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「君の手紙は読まなくてもわかる」と婚約者が言うので、今年の一行は別の方に渡しました

掲載日:2026/11/06

「君の手紙は、読まなくてもわかるよ」


 ヴァンサンさまはそう言って、封筒の表を指で弾いた。


「ありがとう、オーレリー。来年も楽しみにしているよ」


 彼は封を切らずに、手紙を上着の内ポケットにしまった。封蝋には、うちの家紋の星飴が押してある。割れていない。


 この人は、わたしの前で封を切ったことが一度もない。五年続けて、一度も。読まなくてもわかる、というのは照れ隠しで、あとでひとりのときに読んでくれているのだと、わたしは思っていた。


 一年に一度の大凪(おおなぎ)の夜だった。王都の浜の向こうで、海は端から端まで鏡になり、空の星をそっくり抱えていた。この夜だけは、どの水も誰の心も問わずに星を映す。だから人は、言葉で言えないことを一行だけ紙に書いて、好きな人に渡す。


 わたしが一緒に差し出した星飴(ほしあめ)の包みは、彼の手から、焚き火を囲む友人たちのほうへ回っていった。砂糖を煮詰めて透かした、星のかたちの飴。大凪の夜には浜でこれを食べる。わたしの家は、王家にこの飴を納める菓子司だ。今年の包みは、三日前にわたしが自分で煮た。いちばん澄んだ鍋のぶんだけを選んで包んだ。


「フルーレ家の星飴だ」「さすが婚約者どの」


 笑い声が、浜の向こうで弾けた。


 ヴァンサンさまは片手を上げて、そちらへ歩いていった。背中がまっすぐで、歩き方に迷いがない。あの人はいつもそうだ。行く先を知っている人の歩き方をする。


 わたしは浜に残った。


 手紙を書くのは、得意ではない。言いたいことはいつも、喉のあたりでもつれる。だからわたしは、思ったことを紙に何行も書いて、一行になるまで削る。本当のことだけが残るまで。


 今年の一行は、去年までと違うことを書いた。


 前の晩、わたしは便箋に二十行近く書いた。浜で待った時間のこと。友人たちの焚き火から聞こえてくる笑い声のこと。十六の夜に言い当てられて、うれしかったこと。それを一行ずつ消していった。消すたびに、胸の中で何かが一つずつ片づいていった。最後に残った一行を、清書して封をした。


 残りの紙は、工房の竈にくべた。砂糖の焦げる匂いのする火で、よく燃えた。


 その一行は、いま彼の上着の、左の胸のあたりにしまわれている。彼が友人の肩を叩いて笑うたびに、その胸のあたりが揺れる。


 潮風が冷たくなってきた。


 少し離れた砂の上で、誰かが流木を組んでいた。背の高い影が、火打ち石を二度打つ。乾いた木に火が移ると、その影は膝の砂を払い、何も言わずに暗いほうへ歩いていった。


 毎年、そうだった。わたしが浜に残っていると、いつのまにか近くに火が一つある。誰の火なのか、わたしは知らない。確かめに行ったこともない。確かめたら、自分が五年、ひとりで浜に残っていたことを、誰かに知られていると認めることになる。


 わたしは焚き火のそばに膝をつき、手をかざした。


 来年は、書かない。


 声には出さなかった。出しても、聞く人はいなかった。


   *


 年が明けて、初夏の新月の夜会は、ロジエ伯爵家の広間で開かれた。


 ロジエ家は、王宮の星窓(ほしまど)を造った建築家の家だ。この屋敷の天井にも、格子に区切られた天窓が並んでいて、星の光が床に淡い四角を落としていた。ヴァンサンさまも建築家で、この夏、王立劇場の天井の改修を任されている。


