5 憑かれた女①
「いやあ、どんな小汚い変り者が来るのかと思ったら、綺麗な坊ちゃんだったからびっくらこいたよ。何でこんなボロアパートを借りたいんだい? 金持ちだろ。あ、勘当されたとか?」
ビニール傘の下、けらけらと笑い声を立てながら失礼な言葉を並べ立てるのは、若干腰の曲がった老婆である。
しわくちゃになった綿のシャツの上に、穴の空いた紫色のど派手なカーディガンを羽織り、古びた衣服とは不釣り合いな真新しい靴を履いている。口調に勢いはあるが、顔がひどくやつれており、霊の関与を仄めかしている。近辺に霊的な存在、それも強力な穢れを鱗のように纏わりつかせた怨霊がいるようだ。
諭は軽く視線を上げ、アパートの裏山に目を向けた。
すぐそこに、源頼朝像で有名な源氏山公園がある。公園近辺の木の梢でこちらを見守る魂食い鴉が、美味そうな穢れの気配に舌なめずりしていることだろう。
「どうしたんだい、坊ちゃん?」
「いいえ、別に。それと私は大江間諭です。契約書にも名前書いたでしょう」
「サトちゃんね。つっけんどんな子だ。ほれ、部屋は二〇一号室だよ。そうだ、お隣には若い女の子が住んでるからね。あんたと同じくらいの年じゃなかったかな、仲良くするんだよ。はい、これ」
手渡されたのは変色しかけた鉄の鍵。前の住人が引っ越してから、鍵を交換していないのだろうか。それなら危険だ。誰かが合い鍵を持っているかもしれない。まあ、長く住むつもりはないので目くじらを立てるのも面倒である。すぐに終わらせて、実家の葉山に戻ろう。
諭は、トタン屋根の階段を恐々上る。鉄板の段は腐食し、今にも踏み抜いてしまいそうだが、錆びて汚れた手すりに触れる気にはなれなかった。
二〇一号室は、階段を上って手前側の部屋だ。奥にはもう一部屋あり、別人が住んでいるらしい。……いいや、人ではないかもしれないが。
「諭、諭」
羽音が舞い降りる。翼で切り裂かれた風が、男性にしては少し長めの諭の前髪を揺らした。大家がいなくなったのを見計らい梢から手すりに舞い降りた魂食い鴉が、嘴をかちかちいわせている。
「隣、怪しイ。霊、いるカ」
「ああ、間違いない」
隣室の古い鉄製扉の隙間から、汚泥のような黒々とした澱が滲み出している。諭は目を細め己が対峙すべき存在の放つ邪気を、しばらく睨んでいた。
諭がこのアパートを借りたのは他でもない。使霊の箱から飛び出したと思われる霊が、このアパート近辺で忽然と気配を隠したからである。
魂食い鴉によれば、箱が隠されていたやぐらはこのすぐ裏手にある源氏山公園へと続く山中にあったらしい。ならば、箱から逃げた怨霊が近所のアパート辺りを徘徊していても不思議はない。
霊が気配を潜め、これほどまでに接近しなければ気づけないほどにまでなったのはおそらく、何かに憑依して姿を隠しているからだろう。今回の場合は十中八九、隣人に憑いている。
「怖いカ」
「怖くない」
最低限の家具が置かれた部屋の中。折りたたみ式ベッドの枠に止まり無遠慮な声を上げた魂食い鴉に間髪を入れずに切り返したものの、胃の奥を巨大な石が塞いでいるかのような重苦しい感覚が、全身を支配していた。
言葉に嘘はない。霊自体が恐ろしいのではない。何か大きな失敗を犯してしまうことに怯えているのだ。
「怖くない、何も」
落とされた呟きは、黄ばんだ壁紙に空々しく反響した。
やがて夜が更ける。窓の向こうに広がる曇り空には、月も星もない。闇と静寂が外界を支配する丑三つ時。諭はさっそく、それと対峙することになった。
異変は、湿った風がふう、と頬を撫でたことから始まった。
降り続けた雨は、諭がアパートにやって来ていくらもしないうち止んでいた。とはいえ古いベランダの床の窪みには雨水が溜まり、じめじめとしている。海風と混ざる汚水の生臭ささを厭い窓も開けずに締め切った室内で、普通は微風など吹かない。
諭はそれの気配に顔を上げ、安物のカーテンに手をかける。この向こう側に、いる。
張りつめた空気。魂食い鴉が、部屋の隅で羽根を膨らませる。己の鼓動が耳にうるさい。大きく息を吸い、布を引き裂くように左右に開く。
「……!」
宵闇に浮かぶ白い顔。
そこにいたのは、諭と同年代と思われる若い女であった。セミロングの髪は清楚に整えられていて、微笑みを湛えた唇には上品な色合いの紅が引かれている。瞳は曇りなく光り、まるで旧知の者を見るかのような親しげな眼差しを諭に注いでいる。美人というほどではないが、小綺麗だ。
そんなどこにでもいる容貌の女が、月のない夜に、知人ですらない男の部屋のガラスに張りついている様は、狂気を帯びている。
普通ならば不審者だと警察に通報するところ。けれど諭は鍵を開け、彼女を室内に招き入れた。
女は裸足であった。ひたり、と進む足裏が、畳に泥水で痕跡を残す。諭は顔をしかめてそれを一瞥し、女の顔へ視線を固定して後ずさりした。
「何者だ」
諭が問うと、女はほんの少し目を見開いてから、口元の曲線を深めた。心底嬉しそうな、まるで大切な失せ物を見つけたかのような笑みだった。
「おまえ、霊だろう」
「レイ……」
「その人に恨みがあるのか? それともこのアパートに未練が?」
「ウラミ……ワタシ、アナタニ……」
後ろに踵を滑らせ続け、いよいよ部屋の中央だ。諭は足を止める。
「俺に恨みがあるのか? それはおかしい。だって俺がここに来たのは、おまえがその人に憑いた後だ」
諭の言葉に混乱をきたしたのか、女の赤い唇から呻きが漏れた。
「ウ、ウアアア……」
頭を抱え、髪を振り乱す女――いいや、怨霊。このままだと、あの女性の肉体が持たない。諭は目の端で、魂食い鴉がじっとしている位置を捉えると、一歩踏み出した。
「その人から出て行け」
「デテ……ドウシテ、コンナオンナヲ!」
その瞬間。




