4 動き出す呪具師
「カア、一大事ダ! カア!」
大学の講義がない水曜の昼下がり。鎌浜大学三年生の大江間諭は、自室のベッドの上でぼんやりと読書に耽っていた。
普段は背景音のごとく四六時中寄せては返す潮騒が雨音に上書きされて、もう丸一日ほど経った。
高台に建つ屋敷の一室。晴れていれば、高級住宅が立ち並ぶ葉山の街と紺色の海が一望できる大きな窓は今、雨に洗われ、外界が歪んで見えるほどである。
そんなずぶ濡れのガラスを硬く鋭いものが忙しく突き、ばたばたと騒ぎ立てる音がする。
「おい、諭、開けてくレ、開けてくレ!」
人語を操ってはいるものの、特徴的な抑揚を持つ甲高い声。諭は溜め息をついて本を閉じ、毛足の長いカーペットの上に足を下ろして窓辺に近づいた。
「諭、諭! カアッ」
黒い塊――鴉が、濡れた翼を重たそうにばたつかせている。窓に付着した雨水が羽根に擦られて、景色がいっそう複雑に歪んで見えた。
「何だ、魂食い鴉。いつも通り屋上から入ればいいだろ。せっかくおまえ用の出入り口があるんだから」
魂食い鴉。それがこの、人語を操る鴉の名である。その名の通り、魂を食う。
といっても彼の餌となるのは、生き物の肉体に宿る健全な魂ではない。命を終え、現世を彷徨いながらも成仏できず、怨霊と鳴り果てた魂から零れ落ちる穢れを食らうのだ。
「カア! 一大事、一大事なんだヨ!」
諭は、このずぶ濡れ鴉を部屋に招き入れた時に発生する被害を想像して嘆息してから、渋々鍵を外して窓を開いた。
その途端、潮の生臭さの混じったべたべたとした風雨が吹き込み、諭の顔を打つ。軽く顔をしかめているうちに、嵐の空気よりもっとじっとり重たい漆黒が飛び込んで、もんどりうってカーペットの上で大暴れした。
素早く窓を閉めたものの、これでは辺りが水浸しだ。
「おい」
咎める声を出した諭だが、体勢を立て直した魂食い鴉は身体を震わせ水を弾き飛ばし、翼を広げて棚の上に身体を落ち着けた。
「諭、諭。まずイ、まずいゾ」
「だからいったいどうしたんだって」
「六年前に取り逃がしたあの箱。また姿を現したんダ」
予想だにしなかった言葉に、諭は息を呑む。
六年前、あの箱。諭の心を鈍色の靄で包んでやまない夜の海。そして。
――ねえ、ずっと一緒にいよう?
脳裏に蘇った少年の声に、全身からすうっ、と血の気が引いた。それが去ると一転し、血管という血管が破裂しそうなほど熱く脈打った。諭は深呼吸をして気持ちをいくらか落ち着けると、部屋の隅に掛けてあったバスタオルを掴み、平静を装い魂食い鴉をごしごしと拭く。
「箱は今どこにあるんだ」
「それが、見失っタ」
「は?」
羽根を拭いていた手が止まる。諭の声音に怒りを察し、魂食いはタオルの間を嘴でかき分け、顔を覗かせ弁明した。
「仕方ないだロ! あの箱の中には強烈な霊がたくさん入っているんだかラ、気配を隠すことくらい朝飯前ダ」
「じゃあ何で、一瞬でも箱が見つかったんだよ」
「街の方で光った霊的な何かに共鳴しテ、箱を封じていたやぐらが倒れたんダ。それで蓋が開いテ、何体かの霊が飛び出しタ」
「まずいじゃないか!」
「だからそう言ったじゃないカア!」
魂食い鴉が言う六年前の箱、すなわち使霊の箱。かつて鎌倉幕府の陰の高官であった諭の先祖、大江間家の呪具師が作り上げ、この世を乱した存在である。
使霊の箱はその名の通り、霊を閉じ込め使役するために利用された呪具だ。
箱の中で蠢くのは、現世に強い未練を残して死んだ者の魂。箱は彼らの成仏をあえて妨げ、怨霊化させて閉じ込める。
その危険性を恐れられた使霊の箱は鎌倉幕府滅亡後、呪具の制作と管理、使用などを請け負っていた大江間家により隠された。
泰平の世が訪れるまでに幾度と繰り返された騒乱の中、使霊の箱に限ったことではないが、大江間の呪具は権力者に狙われ政争や戦に駆り出されてきた。時には、大江間一族の者が富に目を眩ませて、時の権力者に呪具を差し出すことすらあった。
愚かな人間たちの振る舞いの末、大江間の呪具は時と共に日本各地へと四散した。
大江間家には、自らの一族が生み出した危険な呪具に対する責任がある。呪具を収集し、何者にも悪用させないよう管理することは、使命の一つなのだ。