「図面は、一目見れば全部わかるんだ」


 前に、彼がそう言ったことがある。どこに力がかかって、どこが軋むか。どこに窓を開ければ、どこに星が落ちるか。


「人も同じだよ。一目見れば、だいたいわかる」


 そう言って笑う彼を、わたしは頼もしいと思っていた。


「皆さんに、お知らせがあります」


 ヴァンサンさまが杯を掲げると、話し声が引いていった。彼の手は、わたしの腰に回されていた。


「秋の新月に、式を挙げることになりました」


 拍手が起きた。


 わたしは、拍手の中で笑顔を作った。その日取りを、わたしはいま初めて聞いた。


「まあ、おめでとう」「五年越しですものね」


 年配の夫人が、扇の陰からわたしに目配せをした。


「オーレリーさまは、今年もお手紙を?」


「ええ、大凪には毎年」


 わたしより先に、ヴァンサンさまが答えた。


「五通、ちゃんと取ってありますよ。封も切らずにね」


 小さな笑いが起きた。悪意のない、あたたかい笑いだった。


「封も?」


「読まなくてもわかるんです。一年目に言い当てたんですよ。『あなたの前だと、水が静かです』。そうだったね、オーレリー」


 わたしは、頷いた。


 十六の大凪の夜、わたしは確かにそう書いた。求婚の決まり文句だ。この国では、恋をすると水は荒れ、心が安らぐと凪いで星を映す。だから「あなたの前だと水が静か」は、あなたのそばにいると安心できる、という意味になる。


 彼は封筒を受け取り、裏返して、開けずに言い当てた。わたしは顔が熱くなって、何も言えなかった。彼は得意そうに笑った。その笑い方を、わたしは嫌いではなかった。


「毎年、それさ。ねえ」


「健気だこと」「いいわねえ、若い方は」


 夫人たちが微笑む。


 その輪の中で、わたしはやっとわかった。


 あとで読んでくれていたのではなかった。二通目も、三通目も、四通目も、去年の五通目も、この人は読んでいない。読んでいないから、知らない。わたしが去年の大凪に何を書いたのかを、知らない。知らないまま、秋の式の日を決めた。


 客の輪がほどけたとき、わたしは彼の袖に指をかけた。


「ヴァンサンさま」


「うん?」


「一通だけで、いいんです。読んでいただけませんか」


 彼は少し首をかしげて、それから笑った。


「読まなくてもわかるさ。星二つだっただろう?」


 十六の春の試し映しのことだ。婚約の前に、二人で一つの盃を覗いた。水面に星が二つ並んで映った。互いの前で、二人とも心が静かだという印。


 あのとき、わたしは恋をしていたのではなかった。ただ、安心していた。この人なら怖くない、と。それでも星は映る。


「言葉なんて、いらない仲なんだよ。僕たちは」


 彼はわたしの額に軽く口づけて、次の客の輪へ戻っていった。


 広間の隅に、背の高い人が立っていた。日に焼けた顔で、海軍の濃紺の上着を着ている。ヴァンサンさまの従兄の、ギュスターヴさまだ。測量の船に乗っていて、一年のほとんどを海の上で過ごす。たまに夜会の隅で見かける人だった。わたしは、この人と挨拶以上の言葉を交わしたことがない。


 広間じゅうが笑っていたあいだ、その人だけが笑っていなかった。わたしと目が合うと、彼は少しだけ目を伏せた。


 わたしは、自分の帯盃(おびさかずき)の蓋に指を置いた。開けなかった。


 次の満月に、父に頼もう。婚約の書面を、お返しする。


   *


 満月の夜は、盃をしまう。心の話はしない夜で、家同士の約束や商談は、たいていこの夜に交わされる。


「理由を伺おう」


 ロジエ伯爵は、書斎の机の向こうで眼鏡を外した。白い髭の、孫に甘い人だ。机の上には、五年前に両家が交わした婚約の書面が広げてあった。


 隣で、父が額の汗を拭いた。父は菓子司で、口が重い。この五年で、うちの工房の得意先はずいぶん増えた。ロジエ家の縁で、名のある家の婚礼の星飴を任されるようになったからだ。今夜ここへ来るのも、父は渋々だった。


