8 あなたを信じるから
堤防に隔てられた海辺の側道。繁華街からはほど遠く、夜間となればさほど車通りがない。
夜闇が沈殿したかのように暗いアスファルトの上に、事故の名残なのだろうか、白やオレンジのガラス片が散らばって、時折街灯の明かりをはね返していた。
家の敷地を出る前にひっそりと玄関からスニーカーを持って来てよかった。そうでなければ足裏を怪我してしまい、目的地までたどりつくことができなかったかもしれない。
魂食い鴉に先導されて諭がやって来たのは、公道から一本奥へ入った、寂れた通りである。微かに、喉の奥を刺激する焦げた異臭がする。火事の現場が近いのだろう。
「カア。あそコ。その角を曲がったとこロ」
促されて目を向ければ、無機質なコンクリート造の廃ホテルが、斜面に沿うようにしてひっそりと佇んでいた。
窓ガラスが割れている部屋がある。カーテンがほんのりと朱色に照らされ揺らめいている。建物の中で火が燃えている証だろう。
見たところ、まださほど延焼してはいない。廃ホテル向かいながら、消防と救急には連絡を入れた。もうしばらくすればサイレンの音が聞こえてくるだろう。この分ならば、大惨事は免れそうだ。とはいえまだ安心はできない。
人は、煙に酸素を奪われると簡単に意識を失うのだ。そうなる前に珠子を救出せねば。
大江間家から十分ほどとはいえ、駆け足でやって来た。さすがに息が切れていたのだが、炎を抱え込んだ廃ホテルに飛び込むことに躊躇いはない。
決意を込めて建物を見上げた時だ。道の端で闇に溶け込む黒い塊が視界に入る。はっとして身体を向ける。ひっそりと停車するのは見慣れた黒い車。それを目にした途端、蘇った怒りに鼓舞されて、疲労は消し飛んだ。
「父さん……!」
唸るように呼び、助手席のサイドウィンドウに詰め寄る。
ライトの灯らない暗い車内。顔見知りの呪具師の隣、助手席にかけた父が軽く目を見開いた。驚愕が過ぎ去ると一転、敦は沸々とした怒気を滲ませながら、窓を開く。
「ここで何をしている」
「それはこちらの台詞です」
諭は間髪を入れずに返す。
「ホテルに火を放ったというのは本当ですか」
敦はぴくりと眉を痙攣させてから、喉の奥でごろつくような低い声で言った。
「誰から聞いた。魂食い鴉か?」
「誰でもいいでしょう」
諭は開いた窓枠に手を突き、語気を荒げる。
「自分が何をしたかわかっていますか? 放火です。正真正銘の犯罪ですよ! その上、中には人が」
「問題ない。使霊の箱が燃え尽きる前に消火する。そのくらい、大江間の呪具を使えば何とでもできる」
「使霊の箱なんてどうでもいい! 人の命が危険にさらされている。そのことを言っているんです!」
「我が息子ながら理解力のない奴だな。人命を救うための手立ても用意してあると言っているんだ」
「では今すぐ土蔵さんを救出してください」
「尚早だ。朝津木寿彦が煙で意識を失うまでは……」
「もういい」
諭は吐き捨てて、踵を返す。背後から低い怒声が響いたが、意に介さず走る。
数ある大江間の呪具を駆使すれば、火の中から珠子を救うことができるのかもしれない。だがそれも、絶対ではないはずだ。何せ父は、使霊の箱回収のために放火し、殺人未遂を犯すような男なのだ。たった二人の人命か使霊の箱回収か、どちらかを諦めねばならない状況になったとしたら、敦は間違いなく、回収を優先するだろう。
そうでなくとも諭には、ただ傍観していることなどできなかった。雑草が繁茂する廃ホテルの敷地に踏入り、諭は声を上げた。
「土蔵さん、どこだ。返事をして!」
箱を、開こう。
世にも恐ろしい怨霊を解放し、その力をもってこの場から逃げ切るのだ。
薄らと靄がかかったかのように鈍く回る思考の中、珠子は使霊の箱の蓋に添えた指を動かした。その時だ。
「さん。……だ、どこにいる?」
誰かの声がした。思わず手を止め、耳を澄ませる。
「土蔵さん!」
珠子を呼ぶ声が、今度ははっきりと鼓膜に届いた。聞き慣れたその声に、珠子は蓋から手を放して答えた。
「ここ、ここにいる。大江間君、助けて!」
煙で喉を痛ませながら発した渾身の叫びは届いたらしい。鬱蒼とした雑草を踏み分けて、人影が現れた。
「土蔵さん!」
