3 それがやってくる
その晩は、肌にねっとりと纏わりつくような、濃密で生温い湿気が室内に漂っていた。
備えつけの蛍光灯は、真ん中に紐が垂れた、時代を感じさせる品である。黄ばんだ紐を引く度に、光度は大、中、豆と変化するはずなのだが、大の蛍光灯が切れてしまっているらしく、中の明かりで夜を過ごす。けれどその真ん中の蛍光灯も寿命残りわずかと見えて、時折ちかちかと明滅を繰り返しているので心許ない。
窓を洗うような豪雨の音に支配された古いアパートの一室で、珠子は芋虫のように寝袋に包まって、うつ伏せに肘を突き手元の小箱を撫でていた。
各面に、それぞれ特徴の異なる白薔薇が描かれた、アンティークのオルゴール。やや古びて塗装の剥げもあるのだが、木製の品特有の温かみのある美しい品だ。
これは、六年前、珠子が中学三年生の頃に車の事故で亡くなった母、結子の遺品である。
おもむろに金具を弾く。蝶番が微かに軋む音がして蓋が後ろに上がった。
中に納められていた紙の山が蓋の圧力から逃れ、微かにふんわりと膨らんだ。まるで自らを主張するかのようなそれを、一枚一枚順番に捲る。
拙い文字で懸命に綴られた手紙、達筆で感謝を記された紙片、可愛らしいタッチの似顔絵、有名アニメキャラクターがお礼の言葉を口にしているイラスト。全て、小学校で心理カウンセラーをしていた母がカウンセリーである生徒や教員から贈られたものだ。
母結子は仕事や日々の暮らしに疲労すると、この箱を開けて気持ちを奮い立たせていたようだ。
失業する前の珠子は総務業務を担当していたので、結子のように人の心に寄り添い傷を癒す手助けをしたことはない。けれど、こうして感謝を表してもらえることでいかに励まされるかということは、考えるまでもない。
結子が亡くなってから珠子も、この箱に収められた、宝石よりも美しく尊い真心の結晶を時折眺め、母の愛情深さに思いを馳せていた。
けれどふとした拍子に我に返り、皮肉な気持ちになることもある。何せ母は、娘を裏切り、そして事故に遭って死んだのだ。
胸の奥で、思慕と怨嗟と寂寞がどろどろに溶けて混じり合い、沼となる。珠子は今年、二十一歳だ。今さら親恋しさに涙を流すことなどないが、幼少期より母一人子一人で育ったのだから、心の片隅に時折、結子との思い出が蘇るのは妙なことではないだろう。
珠子は嘆息し、蓋を閉じる。ぱちん、と板がささやかに打ち鳴らされた、その時だ。
窓の向こうから、強烈な閃光が差し込んだ。半拍遅れ、耳をつんざく雷鳴が轟き、低い地鳴りが続いた。
「山崩れ?」
腹の奥底をかき乱すような重低音が、裏山の方角で唸りを上げる。まさか土砂崩れでアパートが呑まれてしまわないだろうか。
珠子は寝袋から這い出した。外の様子を見ようとして、窓に額を寄せる。ひんやりとしたガラスから、嵐の夜の冷気が漂ってくる。それは珠子の全身に伝播して、身体の芯をぞくりと震わせた。そして。
カッ、と再び稲光。落雷が何かを殴打した破裂音が響き、珠子の眼前、ガラスには、己の顔が映る。
が、その髪は煤けて束をなしながら乱れ、顔面は焼け爛れ、瞳は白濁し光を映さない。これではまるで、焼死体ではないか……。
珠子は思わず悲鳴を上げた。
転がるようにして後退り、アンティークのオルゴールを踏んでしまい尻餅をつく。箱が開き、可愛らしい音楽を響かせながら部屋の角に転がって、中身がぶちまけられた。
全身が凍るようだった。びりびりと痺れた思考の狭間、荒い息を繰り返す。やがてほとんど無意識に前のめりに手を突いて、窓辺へと這う。先ほど醜怪な顔面が映し出された辺りに、おそるおそる視線を向ける。
ちかちかと、蛍光灯が瞬いた。やがて、最後の力を使い果たしたかのように、小刻みに明滅してから光が消える。
室内に、宵闇が訪れる。近くでまた雷の閃光が迸り、ガラスが光る。……間違いない。何かいる。強烈な光に照らされて、それは赤黒く炭化したような唇を開いた。
――ダレ……ユルサナイ、アノヒトハ、ワタシノモノ……。
窓の向こうから、重油よりも黒々とした重たく粘質な圧が弾丸となり押し寄せて、珠子の胸の真ん中を打つ。
あまりの衝撃に心臓が止まる心地がした。そのまま呼吸すら失って、珠子は仰向けに昏倒する。
オルゴールのねじが切れかかる。愛らしい音楽は次第に緩慢な音の粒となり、旋律の途中で止まったらしい。中途半端な、短調の余韻が消えゆく中、畳の上に広がる紙が、繰り返される稲光に照らされて、ちらちらと文字を浮かび上がらせる。
『これからも永遠に、僕を癒してください』
几帳面な文字で記された手紙が、窓辺で瞬く紫色の閃光を弾いていた。