「理由は」


 わたしは、膝の上で手を重ねた。


「手紙に、書きました」


 ヴァンサンさまが、窓際で振り返った。


「手紙?」


 彼は机の引き出しを開けた。中に、五通の封筒が年の順に並んでいた。角がそろえてある。大事にしまわれているのが、わかった。


 五つの封蝋。五つの星飴。一つも割れていない。


「これのことかい」


「はい」


「オーレリー」


 彼は笑った。困ったように、優しく。


「拗ねているんだね。式の日を先に言ってしまったから。ごめんよ。でも、君ならわかってくれると思ったんだ」


 彼は引き出しを閉めた。封は、切らなかった。


「お祖父さま、気にしないでください。彼女は少し疲れているだけです。式の前の娘は、皆そうだと言うでしょう」


「ふむ」


 伯爵は眼鏡をかけ直し、わたしを見た。責める目ではなかった。困った孫の嫁を見る目だった。


「婚約を解くなら、解く側が理由を示すものだ。手紙に書いた、では理由にならん。理由のない書面は、受け取れんな、フルーレ子爵」


「は。……ごもっともで」


 父は頭を下げ、書面を引っこめた。


 帰りの馬車の中で、父はしばらく何も言わなかった。満月が窓の外を、ゆっくりついてきた。


「オーレリー」


「はい」


「波を立てるな」


 父の口癖だった。言わぬが花、波を立てるな。職人はものを作ればいい、口で語るものじゃない。わたしは、その言葉を聞いて育った。


 わたしは窓の外の月を見た。


 引き出しの中の五つの封蝋が、目の裏に残っていた。割れていない星飴が、五つ。


   *


 噂は、夏の初めの風より早かった。


 フルーレの娘が、ロジエ家に婚約を返そうとしたらしい。式の日まで決まっていたのに。心変わりだ。どなたか、ほかに。


 婚礼の季に入っていたのに、星飴の注文が一つ取り消された。三日後に、もう一つ。どちらも、ロジエ家と付き合いの深い家からだった。


 店に来た若い奥方が、包みを受け取りながら、わたしの顔をちらりと見た。


「まあ、オーレリーさま。お元気そうで、何より」


 その「何より」の言い方で、わたしは噂がどこまで届いているのかを知った。


 わたしは言い返さなかった。言い返せば、それも噂になる。黙っていれば、いずれ収まる。そう思っていた。収まらなかった。


 わたしは工房で砂糖を煮た。


 銅の鍋の底で、砂糖が透明になり、それからごく淡い金色に変わっていく。その一瞬を逃さずに火から下ろす。早ければ濁り、遅ければ焦げる。この火加減だけは、子どものころから父に褒められてきた。父がわたしを褒めるのは、ほとんど鍋の前だけだった。


