3 六年越しの思いを告げて
高台にある大江間家のバルコニーにて。
眼下、海の方角から拭き上げる潮風が、珠子のセミロングの髪を舞い踊らせる。珠子は収霊袋を掲げ、呼びかけた。
「お母さん」
手にした収霊袋からにじみ出た温かなものが、珠子の全身を撫でる。何度目かの瞬きの後、気配を感じて目を向ければ、少し離れた柵の側に、ぼんやりとした燐光を放つ女性の姿があった。
母結子。六年前と何一つ変わらない姿に、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、声が出ない。
海と日だまりの匂いを帯びた暖かな風が、二人を包む。やがて、先に口を開いたのは結子であった。
「珠子、会えてよかった」
低くもなく、高くもなく、ただ大きな愛情を感じさせる、懐かしい声。六年間、懐かしみ焦がれてきた母の言葉。
耳朶を震わせた声は全身に染み渡り、言い知れない感情が珠子の意識を絡め取った。
話したいことがたくさんある。けれど、感情ばかりが大渋滞を起こし、喉からは音のない呼気が吐き出されるだけだ。
そんな珠子の心中を見透かしたように、母は眉尻を下げながら微笑んだ。
「珠子、ごめんなさい。寂しい思いをさせたね。怒っていいのよ。私はあなたを置いて行ってしまったのだから」
珠子は息を呑むように、大きく空気を吸い込んだ。……そう、寂しかったのだ。
母は、恋人がいる気配など全く見せなかったにもかかわらず、深夜に男性と密会していた。その挙げ句、事故に遭って突然この世を去った。珠子をたった一人残して。
母を恨み、母の行いを心の中で非難し続けてきた。けれど、六年前の真実を知った今、怒りは矛先を失ってしまう。そうしてやっと気づいたのだ。珠子は、母を憎んでいたのではない。ただ寂しくて、行き場のない悲しみを怒りに変えて母にぶつけたかっただけなのだ。
そんな珠子の鬱屈すら理解しているかのような母の包容力に促され、珠子の喉はやっと振動した。
「ずっと、裏切られた気分でいたの。あまりにも突然だったから、お母さんが死んでしまったなんて信じられなくて、理解もできなくて。寂しくて寂しくて」
母に捨てられた。ならば他人はもっと信用できない。そんな捻くれた考えを抱き続けて六年間、頑なに心を閉ざしてきた。胸に鉄壁を築くことで、壊れやすい心が失望や悲嘆で傷つけられるのを防ぐように。
確かに、元婚約者の透矢のように人を裏切る者はいる。けれど、彼だって、純然たる悪意だけで珠子や社員を切り捨てたわけではないのかもしれない。
経営が立ちゆかず、苦渋の末、逃げ出すしかなかったのだろう。突然夜逃げするというやり方はもちろん、褒められたものではない。それでも彼がくれた愛情は、まやかしだったのではないはずだ。
結子はただ微笑んで、娘から投げつけられる感情たちを受け止めている。
身体の奥に沈殿していた思いは、一度発露する道筋を得れば止まらない。
「でも、全てを知って、私がただ意固地になっていただけだって気づいた。お母さん、ひどいことばかりを考えていて、ごめんなさい」
不意に、母のオルゴール箱に収められた、カウンセリーたちからの手紙が脳内に蘇る。
仕事に対して熱意を持ち、多くの人から頼られていた結子ならば、寿彦の様子がおかしいと知れば救いに行こうとするのも当然だろう。
珠子は自分の苦しみばかりを気にかけて、結子や透矢の葛藤に目を向けてこなかったのだ。
視座が変われば、見える世界も変わるもの。珠子はやっと、己が己に対してかけていた呪縛から解き放たれたのだろう。
洟をすすり始めた珠子に、結子はいいえ、と首を振る。
「謝るのは私の方よ。突然いなくなって、あなたから人を信じる心を奪ってしまった。でもきっともう、大丈夫ね」
再び吹いた海風に、結子の輪郭が揺らめいた。
「最後に珠子と話せてよかった。使霊の箱に囚われて、死んでも消えられない苦しみに悶えてきたけれど、箱があったおかげでちゃんとお別れを言えたのだから、これもこれでよかったのかも。ああ、私に時間をくれた、あの男の子……大江間諭君にもお礼を伝えておいてね」
「お母さん」
珠子は思わず手を伸ばす。
「最後だなんて、どうしてそんなことを言うの。お母さんは目の前にいる。せっかく再会できたのに、すぐにいなくなってしまうなんて、そんなの」
縋る言葉は、ふと途切れる。母の腕を掴もうとした指先は宙を掻き、光の粒子が軽く舞った。何度試みても、陽炎のような姿に触れることができない。
瞠目し、口を開いたまま硬直する珠子に、結子は寂しげで、けれどどこか満足そうな笑みで頷いた。
「あなたはもう、大丈夫」
珠子の喉から、ひゅう、と息が鳴った。
もっと側にいて欲しい。霊体でもいい。触れられなくともいい。自分勝手な心が、そう叫んでいる。
その一方で、しかと理解している。母は、もうこの世にはいない。魂は成仏し、天へと戻るべきなのだ。未練を残し、怨霊となって現世に残ることは、決して幸福などではない。母の現世での心残りを溶かしてあげなければ。
珠子は唾を呑み込み、手を引っ込めて、懸命に口角を上げた。
「うん。もう、私は大丈夫。だから安心してね、お母さん」
結子が笑みを深める。記憶の中と何ら変わらない、愛情に満ちた、大好きな表情。ああ、そうだ。結子はいつも、こうして珠子を見守ってくれていた。
ふわり、とひときわ強い風が吹く。思わず目を閉じてから、まぶたを上げた正面にはただ、黄金色の陽光の欠片がちらちらと舞うだけだった。
珠子はしばし余韻を噛み締めてから、首を動かし地平線を見下ろす。紺碧の海が、新しい日々の始まりを言祝ぐように輝いて見えた。




