通勤は救いでもある。
勤め人にとって通勤時間は苦痛の代名詞のように言われることが多い。通勤地獄、ラッシュアワーといった言葉に好意的なニュアンスを感じ取る人間は少数派だろう。
だが、仕事の真髄は通勤にこそあるのではないか。コロナ禍以降、テレワークが普及して久しいが、目を覚まして顔を洗い、食事を摂って、自宅の机で端末を起動して仕事に取り掛かるという所作をする中でそんなことを考えるようになった。
確かに、辛いことはつらいのだ。決められた始業時間に間に合うよう、ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られながら、身動きも満足に取れずに目的の駅まで運ばれる時間は苦行と思われても仕方のないものだ。出荷される家畜、旅先まで貨物車両に詰め込まれている旅行鞄のごとき扱いである。およそ人間的ではない。
しかし、その時間が救いになっていることはないだろうか。朝起きて仕事に行くと思うと気分が重くなる。当たり前のことだ。仕事が楽しくて仕方がないという稀有な人間もいるにはいるだろうが、多くの人間にとって仕事は辛いものである。
スーツに着替え、重い足取りで駅に向かう。いっそ事故でも起きてくれないかと不謹慎なことが頭を過ぎる。だが、駅につけば諦めもつき、電車に乗り込んだら徐々に覚悟が決まってくる。頭が仕事にシフトし始める。会社の最寄駅で降りた時には勤め人になっている。このような過程、儀式を経ることで、人はその日1日を働くことが出来る。
電車に限らず、車でも自転車でも、徒歩でも良い。私生活の空間から、別の世界へと移行するという道のりが重要なのである。その道のりで朝の匂いを纏い、どこか清々しい気分になる。それが勤め人にとっての救いになっているのではないだろうか。
定年を迎えた人が再就職に躍起になることがずっと不思議だった。自分の周りを観察すると、在職中にそれなりの給与をもらい、家のローンもなく、すでに子供も独立している、いわば余裕のある人ほど再就職に力を入れているように見受けられた。
今ならその気持ちが少しは分かるような気がする。通勤という時間、自分を勤め人に生まれ変わらせる時間を失うのが怖かったのかもしれない。いつも同じ自分と向き合うということは、想像する以上に辛いことなのだろう。
ざっくり言って、人間はその生涯で3つの自分を手に入れることになる(もっと細かくすることもできるだろうけど)。自分自身としての自分、家庭人としての自分、勤め人としての自分である。
それらを使い分けることで精神を健全に保ち、人生を楽しむことが出来るということがあると思う。その一つが失われることは人生の均衡が崩れてしまうということでもあるのだ。終わり