 鍋の柄を握るわたしの手を、職人頭のマルトが横から黙って押さえた。


「焦げますよ、お嬢さん」


 金色が、少し深くなりかけていた。


「……ありがとう」


 マルトは何も訊かずに、鍋を替わった。三十年この工房にいる人だ。わたしが泣いたときも、父に叱られたときも、マルトはこうやって黙って鍋を替わってくれた。


 店のほうで、扉の鈴が鳴った。


 出ていくと、濃紺の上着の人が、硝子の棚の前に立っていた。ギュスターヴさまだった。


「星飴を、一包み」


「はい」


 わたしは飴を量り、薄紙に包んだ。噂のことを訊かれるだろうと思った。ヴァンサンさまの従兄だ。訊かれたら、何と答えればいいのだろう。


 彼は何も訊かなかった。


 棚の飴を、しばらく黙って見ていた。光に透かすように、少しだけ首を傾けて。


 代金を置いて、包みを受け取るとき、一つだけ言った。


「今年も、浜に行かれますか」


 大凪の夜のことだ。


 わたしは、答えられなかった。行けば、六通目を渡すことになる。行かなければ、去年の一行が、本当になる。


 彼は答えを待たずに、軽く頭を下げて出ていった。扉の鈴が、もう一度鳴った。


 その夜、わたしは机に便箋を一枚出した。大凪まで、まだ二月ある。


 便箋は、しまえないまま、机の上に残った。


   *


「式の前に、もう一通書けばいい」


 夕食のあと、父が言った。三つめの注文が取り消された日だった。


「今度こそ読んでくださる。拗ねていると思っておいでなら、そうでないと書けばいいんだ。言わぬが花だ、オーレリー。待てば、届く」


 大凪を待つ、という言い回しがこの国にはある。言葉で言う勇気が出るまで、待つこと。いつまでも言わない人への皮肉にもなる。


「……はい」


 わたしは、頷いてしまった。


 頷けば、注文は戻ってくるかもしれない。父が夜中に帳場で溜め息をつくこともなくなる。書けばいい。もう一通。あの人が読みたい一行を。


 部屋に戻って、ペンを取った。


 あなたの前だと、


 そこまで書いて、手が止まった。


 インクが、ペン先で丸く膨らんでいた。見ているうちに、それは便箋に落ちて、黒い丸い染みになった。


 翌朝、わたしは浜へ行った。


 大凪の夜の浜とは、別の場所みたいだった。昼の海は青く、ふつうに波を立てている。波打ち際に、紅白に塗られた細い杭が等間隔に並んでいた。その一本を、背の高い人が木槌で打っていた。上着を脱いで、白いシャツの袖をまくっている。


「ギュスターヴさま」


 彼は木槌を下ろした。驚いた顔はしなかった。


「測量ですか」


「大凪の夜に、星の位置で浅瀬を測ります。海が鏡になるのは、あの一夜だけなので。その前に、目印を」


「毎年、ここで?」


「毎年、ここで」


 彼の足もとに、革の書類鞄が置いてあった。口が開いていて、紐で束ねた紙の束がのぞいている。


「それも、測量の?」


「よその船から届いた記録です。今朝、受け取りました」


 束の紐は、もうほどかれていた。どの紙にも、鉛筆で小さな印がついている。


「もう、全部ご覧になったんですか」


「受け取ったら、その場で確かめます」


 彼は当たり前のことのように言った。


「しまっておいた記録は、たいてい、船が沈むまで開かれないので」


 わたしは、杭の列の向こうの砂を見た。去年、焚き火のあったあたりだ。黒く焦げた流木のかけらが、まだ少し残っていた。


「毎年、浜に火を残していってくださったのは」


 彼は少し黙った。木槌の柄を、持ち替えた。


「冷えるので」


 それだけだった。


 五年、毎年。わたしがあの浜にいつまで残っていたのか、ヴァンサンさまが友人の輪から一度も戻らなかったことも、この人は見ていたはずだ。それを、彼は一言も口にしなかった。従弟の悪口も、わたしへの同情も、何も。


 訊けば、答えてくれたかもしれない。どうして声をかけてくださらなかったのですか、と。


 訊かなかった。この人が言わずにいたことを、わたしが無理に言わせてはいけない気がした。


「今年の大凪のあと、南の測量に出ます」


 彼は海のほうを見て言った。


「一年、戻りません」


 家に戻ると、わたしは自分の部屋の机の前に立った。


 あなたの前だと、で止まった便箋。インクの丸い染み。


 わたしは、それを二つに破った。


 破った紙を手に、わたしは五年を数えた。十六、十七、十八、十九、二十。五つの大凪の夜。五つの一行。どの夜も、わたしは本当のことしか書かなかった。それだけは、自分で知っている。


