13 箱が、開く
世界が、温かく強烈な赤光に満たされる。それが去った後、珠子が次に見たのは、薄暗い洞穴の風景だった。
結子の意識は、死霊の箱の中に囚われていた。暗い。近くには、同じように箱に閉じ込められた怨霊たちがいて、怨嗟や苦痛の呻きがまるで地鳴りのように断続的に響いている。
結子は自動車事故で死んだのだ。そのことは早い段階で理解した。
一人残されてしまった珠子の様子が気にかかり気が狂いそうなほどであったが、動かす身体もなく、かといって意識は、全てを圧迫して覆い尽くす木材に阻まれて外界に出ることが叶わない。
箱は、洞穴内に佇む五輪塔の陰に安置されていた。珠子は話すことも動くこともできないまま、使霊の箱の中で全てを見守った。
寿彦は、結子に懸想していたらしい。結子が見せたカウンセラーとしての優しさを、男女の情愛と勘違いしたようなのだ。
彼は洞穴の中で己の首をくくり、自ら命を絶った。死の間際、「これでずっと一緒だね」と呟き、その魂は死霊の箱の中に吸い込まれた。
やがて死体が腐りかけた頃、肉の匂いに引き寄せられた山の獣が彼の身体をどこかへ運んでいった。寿彦は己の肉体が獣に蹂躙されることには無頓着で、ただ、閉ざされた箱の中で結子に寄り添っていた。
箱の中にいても、魂たちはただぼんやりとした意識を保ちながら、静かに時を過ごすだけ。それでも、すぐ側に寿彦の気配を確かに感じながら、結子は気の休まらない日々を過ごす。
気の遠くなるような時間が経過した。後で知ったことによると、結子が箱に入ってから六年が経っていた。
ある日、これまで静かだった怨霊の一体が急に恨みの感情を爆発させた。
使霊の箱が隠された洞穴の外に、未だかつてないほどの豪雨が降り注ぎ、雷が鳴る。世界が焼き切れてしまいそうなほど強烈な閃光が迸った直後。すぐ近くに落雷し、地面が大きく揺れる。地震の折にもびくともしなかった五輪塔に罅が入り、石の欠片が落下する。その振動で、使霊の箱が地面に転がり、一瞬だけ蓋が開いた。
その隙を縫い、雷雨を呼んだ怨霊が飛び出した。結子は咄嗟に後に続き、怨霊を追った。
どうやら蓋はすぐに閉まってしまったようで、他に飛び出る霊はない。結子が逃げ出せたのは、幸運だった。そして、先行する怨霊が向かった先に、娘である珠子がいたことは、偶然以上の運命であった。
……残留思念が途切れ、長い回想から引き戻される。珠子が目を開くとそこは、黒い煙が不快な臭いを撒き散らす、廃ホテルの庭である。
火の手がさほど広がっていないことから推測するに、寿彦と結子の記憶を読み取っていた時間は、ほんの一瞬のことだったのだろう。そうとは思えない濃密さだったけれど。
「つまり」
傍らに立つ諭も同じ記憶を見たようで、半ば呆然としながら整理した。
「土蔵さんが四郎の遺骨を掘り出したことで、死霊の箱の中にいた汀が荒ぶり、雷が鳴る。そして、落雷の衝撃で微かに開いた蓋の隙間から、汀と結子さんが逃げ出した。二体の霊はあのアパートにたどり着き、どちらも土蔵さんに取り憑いた」
それから間を置かず、源氏山公園で雨に見舞われたいじめっ子の瑛人が雨宿りのためにやぐらに向かう。
そこで使霊の箱を見つけ寿彦の霊と出会い、心の傷を利用されて言いなりになった。そして、魂食い鴉から「箱が動き出した気配がする」と報告を受けた大江間は警察の怪異専門部署に届け、警察は寿彦の近辺を調査するために寿彦の双子の弟幸彦のところへと調査に向かう。それと前後して、瑛人を利用することで外界に干渉する手段を得た寿彦の霊は、幸彦に手紙を出していた。使霊の箱を弟に開いてもらい、その身体に乗り移るために。
全てがつながった。寿彦が生きていないのならば、騒動を治めることは、思ったよりも容易と思われる。珠子は薄く唇を開いた。
「だったら、使霊の箱を封じれば全て解決する」
成仏しかけた汀が地上に落ちて来てしまったのは、彼女の魂が今もなお使霊の箱に囚われているからだ。
つまり、使霊の箱の住人たちは外界に出たとしても、呪具の影響を受けている。それならば、この呪具を封じる、もしくは浄化してしまえば寿彦の自由を奪えるはずだ。
「珠子ちゃん、いったいどうしたの?」
手を伸ばせば触れられるほどの距離で悠然と立つ寿彦が、怪訝そうに言った。
珠子ははっと我に返る。どうやら寿彦は、残留思念が見せた過去を追体験しなかったようだ。
使霊の箱は珠子の手の中にある。これさえ奪われなければ、寿彦がどこへ逃げようと、問題はない。
「朝津木寿彦」
勝利の道筋を見つけた珠子は、腕からの出血により朦朧とし始めた意識をかろうじて保ちつつ、噛み締めるようにして断言した。
「あなたの馬鹿げた企みが、全部わかった。あなたの悪行を止める方法もね」
「何?」
「あなたは使霊の箱の使用者だけど、自分も使霊の箱に囚われている死人。そうでしょう?」
「な、何を言っているんだ」
「そして今、呪具は私の手の中にある。つまり」
寿彦の表情が凍りつく。珠子は口の端を持ち上げた。
「あなたは私の言いなりになる。……さあ、箱に返りなさい、朝津木寿彦」
珠子は、躊躇いのない動作で使霊の箱の蓋を開いた。諭がぎょっとして止めようとしたが、珠子の手は潔かった。
開いた箱から、腹の奥をぐるぐるとかき乱すような、重く禍々しい気配が噴出する。鎌倉時代にこの呪具が作られてから、長きに渡り、様々な背景を持つ怨霊が捕らえられてきた。
恨み、妬み、苦しみ、怒り……。
それらの負の感情たちを何十年、何百年と熟成させた怨霊が、珠子の意志に従い寿彦に飛びかかる。
「なっ、やめ」
寿彦の喉から、引きつった悲鳴が上がる。おびただしい数の霊が、漆黒の闇を引き連れた弾丸のようになり、一つの肉体に一斉に飛び込んでいく。当然、人の身体は多くの霊魂を同時に受け入れるようにはできていない。
寿彦……いいや、幸彦の中は飽和状態になる。内部から、はち切れんばかりの圧を受けて押し上げられたのか、顔や首に血管が浮き出し始める。まるで薄い皮膚の下に小枝を埋め込んだかのようだ。
堪えきれず、寿彦の霊がはじき出された。耳をつんざくような悲鳴が上がる。
珠子はすかさず寿彦を箱に回収すると、使役する怨霊たちを呼び戻す。
怒濤のごとく押し寄せていた霊たちは、波が引くように箱の暗闇の中へと戻って行く。寿彦の支配を逃れた幸彦の身体は、まるで糸が切れたかのように力を失い、その場に頽れた。
第三話 終




