12 全ての始まり――結子
朝津木寿彦は、心を病んでいる。それは、度重なるカウンセリング内容から見ても明白だった。
精神の均衡を崩したのは、結子のカウンセリーでもあった由行の自殺以降のことである。けれど、それはただのきっかけにすぎない。寿彦は以前から、壊れやすい心を抱えていたのだろう。
一つ、不幸中の幸いだったのは、寿彦は絶望から自らの命を蔑ろにするタイプではないことだろう。どちらかといえば、自分の都合のいい妄想に耽り、心を守る傾向にある。
その思考回路ゆえか、結子に注がれる寿彦の目はいつも、仕事上の関係以上の熱を帯びていた。
決して好ましくはない。けれどそういうカウンセリーには何度も出会ってきたし、うまく対処する方法も理解している。
本当ならば、コンビニとはいえこのような夜更けに寿彦と面会などしたくないのだが、怨霊や由行のことまで持ち出して突然連絡をしてくるなど、心が不安定になっている証拠だろう。ここで彼を見捨てれば、都合のいい妄想を打ち砕かれた寿彦は過激な方向に舵を切ってしまうかもしれない。
だから結子は、珠子の部屋を覗いて健やかな寝息が繰り返されていることを確認してから、深夜に車を走らせて指定の場所へと向かったのだ。
三十分ほどでたどりついた待ち合わせ場所にはすでに、寿彦がいた。
コンビニ特有の、眼球が痛むほど白く強烈な光を浴びて自動ドアの前に佇んでいた寿彦は、車のフロントガラス越しに珠子と目が合うと、満面の笑みを浮かべて近づいて来た。
「来てくれたんですね」
「朝津木さん、大丈夫?」
車から降りるなり思わず問えば、寿彦はきょとんと目を丸くした。
「僕? 僕は何も問題ありません。大変なのは由行君ですよ」
まだ妄想に取り憑かれているのだろうか。結子は、寿彦の精神状態を見極めようと、じっと目を向ける。その視線を受け止めて、寿彦は頬をいっそう緩ませる。
「土蔵さん、今すぐ一緒に由行君を助けに行きましょう。葉山の浜辺で由行君は今、人を殺そうとしています」
「どうしてそんなことを知っているんですか?」
結子は用心深く声を発する。妄想を妄想であると真っ直ぐに指摘することは適切でない場合もあるのだ。
「由行君とはね、今も交流があるんです。どうやら彼、お友達を見つけたみたいで、すごく嬉しそうにしていたんですよ。でもその子、最近由行君に会いに来てくれなくなってしまったみたいで。可哀想に、気持ちが離れてしまったのかな。由行君はそれを受け入れられなくて、ずっと一緒にいられる場所にその子を連れて行こうとしているんだ」
「あのね、朝津木さん。由行君は」
もうすでに亡くなっている。由行の自殺後、精神状態を崩したからこそ、結子と寿彦は出会ったのだ。そのようなことすらわからないほど心を崩してしまっているのだろうか。
結子の懸念にも気づかないのか、寿彦は妙に真に迫った声音で続ける。まるで、映画のワンシーンを気取っているようだ。
「由行君の気持ちもわかるんだ。殺してでも側にいたいという痛切な心が。でもさ、結子さんはそんなこと望まないでしょう?」
「……」
「だからさ、一緒に助けに行きませんか。葉山の浜辺。由行君がいる場所は知っているんです」
「どうして私を誘ってくれたんですか」
「土蔵さんは、由行君のカウンセラーです。彼の心を救えるのは、あなただけ。そう、あなたが僕の心を癒やしてくれたように」
共に行くのは危険だ。少なくとも、今は。
狂気に魅入られたかのような寿彦の表情を冷静に眺め、結子は確信した。そして、拒絶を悟られないように神妙な顔をして頷いた。
「わかりました。由行君のところに行って話してみます。住所を教えてくれますか」
「僕が助手席で案内しますよ」
「いいえ、私一人で行きます」
「どうして?」