建物内ほどではないが黒煙がぼんやりと辺りを覆っている。その緞帳をかき分けて、諭が駆け寄って来る。彼は、珠子が縋りついている非常階段出入り口の鉄格子を、飛びつくようにして掴んだ。
「出られないのか」
助かった。
ほっとした途端、張り詰めていた気が緩んだのか、珠子の膝が折れてその場に蹲る。
「待ってろ。今開けるから」
諭は鉄格子の鍵穴をいじくり回してから、近くに落ちていたブロック塀の破片のような物を拾い上げて打ちつけた。元から、潮風で錆びつき古びて壊れかけていた鍵は、何度目かの殴打で壊れ、やがて鈍い軋みを上げながら扉が開いた。
諭に手を貸されつつ、珠子は前のめりに転がるようにして庭へ出る。半ば四つん這いになりながら建物から距離をおき、いくらか清浄な空気が流れる辺りまで逃げて息を整えた。
少し呼吸を落ちつけてから、顔を上げる。淡い街灯と、いよいよ建物から放たれ始めた炎の朱色に照らされて、諭の顔に心配げな影が揺れる。珠子は肺の奥底から込み上げた安堵の塊と共に、声を落とした。
「ありがとう、来てくれて。……裏切られたと思った」
「俺は父さんとは違う」
きっぱりと返し、諭は顔を上げて珠子の背後に目を凝らす。
「朝津木はどこ」
「あ、あそこ」
珠子は肩越しに振り返り、階段の上を指差した。寿彦は数段上で、微動だにせずこちらを見下ろしていた。まるで亡霊のような様子に、諭の喉がごくりと鳴った。
「あいつ」
その時、ごうっ、と炎が猛る。ガラスの割れた窓から黒煙と共に熱の触手が飛び出して、寿彦の頬を舐めた。髪か皮膚か、とにかく人間の一部が焼ける臭いが漂って、吐き気を覚える。けれど、当の寿彦は狂気の笑みを浮かべたまま動かない。立ち姿は悠然としている。
諭がぞっとしたように頬を引きつらせながら、自身の二の腕を撫でた。
「炎が怖くないのか?」
「あの人、自分の身体がないの」
珠子は咳き込みの合間に声を絞り出した。
「朝津木寿彦はもう死んでいる。あれは、怨霊なの」
「怨霊?」
諭の眉根がきつく寄る。
「じゃああいつは誰だ。六年前の事件であいつの顔を見た呪具師たちが口をそろえて、間違いなくあれは朝津木だって言っていた。まさか、全員記憶違いだっていうのか?」
「違う。あの人は、寿彦の双子の弟。朝津木幸彦」
「双子?」
珠子は頷く。一卵性の双子だから、容貌が酷似していても不思議ではないのだ。
「あんた、どうしてそんなこと知ってるの」
「見たの。あの人の私物に触れた途端、過去が見えたの」
「四郎の時と同じ、残留思念か。あんた、とんだ呪具だな」
「その言い方、いい気分はしないけど。でも」
珠子は言ってから、何度目かの大きな息を吐き出して立ち上がる。芝居がかった足取りで悠々と階段を下りて来る寿彦に、向き直る。
「ずっと、他人なんて信じちゃいけないと思っていた。でも、大江間君が来てくれたから、もう一回、人を信じてみてもいいかなって感じた」
諭がどのような表情をしているのか確認はしない。黙りこくっている様子から察するに、虚を衝かれたように目を丸くしているのだろう。
珠子はポケットの中から一枚の紙を取り出し、寿彦に突きつけた。
「これを書いたのはあなたでしょう」
寿彦は軽く首を傾ける。
珠子が、折りたたまれた紙を開くと、火影に揺られて達筆が踊る。
――永遠に僕を癒してください。
飛びかかろうとすればすぐに手が届くほどの距離まで接近し、寿彦が目を細めて紙面を見た。そして「ああ」と唸る。
「結子さんに送ったラブレターだ」
「やっぱり」
珠子は呟き、手紙をくしゃりと握る。怒り、恐怖、苦痛、戸惑い。心を乱す全ての感情を抑え込むように細く深く息を吸う。それから囁いた。
「お母さん。私の中にいるの?」
呪具生成の理論が蠱毒ならば、珠子の異能の一端は、この身に宿る母が担っているのだろう。珠子は寿彦を見据えたまま、確信を込めて、己の中にいる魂に呼びかけた。
「私はあなたを信じる。だから教えて、真実を。それから、あいつの霊を追い払う方法を」
その瞬間、珠子たちを囲んでいた煤けた黒煙が、一陣の風に巻き上げられた。火の粉が舞い、世界が大きく渦巻いた。
半ば握りつぶした紙が、まるで帯電しているかのようにぴりぴりと指先を痺れさせる。
気づけば珠子の意識は、明るく清潔な、昼の教室へと飛び立っていた。