 書けなかったのではなかった。書きたくなかったのだ。わたしの言葉を、あの人の読みたい言葉に書き換えたくなかった。


   *


 盛夏の新月の夜会で、ヴァンサンさまは杯を掲げた。


「心変わりなどと、根も葉もないことを言う人がいるようなので」


 客が笑った。彼は片目をつぶってみせた。


「証を見せましょう。来月の新月に、彼女が五年かけて書いてくれた恋文を、皆さんの前で読みます。彼女には、隣で頷いてもらう。それで、つまらない噂はおしまいです」


 喝采が起きた。素敵、と誰かが言った。五年分の恋文ですって。


 ヴァンサンさまは、わたしに向かって杯を傾けた。誇らしそうに。


 この人は、善いことをしているつもりなのだ。わたしの名誉を、大きな身振りで守ってくれるつもりなのだ。


 三日後、彼は工房を訪ねてきた。


 店の奥の、小さな応接の間に通した。彼は薔薇の花束を持っていた。わたしの好きな花が何か、彼は訊いたことがない。


「怒っているのかい」


「いいえ」


「よかった」


 彼は花束を卓に置いて、わたしの手を取った。手のひらが温かかった。


「君は何もしなくていいんだ。隣に立って、頷いてくれるだけでいい。あとは僕がうまくやる。皆の前で読めば、誰も君を悪く言えなくなる」


「ヴァンサンさま」


 わたしは、取られた手をそのままにして言った。


「その前に、お一人で読んでいただけませんか。今夜でも、明日でも」


 彼は笑った。


「せっかくなら、皆の前で初めて開けたほうが素敵だろう? 五年分の恋文を、その場で。きっと皆、泣くよ」


 悪い人ではないのだ、と思った。


 この人は本当に、そう信じている。わたしの五年が、全部恋文だと。開けなくても、中身はわかっていると。


 彼が帰ったあと、父が奥から出てきた。話を聞いていたのだと思う。


「頷けばいい」


 父は花束のほうを見ていた。


「それで、全部元に戻る。注文も、噂も、式も」


 わたしは、膝の上の帯盃を見た。


 頷けば、五通の一行は、全部恋文になる。わたしの口で、わたしの書いたものを、あの人の読みたいものに変えることになる。


 ほかの誰でもない、わたしの口で。


   *


 大凪の前の、最後の新月だった。


 家を出る前、マルトが勝手口でわたしの襟を直した。


「お嬢さん」


「なあに」


「鍋を火から下ろすときを決めるのは、煮ている人ですよ」


 それだけ言って、マルトは工房へ戻っていった。


 ロジエ家の広間は、いつもより人が多かった。星窓の下に小さな卓が置かれ、銀の盆に、五通の封筒が年の順に載せてあった。封は、まだ一つも切られていない。


 わたしは、広間の入口で立ち止まった。


 後ろで、父が足を止める気配がした。今夜は父も来ていた。来るように、ロジエ家から言われていた。


 腰の鎖から、帯盃を外した。


 今夜は、水は要らない。覗いても覗かなくても、今夜の答えはこの盃の中にはない。わたしは外した盃を、手のひらで包んだ。銀が、少し冷たかった。


 盆の前で、ヴァンサンさまが手招きしている。客の目が、こちらへ集まりはじめていた。


 頷けば、父の工房は守られる。マルトの仕事も、職人たちの冬の給金も。ロジエ家も、フルーレ家も、誰も恥をかかない。式は秋に挙がり、わたしはこの屋敷の星窓の下で、一生を過ごす。毎年の大凪に、一行を書く。あの人はそれを、内ポケットにしまう。


 ただ、五年分のわたしの言葉が、嘘になる。


 頷かなければ、言葉は守られる。そのかわり、今夜この広間で、二つの家に恥をかかせる。父は得意先を失う。


 わたしは、盃を握った。


 どちらを選んでも、何かを失う。


 それなら、と思った。


 わたしの言葉は、わたしが書いたときから、もうそこにある。五年間、封の中で待っていた。それを、書いたまま差し出せばいい。嘘もつかない。拒みもしない。ただ、読んでもらう。


