9 全ての始まり①
「どうか気に病み過ぎないでくださいね、朝津木さん」
何と美しい声だろう。彼女は、穢され色褪せたこの世界に舞い降りた天使に違いない。
寿彦は、うっとりと目を細め、正面に座し帰り支度を始めるカウンセラー女性を見つめた。
目元がすっきりとしている、聡明そうな顔立ち。肩の辺りまで伸びた髪は暗めの茶色に染色されて上品な印象だ。首は細く、腰も細い。
年齢を聞いても「女性にそんなことをお聞きになるなんて」と冗談めかした笑いではぐらかされてしまうのだが、中学生の娘がいると言っていたので、四十代ほどだろう。人によっては、余分な場所に脂肪がついて取れなくなってしまう年代だが、寿彦の天使――学校カウンセラーの土蔵結子は、普段から自分を律していると見えて、スタイルもいい。
結子は机の上の書類を纏め終わると、ふと窓の外を眺めた。青い絵の具をぶちまけたかのような蒼天に、葉桜が青々と揺れている。
「こんな日は、由行君のことを思い出しますね」
「ああ……」
寿彦は気のない返事をする。
由行とは、小学校教諭をしている寿彦のクラスに所属する男児だった。母子家庭の子だが、今時そういった生徒は多くいる。日本の夫婦の約半分が離婚をするという話も聞くし、母子の二人暮らしというだけならば由行の家庭が特別ということもない。寿彦自身も母子家庭の育ちだったし、目の前にいる天使も女手一つで娘を育てていると聞いていた。
けれど、由行が哀れなのは、時折暴行を受けていたことである。
加害者は、母親の恋人。児童相談所の捜査が入ったこともあるらしいが、経過観察になっていた。
そしてちょうど一年ほど前の夏、由行は自宅のベランダから飛び降りて、死んだ。
落下地点が悪かったのか、潰れたザクロのようにぐちゃぐちゃな死体だったらしい。これは噂だが、彼の住んでいたアパートの近くでは今でも、夜な夜なすすり泣く血まみれの少年の姿が目撃されているという。幽霊、というやつだろうか。可哀想に、成仏できていないのだろう。
元気だった頃の由行のつるりとした愛らしい顔を知っている元担任教師としては、なんとも痛ましく思えることである。
けれど寿彦は、由行に感謝している。だって、あの子が自殺をしてくれたから、結子のカウンセリングを受けることができるようになったのだ。
死の原因が学校ではなかったとしても、寿彦は自殺者の元担任教諭だ。心ない言葉を浴びせかけられることもあり、一時は心を壊しかけたけれど、結子だけは寿彦の味方であった。彼女が癒やしてくれたから、前を向いて生きられたし、休職もしなくて済んだ。さすがにクラス担任からは外されたけれど。
「由行君のことは、私も担当していたカウンセラーとして残念でしたけれど、少しずつ前を向いて過ごしていきましょうね」
ぼんやりとした寿彦の様子を見て、蘇った悲しみに浸っているとでも思ったのだろうか。結子は眉尻を下げて言い、ファイルの底を机で軽く打ち書類の高さを整えてから、腰を上げた。
床を滑る椅子の音で我に返り、寿彦は瞬きをする。視線が合うと、珠子は笑みを深めて頷いた。
「では、また次回よろしくお願いします」
硬直したまま動かない寿彦に、少し困ったような顔をした結子だが、やがて一礼し、教室を出て行った。
シャンプーか何かだろう。仄かに甘い残り香が、寿彦の鼻をくすぐり、胸をぎゅっと締めつけた。
あの微笑みは、どういう意味なのだろう。
別に楽しい話なんてしていなかったはずだから、愉快だったわけではないはずだ。ならばきっと、そう。彼女は僕に気があるに違いない。
寿彦は、たどりついた結論を何度も何度も胸の中で反芻する。結子さんは、僕に、気がある。
だからいつも優しいし、格別の笑顔を向けてくれるし、定期的に会ってくれるし、これまでに出会ったどんな女性よりも深く傾聴してくれるし、寿彦の目を熱く見つめてくれるし……ああ、どうして彼女はいつも、きっかり一時間で寿彦の前からいなくなるのだろうかと思っていた。けれど今、理解した。
彼女はただ、照れているのだ。本当は寿彦ともっと話したいはず。だからこそ、意味深長な微笑みと、誘惑的な匂いを残して去ったのだ。
いくら思慕の念が募っていたとしても、女性から男性を誘うのは少し気が引けるのではなかろうか。ならば寿彦がリードしてあげなくてはならない。そうだ、そうなのだ。
結子をデートに誘おう。
そう決心したのだが、考えてみれば連絡先すら知らない。次回のカウンセリング時に声をかけようかと思ったが、却下する。情熱の炎は胸の奥で燃え盛っている。きっと結子も同じだろう。そこまで待ってはいられない。
寿彦は結子を派遣しているカウンセラー組織に連絡を入れ、結子の電話番号を問い合わせた。けれど、受電窓口のおばさんは愛を解さないわからずやらしく、取りつく島もない。
仕事の話ならば、団体を通して伝えておくので伝言を、の一点張りだ。
愛を深めるために紡いだ珠玉の言葉たちを、無機質な対応が板についた見ず知らずの他人に任せるなど、無粋にもほどがある。
どうしたものかと思い悩みつつ、寿彦は放課後の学校の門を出て、帰路についた。
そして、帰宅を急ぐ会社員や学生たちの喧騒を抜け、自宅のある閑静な住宅街の細い道に差し掛かった時。寿彦は、恋のキューピットと出会うことになる。




