6 禁忌を開く
ちゅう、ちゅう……。
足首を、何かがしきりにひっかいている。その刺激に我に返り、珠子は手にしていた紙片をテーブルに下ろし視線を足元に向けた。ネズミが右往左往している。
「ぼんやりしていてごめん、汀。でも、事件の真相がわかった気がする」
汀が動きを止め、つぶらな瞳でこちらを見上げている。
「多分、朝津木寿彦は」
その時だ。壊れて開いたまま閉じなくなっている扉の向こうで、人影が揺れた。
寿彦か、と息を呑むが違う。黒いシャツではなく、妙に派手な黄色のセーターを着込んでいる。初夏にあの装いは暑くないのだろうかと、首を傾げそうになるほどだ。体格も、寿彦よりも小柄で腰が曲がっている。そう、あの人は。
「大家の、清水さん?」
当然、ここにいるはずはない。けれど見間違いではない。
思わず漏れた声に汀は、元から大きなネズミの目をさらに丸くしたようだった。珠子は咄嗟に清水の背中を追う。部屋を出て、再度目を疑った。
崩れた床の一角から、黒い煙が細く立ち上っている。ぽっかりと空いた穴に駆け寄り階下を覗き込んだ瞬間、顔面に、いかにも身体に悪そうな煙の塊が吹きつけて激しくむせる。眼球が針で刺されたかのように痛み、涙が溢れる。
珠子は声を上げた。
「まさか火事……」
「こっちだよ」
はっと顔を上げれば、僅かたりとも動揺した様子のない清水が、幽鬼のようにぼんやりと廊下の角に立っていた。
「何やってんだい。こっち、こっちだってば」
目を擦る。輪郭がぼやけて見えていたのは、清水が物の怪の類だからではなく煙が渦巻いているからだ。
「清水さん、そこは危ないです」
珠子は咳込みながら声を張るが、清水は燃え盛る炎の熱気にもまるで動じず、珠子を誘う。
廊下には、いくつかの部屋が並んでいるが、珠子が目を覚ました一室と同じく、扉が壊れているところが多い。その中に一部屋だけ、ぴったりと閉じられた扉がある。二○二号室。清水はその前で、珠子を待っている。
「こっち、こっち」
異様な姿に薄気味悪さを感じる余裕すらなく、珠子は腕で口と鼻を覆い、清水に駆け寄る。
「清水さん」
珠子が向かって来るのを確認し、清水は扉を開けて中へと消える。その後を追い、珠子もドアノブを捻った。
黒い煙が充満する廊下に、いくらか清浄な風が溢れ出る。後ろ手に扉を閉じ、室内を見回した。清水の姿はない。まさか、と思い、割れた窓から外を見下ろした。繁茂するまま放置された背の高い下草と、好き勝手な方向に伸びた木の枝葉が黒く盛り上がっているが、他に動く影はない。
ここは二階なので、飛び降りたとしてもさほど落差はない。けれど、清水は腰の曲がった高齢者なのだ。まさか落下の衝撃で意識を失っているのだろうか。それとも。
ちゅう、と汀が鳴いて思考が中断される、灰色のネズミはテーブルの脚の周りをしきりに駆け回っていた。
「どうしたの」
問いかけて、気づく。テーブルの上に、タオルが丸まっている。中に何か包んであるようで、少し角張った形に盛り上がっている。
何か恐ろしげなものが隠されていないだろうかと緊張しながら開いてみると、長方形をした木製の箱の角が見えた。見つけた。使霊の箱だ。
どうやらここは、寿彦が寝泊まりしていた部屋らしい。その名残か、埃が払われたベッドのシーツに軽く皺が寄っている。寿彦はおそらく、火事に気づいて様子見のために部屋を出たのだろう。潜入のタイミングがよかった。鉢合わせていたら、使霊の箱を手に入れることは叶わなかっただろう。
「汀、行こう」
タオルは何となく不潔な気がしたので、包み直すことはせずに箱を抱えて部屋を出る。
悪臭蔓延する廊下に、のそり、と影が動いた。
「悪い子だね、珠子ちゃん。ダメじゃないか勝手に起きたら。それに、どうやって縄を解いたの」
寿彦だ。やはり、そう簡単には逃げられないか。
珠子は思わず後ずさる。首を巡らせ、非常口の緑色の光を探す。珠子の視線を追い意図を悟った寿彦が首を横に振った。
「無駄だよ。下まで行ったけど、肝心の扉が開かなかった。誰かが僕たちを閉じ込めているんだ」
「誰かって……」
「大江間に決まっている。あいつら、僕たちを焼き殺して箱を手に入れるつもりなんだろうね」
まさか、と咄嗟に否定の言葉が込み上げた直後、腹の奥底にじわりと黒い感情が染み出した。そうか、最初から敦は、こうするつもりだったのか。
珠子を餌にして寿彦を廃ホテルに留まらせ、扉を閉め切り火を放つ。使霊の箱が燃えてしまっては元も子もないので、ほどほどのところで回収するのだろうが、人間らは煙を吸えば意識を失い焼け死ぬだろう。
