレ家も、誰も恥をかかない。式は秋に挙がり、わたしはこの屋敷の星窓の下で、一生を過ごす。毎年の大凪に、一行を書く。あの人はそれを、内ポケットにしまう。
ただ、五年分のわたしの言葉が、嘘になる。
頷かなければ、言葉は守られる。そのかわり、今夜この広間で、二つの家に恥をかかせる。父は得意先を失う。
わたしは、盃を握った。
どちらを選んでも、何かを失う。
それなら、と思った。
わたしの言葉は、わたしが書いたときから、もうそこにある。五年間、封の中で待っていた。それを、書いたまま差し出せばいい。嘘もつかない。拒みもしない。ただ、読んでもらう。
わたしは広間を横切り、ヴァンサンさまの隣に立った。
「オーレリー。さあ」
彼が、頷く合図を待つように、わたしの顔を覗きこんだ。
わたしは、頷かなかった。
「どうぞ、読んでください」
客の目が、わたしに集まった。
「全部、順番に。わたしが書いたとおりに」
*
ヴァンサンさまは、少し意外そうな顔をして、それから笑った。
「もちろんさ」
彼は一通目を手に取り、封蝋を親指で押した。
星飴の封蝋が、ぱき、と割れた。
五年たって初めて、わたしの手紙が開かれる音だった。
「一年目」
彼は便箋を広げ、朗々と読んだ。
「『あなたの前だと、水が静かです』」
彼は得意げに客を見回した。ほらね、と言うように。拍手が起きた。誰かが「まあ」と声を上げた。
「二年目」
ぱき。
「『来年は、一緒に浜で読んでくださいますか』」
彼の声が、ほんの少しだけ止まった。
十七の大凪の夜、わたしはそれを書いた。浜で、一緒に、封を開けてほしかった。あの夜も彼は封筒を内ポケットにしまい、友人たちの焚き火へ歩いていった。わたしは便箋に書いたその一行を、自分で胸の中で読み返しながら、浜に立っていた。
拍手は、さっきより小さかった。
「……三年目」
ぱき。
「『今年も、浜で待っていました』」
客の何人かが、顔を見合わせた。
十八の大凪の夜、わたしは前の年と同じ場所で、あの人が戻ってくるのを待った。待つあいだに、その一行を書き足した。浜で、封筒の上に紙を当てて。焚き火の明かりで。
ヴァンサンさまは、笑みを作り直した。次の封筒に指をかける。少し、ためらうように。
「四年目」
ぱき。
「『わたしの水は、もう荒れません』」
広間が、しんとした。
待っている人の水は、荒れる。荒れなくなった水は、もう誰も待っていない水だ。この広間に、それを知らない人はいなかった。
十九の大凪の夜、わたしは泣かなかった。泣かなかったことに、自分で驚いた。
誰かが、小さく息をのむ音がした。
ヴァンサンさまの指が、五通目の上で止まった。去年の封筒だった。
彼はわたしを見た。何かを訊きたそうな顔だった。初めて見る顔だった。
わたしは、彼を見返した。
彼は封を割った。
「……五年目」
彼は便箋を開き、読んだ。今度は、朗々とではなかった。
「『来年は、書かないことにします』」
読み終えて、彼は黙った。便箋を持つ手が、下がった。
「去年の、大凪に?」
後ろのほうで、誰かが言った。
ささやきが、波のように広がりかけて、止まった。誰も笑わなかった。誰も拍手をしなかった。
わたしは、一言だけ言った。
「五年、書きました。読んでいただけたのは、今夜が初めてです」
それ以上、足すことはなかった。
ヴァンサンさまは、何か言おうとして、口を開いて、閉じた。一目見れば全部わかるはずの人が、五枚の便箋を前に、何も言えずにいた。
わたしは一礼して、広間を出た。誰も呼び止めなかった。後ろで、銀の盆の上に、便箋が落ちる乾いた音がした。
卓の上には、割れた封蝋が五つ、並んでいたはずだ。
帰りの馬車で、父は長いあいだ黙っていた。車輪の音だけがしていた。
屋敷の門が見えてきたころ、父がぽつりと言った。
「……いい一行ばかりだった」
わたしは、窓の外を見た。
父がわたしの書いたものを褒めたのは、初めてだった。鍋の前のほかで、わたしを褒めたのも。父の声は、少し掠れていた。
*
六年目の大凪の夜、わたしは浜へ行った。
海は、端から端まで鏡だった。空の星が全部、水の中にもあった。この夜は、どの水も誰の心も問わない。
