4 呪具と呪具師と怨霊のこれからは
「ああ大江間さん、こんなにすぐに退居になってしまって、これは申し訳なかったねえ」
のんびりとした温和な口調で、おんぼろアパートの大家である清水トメが言う。
「まあ、こんなボロボロのお部屋じゃあ、仕方がないねえ。すまないねえ」
ちょうど昨日珠子が植えたばかりのパンジーが咲く花壇の前で。諭から鍵を受け取りながら、清水が心底悲しげに眉尻を下げている。
今日の服装は控えめで、白いブラウスにシックな茶色のロングスカートだ。奇抜な装いと怒濤のように流れ出す押しの強い言葉たちが彼女の代名詞だったはずなのに、この日はいったいどうしたことなのか。
珠子は諭に目顔で困惑を伝える。諭は軽く肩をすくめて応えてから、礼儀正しく一礼した。
「大家さん、短い間ですがお世話になりました。退居は一身上の都合です。ここに住むことができて、ありがたかったです」
感謝の念は、嘘ではない。四郎の遺骨発掘に始まり、このアパートは使霊の箱回収のため、大変助けになってくれたのだ。
清水は鍵を握り、目尻に光るものを浮かべながら、うんうんと頷いている。
「優しい子だね。退去しても、土蔵さんのところに遊びに来るついでに、あたしのところにも顔を出しておくれね」
「はい。その際はよろしくお願いします」
諭は生真面目に頭を下げる。
清水はそれを、まるで久々に会った親戚の子が気づけば成人していたことに感動した、といったような慈愛に満ちた眼差しで眺めてから、別れの言葉を述べて家へと戻って行った。
高齢女性の軽く曲がった小さな背中を見送ってから、珠子は困惑を吐き出す。
「人が変わっちゃったみたいだけど」
諭は目を細めて清水の消えた角を見ていたが、やがて振り返り、珠子を促した。
「ちょっと歩こうか」
「うん」
空は晴れ。わたあめのような雲がポツポツと浮かぶ夏の始まりの青空が、二人を見下ろしている。まさに散歩日和だけれど、隣を歩く諭には、そんな清々しい気分を満喫する風情などない。
案の定、景色など見ずに顎を撫でて歩き、思考を整理しているようだ。もっとも、アパートが建つのは海も見えない山際の細い坂道なので、目を喜ばせるものなど何もないのだが。
「そういえばさ」
諭が坂の中間辺りにぼんやりと視線を向けつつ口を開いた。
「大家さんのこと、江ノ島でも見たって言ってたよね」
「え、うん」
そういえばそうだった。様々なことがありすぎてすっかり意識の外になってしまっていたが、ヨシちゃんの姿を見たと言い浜焼き屋を飛び出した諭を追って江ノ島の奥まで進んだ時。ゴールデンウィークの人混みの中に、確かに清水トメの奇抜なセーター姿を見た。
「それで大家さんは、小中学生失踪事件の現場でもある稚児ヶ淵の方に目配せをしていた」
「うん、そう見えたんだけど、実際はどうだったのか」
「いいや、多分気のせいじゃないと思う。そもそも、土蔵さんが花壇を掘ったのは、大家さんが花壇に花を植えることを促したからだよね。で、四郎の骨が出てきたことで使霊の箱の在処が判明して、事態が動き始めた。廃ホテルでの一件後、無事に箱が封印されて、そうしたら大家さんが別人みたいになっていた。まるで、憑き物が落ちたかのように」
「……あ!」
諭が言わんとしていることを理解して、珠子は思わず裏返った声を上げて足を止める。
「まさか、清水さんは使霊の箱のことを知っていて、私たちを導いていてくれたの? でもどうして」
大江間の呪具師たちが六年間探しても気配を掴めなかった使霊の箱。その隠し場所を知っていたのだとしたら清水はいったい何者なのか。そもそも、なぜ直接的に箱の存在を告げず、花壇を掘らせたり思わせぶりな行動で稚児ヶ淵を示唆したりしたのだろう。
「これは想像だけどさ」
珠子につられて足を止め、諭が言った。
「清水さんには、呪具が憑いていたんじゃないかな」
「呪具?」
「ほら、前に言っただろ。呪具を探す力を得て生身の呪具になった女性がいたって」
「あ、朝津木寿彦に使霊の箱を渡して亡くなった、あの?」
寿彦の過去を見た時に登場した、あの奇抜な女性だ。諭は神妙に頷く。
「もしかしたら、彼女の魂……少なくとも魂の大部分は使霊の箱に囚われず、町を彷徨っていたのかもしれない。それで、自分が朝津木に箱を渡したことが原因でたくさんの犠牲者が出ていることを知って、罪悪感から使霊の箱回収の手助けをした。穢れを持たない霊だったなら、魂食い鴉が気づかなくても不思議はない。堂々と俺たちの前に現れなかったのはきっと、呪具師のところに帰りたくなかったからじゃないかな」
彼女は、呪具となったことで大江間家に運命を翻弄され、使霊の箱を盗んで逃げ出した人物なのだ。今さら合わせる顔もないだろうし、そもそもまだ大江間を恨んでいても不思議ではない。呪具師に見つかってしまえば再び自由を失い、呪具として利用される立場に逆戻りしてしまうかもしれない。
そう危惧したならば、多少回りくどい手段を使ってでも、直接的な関与は控えようと思うのは自然なことだ。
「……まあ、全部想像だけどな」
「でも、もし清水さんに憑いていたのが、本当に呪具の女性だったなら、その、呪具師としては回収しないといけないんじゃないの?」
珠子自身、残留思念を読み取る呪具となってしまったらしいのだから、決して人ごとではない。怖々と、諭の表情を窺う。少し長い前髪の間から、愛想のない、けれど決して冷酷さを纏わない黒い瞳が覗いた。
「だから、言ってるだろ。これはただの想像なんだ。不確かなもののために労力を使うのは無駄だし、まあ父さんも嫌がるだろうし」
きっと、ただの口実だ。諭はおそらく、呪具となってしまった女性の魂を拘束し、死してなお大江間に縛りつけることなど望まないのだ。
珠子の胸に、ぽつりと温かな熱が灯った。
社交的ではない。他人に興味がなさそうな、オカルト一族の末裔。そんな取っつきにくい諭だが、深く関わってみれば、きちんと情のある青年だった。
「……何?」
やや不機嫌そうに問われ、珠子は知らずのうちに頬が緩んでいたことに気づく。浮かんでしまった笑みをごまかそうと、唇を引き結んで首を横に振る。
諭の眉間にいっそう皺が寄った。どうやら追及からは逃れられないようだ。観念し、取り繕おうとして口を開きかけた、その時だ。
――ァァァァア……!