大江間にとって、寿彦の生死は問題にならない。きっと、他人である珠子のことも、どうでもいいのだ。そうだ、ひょっとすると最初から、諭もグルだったのではないか。
失望と憤りで硬直する珠子の鼓膜を、狂気を帯びた低い笑い声が震わせた。
「もう少しだったのに」
いったい何のことか。珠子の視線を浴びて、寿彦は虚ろな目で壁紙辺りを凝視して、髪をかき乱す。
「もう少しで、魂だけでなく肉体的にも結子さんと結ばれることができたのに」
「なっ」
狂人の発言に、理解が追いつかない。絶句する珠子をよそに、寿彦は自分の世界に浸っているらしい。
「結子さんの魂は娘珠子ちゃんの身体に宿っている。あとは、君の身体から憎い男の血を排除できれば完璧だったのに。でも、もう仕方ない」
寿彦の眼球がおもむろに動く。血走り、ぎょろりと剥き出しになった目が、珠子の方に向く。
本能的に、身の危険を感じた。
珠子は咄嗟に踵を返し、寿彦から離れようとする。けれど、相手の方が速かった。寿彦に腕を掴まれて、逃げることができない。
妙な熱を孕んだ寿彦の指が、薄着の腕に食い込んだ。激しい嫌悪を覚え、腕を振り払おうとするが力では敵わない。
「ここで死ぬのなら、その前に結ばれよう結子さん」
「何を」
腹の奥底が捩れて震えるような恐怖に、声が引きつる。辺りに漂う黒い煙は密度を上げ、二人を包み込む。
寿彦に強く腕を引かれ、壁に押しつけられた。欲望に歪む男の顔が、すぐそこにある。
抵抗しようと腕を上げた瞬間、腕に刺さったチューブが、つながっている機器の重みによって、ぴんと張り詰めた。
珠子は咄嗟に、機械を蹴った。重たい鉄の塊がキャスターで転がって、寿彦の身体に直撃した。
想定外の反撃だったらしい。寿彦は呻き、珠子を拘束する力が緩む。珠子は箱をしかと抱きしめて、寿彦を押しのけて階段の方へと駆けた。その弾みに腕に刺さっていたチューブが抜ける。不適切な圧がかかって針が抜けた拍子に、腕に痺れるような激痛が走った。
たらたらと鮮血が流れ出すが、今は痛みに立ち止まっている暇はない。傷口を手で圧迫して止血を試みる。
とはいえ、所詮は応急処置だ。適切な処置をしなければ出血多量で動けなくなるかもしれない。早急に、この廃ホテルから逃げ出さねば。
チューブでつながる機械という足かせがなくなり、身軽になったのは正解だった。重たい鉄の扉を開いて、建物の外壁に沿って作られた階段を駆け下りる。地上に降りて、階段の入り口を閉ざしていた鉄格子の扉を開こうとする。けれど、微動だにしない。本来は内側からならば開錠できる仕組みのはずなのに。
壊れている。いいや、壊されている。
背筋がぞっとした。背後から、妙に悠々とした足取りで階段を降りてくる寿彦の足音が迫る。
「汀」
困惑し、助けを求めて霊の名を呼ぶが、ネズミの姿はない。さすがに、階段を下りることはできなかったらしく、二階に取り残されているのだろう。
「珠子ちゃん。いいや、結子さん」
少し高い猫なで声が降ってきた。何か状況を打開するための策はないだろうか。珠子は暗闇に沈む周囲に素早く視線を巡らせる。
立地が悪いことに、大通りからは離れており、車通りが少ない。民家もなく、声を張ったとしても気づいてくれる人はいないだろう。
ものは試し。助けを呼んでみようかと思い大きく息を吸い込むが、煙を呑んでしまいかえって状況は悪くなる。
身体を折りたたむようにして咳き込んだ。その時、腹に食い込んだ角張った物の感触で、ふと思い至る。
そうだ、使霊の箱があるではないか。
敦は、箱を開いてはいけないと言った。確かに、素人が怨霊を使うなど、危険極まりない。けれど、ここで死ぬくらいであれば、一か八かで呪具を使用してみるのは合理的ではなかろうか。
そもそも、寿彦の予想が正しいならば、珠子を裏切り廃ホテルに閉じ込めたのは、大江間一族だ。箱が開かれ怨霊が放出されて、一番に困るのも彼ら呪具師である。
ならばこれは、自業自得。
常識人の顔をして珠子に協力を仰いでいた敦の顔が、脳裏にちらちらと浮かぶ。彼は最初から、珠子を利用して寿彦が廃ホテル内に閉じこもるように誘導し、油断させた上で逃げ道を封じて珠子もろとも焼き尽くすつもりだったのだろう。
それならば、こちらだって裏切ってやる。
やはり一番恐ろしいのは人間だ。他人を信じてはならない。何度も騙されてきたというのに、すっかり絆されていた。我ながら愚かなことだ。
使霊の箱を開いた後、何が起こるのかわからない。けれどきっと、これ以上悪いことにはならないだろう。
珠子は蓋の掛け金に指を沿わせた。