 わたしは広間を横切り、ヴァンサンさまの隣に立った。


「オーレリー。さあ」


 彼が、頷く合図を待つように、わたしの顔を覗きこんだ。


 わたしは、頷かなかった。


「どうぞ、読んでください」


 客の目が、わたしに集まった。


「全部、順番に。わたしが書いたとおりに」


   *


 ヴァンサンさまは、少し意外そうな顔をして、それから笑った。


「もちろんさ」


 彼は一通目を手に取り、封蝋を親指で押した。


 星飴の封蝋が、ぱき、と割れた。


 五年たって初めて、わたしの手紙が開かれる音だった。


「一年目」


 彼は便箋を広げ、朗々と読んだ。


「『あなたの前だと、水が静かです』」


 彼は得意げに客を見回した。ほらね、と言うように。拍手が起きた。誰かが「まあ」と声を上げた。


「二年目」


 ぱき。


「『来年は、一緒に浜で読んでくださいますか』」


 彼の声が、ほんの少しだけ止まった。


 十七の大凪の夜、わたしはそれを書いた。浜で、一緒に、封を開けてほしかった。あの夜も彼は封筒を内ポケットにしまい、友人たちの焚き火へ歩いていった。わたしは便箋に書いたその一行を、自分で胸の中で読み返しながら、浜に立っていた。