手には、星飴の包みと、一通の手紙を持っていた。
今年の一行は、前の晩、一枚も削らずに書けた。最初に浮かんだ一行が、そのまま本当のことだった。
波打ち際に、紅白の杭が並んでいた。その先で、背の高い人が、星を見上げては手帳に何かを書きつけていた。
翌朝、彼は南へ発つ。
「ギュスターヴさま」
彼は、手帳を閉じて振り返った。
近くの砂の上に、もう流木が組んであった。火は、まだ点いていなかった。
「今年の一行です」
わたしは、手紙を差し出した。
「あなたに」
彼は、手紙を見た。それからわたしを見た。何かを確かめるように。
そして、受け取った。
彼は、その場で封を切った。
星飴の封蝋が割れる音が、波の音に混じった。彼は流木に火を点け、その明かりに便箋をかざして、読んだ。
わたしが書いた一行は、こうだった。
『来年も、この浜にいてくださいますか』
火が、ぱちりと爆ぜた。
彼は長いあいだ、便箋から目を上げなかった。たった一行なのに。何度も読み返しているのが、わかった。
やがて、彼は顔を上げた。
「読みました」
喉の奥がつまって、わたしはしばらく何も言えなかった。
読みました。五年、わたしが聞きたかった言葉は、それだけだったのかもしれない。
大凪の夜には、水に頼れない。だから人は、言葉だけで言う。
彼は、少し迷うように口を開いた。
「五年、声をかけませんでした」
「はい」
「あなたが待っているのは、俺ではなかったので」
焚き火の明かりで、彼の耳が赤いのがわかった。日に焼けていても、わかった。
「……来年は、俺が先に書きます」
わたしは、笑ってしまった。笑ったら、目の奥が熱くなった。
「一年、戻らないのでしょう」
「船から出します。測量船の便は、遅いですが」
「待ちます」
言ってから、わたしは自分の言葉に少し驚いた。五年、待つことに疲れていたはずなのに。
でも、これは違う。開けてもらえるとわかっている手紙を待つのは、ちっとも怖くなかった。
彼は便箋を丁寧に畳み、上着の内ポケットにしまった。左の胸の、あたりに。
去年、別の人がしたのと同じ仕草だった。
けれど、封は切られていた。
わたしは星飴の包みを開いた。彼が一粒取り、わたしが一粒取った。焚き火の明かりで、飴は小さな星みたいに透けた。
五年、誰にも食べてもらえなかった星飴は、少しだけ甘すぎた。
*
秋になって、婚約の書面はロジエ家の側から返されてきた。
理由の欄には、何も書かれていなかった。
社交界では、ヴァンサンさまが新月の夜会で懐盃を差し出しても、覗こうとする人がいない、と噂されているらしい。わたしはその噂を、マルトから聞いた。何も言わなかった。
一度だけ、ヴァンサンさまが工房に来た。
薔薇の花束は持っていなかった。手に、五通の封筒を持っていた。どれも封が割れている。
「返そうと思って」
彼は応接の間の卓に、それを年の順に並べた。角がそろえてあった。
「……君の字は、ああいう字だったんだね」
五年、封筒の宛名の字なら見ていたはずだ。けれど彼が言っているのは、たぶん宛名のことではなかった。
わたしは、五通を彼のほうへ押し戻した。
「差し上げます。もう、読んでいただいたものですから」
彼は長いあいだ、封筒を見ていた。それから五通を重ねて、両手で持ち直した。建築家が図面を扱うときの、丁寧な手つきだった。
「図面なら、一目でわかるのにな」
そう言って、彼は少しだけ笑った。前の笑い方とは違った。
彼が帰ったあと、卓の上には何も残っていなかった。
星飴の注文は、少しずつ戻ってきた。戻らない家もあった。父は何も言わずに、鍋の火を見ていた。ときどき、わたしの鍋を覗きに来るようになった。
冬の初め、南の港から、測量船の便が一通の手紙を運んできた。
封蝋には、見覚えのない印が押してあった。錨でも家紋でもない、細い線で描いた、浜の杭のかたち。
わたしは工房の窓辺で、その手紙を手に取った。
中に何が書いてあるのか、わたしは知らない。読まなければ、わからない。
わたしは、封を切った。
今度は、わたしが読む番だった。