遥か上空から、日差しのカーテンを切り裂くような微かな悲鳴が降ってくる。
はっと顔を上げると、わたがしの雲の間から、ぼやぼやとした燐光が、まるで淡い火球のように落下してくるのが見えた。
「な、まさか」
既視感がある。珠子が目を丸くしているうちに、光は勢いよくこちらに迫る。そして、珠子たちのすぐ側に降り立った。
「汀!?」
「うわああん! どうして、どうしてなの! やっと成仏できると思ったのに!」
そう、先日、四郎と共に成仏したと思いきや天から降ってきた時と同様に、光の塊となって地上に現れたのは、汀である。
「大江間君、使霊の箱が封印されて、閉じ込められていた霊たちは解放されたんじゃなかったっけ?」
「そのはずなんだけど……何で汀がここに?」
「何でって、私が聞きたい! 空に昇って金色の温かい光に包まれたと思ったのに、よくわかんないけど、すっごい力で下に引っ張られたのよ。まるで、帯の端を掴まれているみたいに!」
「帯の、端」
呟いて、諭ははっと顔を上げる。
「そうか、多分汀は、土蔵さんと結びついちゃったのかもな」
「どういうこと!」
「ほら、土蔵さんは蠱毒の原理で呪具になっただろ。つまり、汀の霊的な何かがあんたと結びついた結果だ。ほら、四郎が成仏するときに一緒に行けなかったのは、使霊の箱が汀の魂の一部を閉じ込めていたからだっただろ。それと同じことが起こって、汀がここに降って来たんじゃない?」
「じゃあどうすれば私は四郎様のところに行けるの!」
「使霊の箱を封じたのと同じように、土蔵さんという器がなくなれば」
「ということは」
珠子は、陽炎のように揺らめく汀の輪郭から一歩後ずさる。
「私が死ねば、汀は成仏……」
「殺してやる、殺してやる」
汀の全身から、赤黒い火花が散った。
そうだ、今は浄化されたとはいえ、汀は元々怨霊。それだけ激しい気質と強い願いを持つ霊なのだ。
「ま、待って汀! 何か方法を」
「カアッ!」
珠子の耳に、救世主の鳴き声と羽音が届く。魂食い鴉だ。
木々の間から黒い影が飛び出して汀に襲いかかる。息をつかせる間もなく、鴉の嘴が異様に肥大。ペリカンのような口がぐわっと開き、汀の全身を呑み込み閉じる。
ぴったりと閉じられた嘴が、魂食い鴉の意志に反してぎぎぎと押し広げられ、汀の声がした。
「殺す。珠子、殺す」
「ど、どうにかして」
「魂食い鴉が汀の穢れを食ってくれるから、心配することはないよ」
「でも、また穢れが溜まったら『殺す』って言われるんでしょ」
「まあそうだけど、実際にはそんなことにはならない。だって魂食い鴉が」
「そういう問題じゃないの!」
怨霊から頻繁に怨嗟の声を浴びせかけられて、平常心でいられるものか。
思わず泣きそうになりながら叫ぶが、霊的なものに対しての慣れがあるのだろう諭は、珠子の不安が理解できないらしく、ただ不思議そうに首を傾けるだけだ。
「珠子、殺す、殺す、ころ、す……」
汀の声が止まり、ペリカン様の口がやっと閉じられた。
珠子は大きく嘆息して、空を仰いで声を上げた。
「もうオカルトには関わりたくないのに!」
「現実逃避するなよ。何とかできる呪具がないか、文献を調べてみよう。目星をつけたら回収しに行くか。まあ何とかなるだろ」
呪具回収の困難さは、今回のことで身に沁みた。正直もうこりごりだし、そもそも諭の言葉には何の根拠もない。
それでも信じてみよう。いいや、信じてみるしかない。むしろ、縋るより他ないのだ。
珠子は、ポケットの中に手を入れて、三つ折りの契約書を軽く握った。今後の身の振り方に、未だ迷いはある。
けれど、空は青い。珠子の心とは裏腹に。
観光地ながら、霊の蔓延る古都鎌倉。幽玄の地にて、呪具師は日々、呪具回収に奮闘している。
きっと、今この瞬間も。
<完>