 拍手は、さっきより小さかった。


「……三年目」


 ぱき。


「『今年も、浜で待っていました』」


 客の何人かが、顔を見合わせた。


 十八の大凪の夜、わたしは前の年と同じ場所で、あの人が戻ってくるのを待った。待つあいだに、その一行を書き足した。浜で、封筒の上に紙を当てて。焚き火の明かりで。


 ヴァンサンさまは、笑みを作り直した。次の封筒に指をかける。少し、ためらうように。


「四年目」


 ぱき。


「『わたしの水は、もう荒れません』」


 広間が、しんとした。


 待っている人の水は、荒れる。荒れなくなった水は、もう誰も待っていない水だ。この広間に、それを知らない人はいなかった。


 十九の大凪の夜、わたしは泣かなかった。泣かなかったことに、自分で驚いた。


 誰かが、小さく息をのむ音がした。


 ヴァンサンさまの指が、五通目の上で止まった。去年の封筒だった。


 彼はわたしを見た。何かを訊きたそうな顔だった。初めて見る顔だった。


 わたしは、彼を見返した。


 彼は封を割った。


「……五年目」


 彼は便箋を開き、読んだ。今度は、朗々とではなかった。


「『来年は、書かないことにします』」


 読み終えて、彼は黙った。便箋を持つ手が、下がった。


「去年の、大凪に?」


 後ろのほうで、誰かが言った。


 ささやきが、波のように広がりかけて、止まった。誰も笑わなかった。誰も拍手をしなかった。


 わたしは、一言だけ言った。


「五年、書きました。読んでいただけたのは、今夜が初めてです」


 それ以上、足すことはなかった。


 ヴァンサンさまは、何か言おうとして、口を開いて、閉じた。一目見れば全部わかるはずの人が、五枚の便箋を前に、何も言えずにいた。


 わたしは一礼して、広間を出た。誰も呼び止めなかった。後ろで、銀の盆の上に、便箋が落ちる乾いた音がした。


 卓の上には、割れた封蝋が五つ、並んでいたはずだ。


 帰りの馬車で、父は長いあいだ黙っていた。車輪の音だけがしていた。


 屋敷の門が見えてきたころ、父がぽつりと言った。


「……いい一行ばかりだった」


 わたしは、窓の外を見た。


 父がわたしの書いたものを褒めたのは、初めてだった。鍋の前のほかで、わたしを褒めたのも。父の声は、少し掠れていた。


   *


 六年目の大凪の夜、わたしは浜へ行った。


 海は、端から端まで鏡だった。空の星が全部、水の中にもあった。この夜は、どの水も誰の心も問わない。


 手には、星飴の包みと、一通の手紙を持っていた。


 今年の一行は、前の晩、一枚も削らずに書けた。最初に浮かんだ一行が、そのまま本当のことだった。


 波打ち際に、紅白の杭が並んでいた。その先で、背の高い人が、星を見上げては手帳に何かを書きつけていた。


 翌朝、彼は南へ発つ。


「ギュスターヴさま」


 彼は、手帳を閉じて振り返った。


 近くの砂の上に、もう流木が組んであった。火は、まだ点いていなかった。


「今年の一行です」


 わたしは、手紙を差し出した。


「あなたに」


 彼は、手紙を見た。それからわたしを見た。何かを確かめるように。


 そして、受け取った。


 彼は、その場で封を切った。


 星飴の封蝋が割れる音が、波の音に混じった。彼は流木に火を点け、その明かりに便箋をかざして、読んだ。


 わたしが書いた一行は、こうだった。


『来年も、この浜にいてくださいますか』


 火が、ぱちりと爆ぜた。


 彼は長いあいだ、便箋から目を上げなかった。たった一行なのに。何度も読み返しているのが、わかった。


 やがて、彼は顔を上げた。


「読みました」


 喉の奥がつまって、わたしはしばらく何も言えなかった。


 読みました。五年、わたしが聞きたかった言葉は、それだけだったのかもしれない。


 大凪の夜には、水に頼れない。だから人は、言葉だけで言う。


 彼は、少し迷うように口を開いた。


「五年、声をかけませんでした」


「はい」


「あなたが待っているのは、俺ではなかったので」


 焚き火の明かりで、彼の耳が赤いのがわかった。日に焼けていても、わかった。


「……来年は、俺が先に書きます」


 わたしは、笑ってしまった。笑ったら、目の奥が熱くなった。


「一年、戻らないのでしょう」


「船から出します。測量船の便は、遅いですが」


「待ちます」


 言ってから、わたしは自分の言葉に少し驚いた。五年、待つことに疲れていたはずなのに。


 でも、これは違う。開けてもらえるとわかっている手紙を待つのは、ちっとも怖くなかった。


 彼は便箋を丁寧に畳み、上着の内ポケットにしまった。左の胸の、あたりに。


 去年、別の人がしたのと同じ仕草だった。


 けれど、封は切られていた。


 わたしは星飴の包みを開いた。彼が一粒取り、わたしが一粒取った。焚き火の明かりで、飴は小さな星みたいに透けた。


 五年、誰にも食べてもらえなかった星飴は、少しだけ甘すぎた。


   *


 秋になって、婚約の書面はロジエ家の側から返されてきた。


 理由の欄には、何も書かれていなかった。


 社交界では、ヴァンサンさまが新月の夜会で懐盃(ふところさかずき)を差し出しても、覗こうとする人がいない、と噂されているらしい。わたしはその噂を、マルトから聞いた。何も言わなかった。


 一度だけ、ヴァンサンさまが工房に来た。


 薔薇の花束は持っていなかった。手に、五通の封筒を持っていた。どれも封が割れている。


「返そうと思って」


 彼は応接の間の卓に、それを年の順に並べた。角がそろえてあった。


「……君の字は、ああいう字だったんだね」


 五年、封筒の宛名の字なら見ていたはずだ。けれど彼が言っているのは、たぶん宛名のことではなかった。


 わたしは、五通を彼のほうへ押し戻した。


「差し上げます。もう、読んでいただいたものですから」


 彼は長いあいだ、封筒を見ていた。それから五通を重ねて、両手で持ち直した。建築家が図面を扱うときの、丁寧な手つきだった。


「図面なら、一目でわかるのにな」


 そう言って、彼は少しだけ笑った。前の笑い方とは違った。


 彼が帰ったあと、卓の上には何も残っていなかった。


 星飴の注文は、少しずつ戻ってきた。戻らない家もあった。父は何も言わずに、鍋の火を見ていた。ときどき、わたしの鍋を覗きに来るようになった。


 冬の初め、南の港から、測量船の便が一通の手紙を運んできた。


 封蝋には、見覚えのない印が押してあった。錨でも家紋でもない、細い線で描いた、浜の杭のかたち。


 わたしは工房の窓辺で、その手紙を手に取った。


 中に何が書いてあるのか、わたしは知らない。読まなければ、わからない。


 わたしは、封を切った。


 今度は、わたしが読む番だった。

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― 新着の感想 ―
まぁこのまま結婚したら妻の話を全く聞かず家を建てたり、子どもの進路を決めたりしそうだから、お互いの為に良かったのでは。
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