「由行君の心を、刺激したくないんです。朝津木さんだからだめというわけではないんです。ただ、大人が複数で行くと、怖がらせてしまうかもしれないから……」
寿彦はしばらく思案げにしていたが、やがて理解を示す。
「わかりました。じゃあ住所を何かに書きますね」
寿彦は背負っていた黒いリュックの中を物色した後、緑色のカードを取り出して、胸のポケットに挿さっていたボールペンで文字を走らせた。
「ここです。行ってみてください」
結子は少しでも早くこの場を去りたい一心で礼を述べ、カードを受け取る。寿彦に見守られながら車に戻り、カーナビの目的地案内を起動する。
緑のカードは、ラブホテルの名刺のようだ。そのことも、結子の心に不気味な靄をもたらした。
懸命に平静を装い、番地を打つ。その間、寿彦はサイドガラスの向こうからじっと結子を見つめていた。もしかすると、指先が震えていることに気づかれてしまったかもしれない。
「じゃあ、行きますね」
結子は細く窓を開けて短く宣言をした。それから返事を待たず、窓をぴったりと閉じてサイドブレーキを上げる。アクセルを踏んだ時、聞こえるはずもないにもかかわらず、寿彦の声が車内に響いたような錯覚を覚えた。
――気 を つ け て。
それはまるで、この後結子を襲う悲劇を予見したかのような、冷たく不気味な声音であった。
結子は、寿彦の発言を妄言だと思っていた。家には娘の珠子が一人で眠っており、自身も明日は仕事がある。早く家に帰りたい。
だから最初から、寿彦が指定した住所に向かうつもりはなかった。けれど、寿彦の粘着質な視線が後ろから追ってくるような心地がして、すぐに自宅に戻るのは躊躇われる。
結果的に、目的地方面の高速道路に乗り、途中で引き返そうと考えた。そして。
「え……」
そろそろ下道に出ようかと思った時。ハンドルが強い力に奪われた。タイヤが抉れるように擦れる音がして、ヘッドライトが道路ではなく正面の何かを強く照らした反射で目が眩む。
何が起こったのか理解する間もない。車は速度を保ったまま、中央分離帯に衝突した。
激しい衝撃に身体が投げ出され、気づけば結子は上空にいて、夜の高速道路に赤々とした熱光を放ちつつ炎上する車眺めていた。
痛みはない。意識もしっかりとしている。これは夢なのだろうか。
混乱が結子を襲う。何一つ理解が及ばない中、少年の慟哭が耳を打った。
――やっぱり僕のことなんて誰も必要としていないんだ。誰も一緒にいてはくれないんだ。
腹の奥底に沈殿した何かを吐き出すような、細い声。聞き覚えがある。忘れはしない。カウンセリーの自害を防げなかった悔いは、結子の中にずっと残っている。この声は紛れもなく由行だ。
寿彦の話は妄言ではなかったのだろうか。由行はなぜ悲しんでいるのだろうか。いいや、あれはほんとに由行の声なのだろうか。いったいこれは……。
――ずっと一緒にいよう?
由行の声が、微かな恍惚を帯びている。そこに、寿彦がまとっていたのと同じ狂気を感じた刹那。
結子の意識は光になって、由行のところへと向かっていた。もし、由行が死してなお苦しんでいるのだとしたら、助けたい。今度こそは。その思いは赤い熱を放ちながら由行の元へ駆けつけた。
頭部がザクロのように割れ、関節の可動域を無視した角度に四肢が曲がった痛ましい姿の由行が、中学生ほどの少年を海に引きずり込もうとしている。
結子は本能のまま、少年と由行の間に体当たりをするようにして割り込み、由行の罪を止めた。
成すべきことを果たし、ひとまずの安堵に満たされると、意識が薄れ始め、景色が明滅する。急速に眠りに落ちたかのように、しばらくの間、暗黒に満たされて。そして。
「これでずっと一緒だね、結子さん」
パタリ、と何かが閉じる音がした。