諭は嘆息して、バスタオルを引っ込める。
「カア」
「父さんのところへ行こう。……それにしてもやぐらか。六年前のあの男、上手く隠したな」
この場合のやぐらとは、鎌倉の山肌に点在する、主に中世に利用された横穴式の墳墓である。少し山に入ればあちこちに見えるので、恐ろしいということもない。けれど、墓は墓。不用意に近づく者は少ないし、ましてや、やぐらの中に建てられた五輪塔や石仏に触れる者もなかなかいない。
バスタオルをベッドに放り投げ、腕を曲げて肩の高さで水平にする。すかさず魂食い鴉が飛んできて、諭の腕に止まった。爪が食い込むと同時、ずっしりとした重量が腕にかかる。もう慣れたものだ。
諭は陰鬱な気分で部屋を出て、絵画と花瓶の飾られた廊下を進み、父の書斎に向かった。平日の日中だが、在家だろう。
呪具師一族の当主である父だが、さすがに世間体的にも金銭的にも『職業・呪具師』とはいかない。
表向きは、民族学……特に霊的な信仰を対象とした学者ということになっている。そのため、フィールドワーク以外ではほとんど四六時中書斎に籠っているのだ。
「やぐらの様子は見に行ったの?」
「もちろン! だが、箱は忽然と消えていタ」
「誰かが持ち去ったのか? 箱はひとりでには動けないだろ」
まさか、中から抜け出した怨霊が誰か生身の人間にでも取り憑いて、箱を運ばせたのだろうか。そうなれば、危険極まりない。
最悪の事態が脳裏を過り、胃がぎゅっと握り潰されるような心地がした。諭は首を振り邪念を振り払い、書斎の扉を叩く。
「誰だ」
喉の奥で低くごろつくような声がした。諭は掠れた音を喉から絞り出す。
「父さん、諭です」
「入れ」
扉が開くと室内に滞留していた空気が押し寄せて、諭は思わず背筋を伸ばす。鼻をくすぐる、嗅ぎ慣れた書斎の匂い。背筋が伸びるような緊張感が全身を痺れさせる。
「どうした、諭」
机の真ん中で書物とにらみ合いながら、顔も上げず、父である大江間敦が言った。
学者という職業を耳にして彼の容貌を思い描いていた者は、実物の敦を見ると大抵、目を丸くする。敦は体格がよく、一日中書斎に籠っているようには見えないほど引き締まった体つきをしているのだ。
諭は父の頭頂を眺めながら、大きく息を吸う。漂う古い書物とインクの匂いは、父の香り。幼い頃は大好きだった。けれど六年前のあの事件を機に、諭にとって苦手な匂いとなった。
諭は腹の奥に力を込めて気を奮い立たせると、一歩室内に踏み込み、後ろ手に扉を閉じた。魂食い鴉が腕から飛び立ち、棚に設えられた彼用の止まり木に足を落ち着けた。
「父さん、魂食い鴉が、使霊の箱の気配を捉えたそうです」
ぱら、と紙面をめくる右手がぴたりと止まる。その人差し指と中指には、第一関節より先がない。
敦は顔を上げ、諭に軽く目を向けてから、魂食い鴉に問うた。
「それは間違いないか」
「間違いなイ、美味そうな穢れの匂いがしたタ! 六年前に食い損ねた穢れの匂いガ!」
ばたばたと翼を広げたり閉じたりする魂食い鴉に「そうか」と頷いて、敦はやっと息子に向き合った。
「それで、どうする諭」
決して拒絶するでもなく、嫌悪するでもない父の瞳。けれど眼底には氷のように冷たい無関心が膜を張っている。
諭はできるだけ意識して声に力を込めた。
「俺が探します。魂食い鴉を貸してください」
敦の視線が、じっと諭に注がれる。まるで睨み合うかのような間が空いてから、敦は何事もなかったかのように視線を手元に戻して言った。
「好きにしろ。大江間の物は金でも車でも何でも使っていいが、呪具だけは持ち出す前に報告するように。六年前の事件の挽回を期待しているぞ。あれは、まだ子どもだったから、では済まない失態だった」
身体中に突き刺さる冷たい言葉の針に、すっと頭が冷えた。
父に言われずとも、六年前の失態の重さは痛いほど理解している。
全身が凍りついた後、急速に溶解して逆流した血液が頭部に集い、頭部がカッと熱くなるのがわかる。諭は激情を押し隠すように顔を背け、拳を握り締めたただ軽く一礼して扉を開く。
「あ、諭、待ッテ」
閉じかけた重たい扉から、魂食い鴉がすんでのところで滑り出る。退室する息子の背中を、敦は一瞥たりともしなかった。




