11 全てのはじまり③
後から気づいたことだが、女の魂は箱の中になかった。
薄らと気配のようなものは感じるので、彼女の一部は箱の中にいるのかもしれないが、どちらにしても、首尾よく回収してあげられなかったらしい。可哀想なことをした。彼女は、使霊の箱の素晴らしさを寿彦に語ってくれた。ということはつまり、箱の力にいい印象を持っていたのだろう。彼女も、肉体的な苦痛から逃れたいと願い、永遠の住処に憧れを抱いているに違いない。
いつかどこかで彷徨う彼女の魂を見つけたら、箱の楽園の中に招いてあげよう。
寿彦はその後、由行のアパートに行き、教え子の魂を無事に回収。仕事なんてしている気分ではなくて、翌日は欠勤した。さらに翌日も、その次も……。
その間、使霊の箱で暮らす霊の力を借りて、結子を尾行し電話番号を入手した。
始めての電話の日。「箱に入りませんか?」と直接言ってみれば、結子は怪しい勧誘か何かだと思ったのか、答えもなく切られてしまった。名乗る暇さえなかった。
さすがは結子。思慮深い。そんなところも寿彦を惹きつけて止まないのだが。
寿彦は由行に協力してもらい、結子を肉体から解放してあげるための策を練ることにした。
ちょうど、使霊の箱には子どもの住人がいなかったので、由行が寂しがっていたこともあり、寿彦は由行に、一緒に住む友達を探して来るようにと告げた。
そうして由行が、葉山の海辺で見つけた友達を使霊の箱に招く晩。寿彦は結子に電話をかけた。もうすぐ日付が変わろうかという時刻であったが、その方が雰囲気が出るだろう。
今度は前回の反省を生かし、正体を告げてから本題に入る。
「朝津木さん? 朝津木さんなのね」
結子は、寿彦と話すことができて興奮しているらしい。感情を噛み締めるような間が空いて、電話越しの声が震えた。
「よかった。急に学校に来なくなってしまったと聞いて心配していたんですよ。いったい何があったんです。それに、どうして私の電話番号をご存じなの」
「ご心配をおかけしてすみません。あれから少し……心身が不調でお休みをもらっていました。電話番号は、学校にデータがありましたよ」
「声はお元気そうね。ああ、よかった」
結子は優しい。心底安堵した声音からは、寿彦への深い愛が見え隠れしていて、とても満たされた気持ちになった。ああ、やはり彼女なしには過ごせない。
「今日は、僕のことではなく由行君のことでお電話をしたんです」
映画のワンシーンのように格好よく、哀れな少年を救おうとするヒーローのように台詞を連ねる。
「昨年自殺をしてしまった由行君です。覚えていますよね? あの子、怨霊になって人を呪っているんです」
「え?」
結子の声が曇った。寿彦は続ける。
「今宵、葉山の海で人が死にます。由行君の企みです。あなたにはそれを止めてもらいたい。生前由行君の心に寄り添ってくれていた土蔵さんなら、彼を説得できるはずなんです」
キマッた。凜とした調子で言い切った。愉悦が腹の奥底から湧いてくる。
結子は、寿彦の凜々しさに驚いたのか、余韻に浸っているようだ。しばらくしてから穏やかな声がスピーカーから返ってきた。
「朝津木さん、本当に大丈夫? きっとまた辛いことがあったのね」
「ありました」
結子と会えない日々は辛い。しかしだからこそ、相思相愛の二人が永遠の時を共に過ごせるように、こうして策を練っているのだ。安心してね、結子さん。
「今から僕が言うコンビニに来てください」
男らしく、明瞭に言う。
「そこで、詳しく説明しますから」
「でも」
結子は受話器の向こうで躊躇っている。
「由行君を助けられなかったこと、後悔しているんでしょう?」
軽く息を呑む気配がした。寿彦はもう一つ背中を押す。
「あなたが動かず、また何か悲惨なことが起こってしまったら。きっと悔いが残るはずですよ」
結子は黙り込む。遠く離れた場所から、微かな息づかいが聞こえそうな沈黙。やがて、結子はぽつりと漏らす。
「そうね、朝津木さんのことが心配だもの」
何が心配なのだろう。すぐには理解ができなかったが、まあとにかく、由行の話をしながらも寿彦を心配してくれるほど、結子の愛は大きいということだろう。
さっそく寿彦は住所とコンビニの店舗名を告げる。今から向かうという約束を取りつけて、切電ボタンを押した。
電話が切れる、ぷつりという音と同時。映像と音声にノイズが生まれ、世界が暗転。
充足感に満ちた心は瞬時に冷え、警戒と不安に全てが支配された。気づけば珠子は、母結子の意識と同調していた。




