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鎌倉呪具師の回収録 死霊の箱  作者: 平本りこ
第三話 病める日も健やかなる日も永遠に

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4 不審な名前

 夕刻。鎌倉の山々が橙色に染まり、海が赤金色の鱗を持つ巨大な魚のように煌めく頃。


 珠子(たまこ)は一人、アパート近くの源氏山公園を歩いていた。先ほどまで近所の子どもらが追いかけっこを繰り広げていたのだが、気づけば辺りはしんとして、遠くで鳴く鴉の声が妙に大きく聞こえるようだった。


 そんな静寂の中、ざくりざくりと砂を踏む音が近づいてくる。珠子は立ち止まり顔を上げ、おもむろに振り返る。


「やあ、三日と十六時間ぶりだね」


 黒いシャツを着た五十がらみの大柄な男が、薄ら寒さを感じさせる微笑みを浮かべ、珠子を見下ろしていた。その手には、長方形の古びた木箱。


「遊び歩いていちゃだめじゃないか結子(ゆうこ)さん。帰っておいでよ」

「私は結子じゃない」

「ああ、失礼珠子ちゃん。心配しなくてもいいよ。君のことも連れて行ってあげるから」


 蓋が開く。その途端、強烈かつどす黒い感情の渦が箱を内側から破裂させんほどの圧を持って飛び出した。そして。


 霊気の弾丸を浴びた珠子の意識は、そこで途切れた。

 




 次に目覚めたのは、おそらく夜。薄暗い部屋だった。窓が割れているらしく、色あせ綻びた黄緑色のカーテンが、ゆらゆらとはためき寒々しい音を立てている。


 どうやら、仰向けに寝かされているらしい。埃と蜘蛛の巣が絡み合ったような汚れが天井からぶら下がり、風に揺られている。


 全身が重たい。珠子は呻きながら肘を突き、上体を起こそうとして、違和感に気づいた。腕に点滴の管のようなものが繋がっている。上体は縄でベッドに縛られていて動かせない。拘束はともかくとして、腕から伸びるチューブという予想だにしなかった事態に、思わず悲鳴を上げた。


「ああ、やっと目覚めたかい」


 総毛立つような猫なで声だ。珠子は弾かれたように振り返る。珠子のすぐ枕元に、朝津木(あさづき)寿彦(としひこ)が座っていた。


「いったい何が」

「結子さんを引きはがした時、珠子ちゃんの魂は耐えきれなかったみたいで意識を失ってしまったんだよ。でも無事でよかった。ああ、本当によかった」

「そうじゃなくて!」


 珠子は腕に刺さったチューブを掴む。咄嗟に抜きかけたが、その結果何が起こるのかわからなかったので、辛うじて思いとどまった。


「これは何?」

「ああ、それはね、君の血液を浄化しているんだ」

「は?」


 改めて見れば、チューブに薬剤が流れている様子はない。かといって、採血のように血が通っている様子もない。


 寿彦の言葉から推測するならば、何かを身体に入れたいのではなく、血液を奪い、チューブの先にある機器を通して浄化をしてから戻したいらしい。けれどチューブは空のようなので、上手く血管に刺さってはいないと見える。


 狂っている。


 ぞっとして、思わずジーンズのポケットを押さえる。ベルトに括りつけた収霊袋が隠されている場所だ。どうやら汀は無事らしい。


「浄化って、どういう……」

「君は結子さんの娘だ。その身体の中には、愛おしい結子さんの血が流れている。でもそれと同時に、父親……結子さんを不幸にした憎らしい男の血も半分混ざっているんだろう。だから、浄化するんだ」


 チューブの先の機械を怖々と見る。珠子にはそれが、何の機能を持つものなのか判断がつかないが、医療機器メーカーのロゴが入っているので、怪しげな物体ではないのだろう。もっとも、健康体に使っていい機器なのかは不明だが。


「これで何をするの」

「だから、浄化だよ。一回血を全部抜いて、仕分けして、結子さんの血だけを残す」

「そんなことできないでしょう」

「うるさい!」


 突然、寿彦が激高して、珠子が横たわっていたベッドを叩いた。


 どすん、と大きく揺れて、思わず目を閉じる。軋んだ余韻が室内から消え去った頃、寿彦は再び柔らかな声に戻って行った。


「安心してよ。僕は医療従事者だからさ、君の身体に危ないことはしないよ」

「医療……」


 珠子は眉根を寄せる。大江間家の調査から浮かび上がった寿彦の職業は元小学校教諭。学校で、結子のカウンセリングを受けていた人物である。


 医療従事者発言は、寿彦の虚言なのだろうか。人の腕にチューブを繋ぎ、血を奪うなど、素人にはそう簡単にできることではないはずだ。実際、透明なチューブを見る限り、彼の意図は果たされていない。


「とにかく」


 寿彦はにたりと笑う。


「もうしばらくで君は完全に結子さんになれる。そうしたら。現世でも僕と結婚しよう。箱の中でだけではなくて、ね」


 じゃあまた後で、と言い残し、寿彦は去って行く。どこへ行ったのかは不明だが、おそらくそう離れてはいないだろう。


 不快な視線から解放された珠子はひとまず肩の力を抜いて軽く息を吐き、ポケットを探った。指先の力を頼りに収霊袋(しゅうれいぶくろ)の紐引き、囁き声で呼びかけた。


「汀、そこにいる?」

「もちろん。ああ、気持ち悪い男だった。吐きそう。でもどうしよう。拘束されたままじゃあ、使霊の箱を探せないわね」

「私の身体を使わずに、汀一人でなんとかする方法はない?」

「その辺の羽虫にでも乗り移って箱を探してみるとか? でも見つけたところで、虫の身体じゃあどうしようもない……あ!」


 噂をすれば、かさこそと何かが走り回る音がした。視線は天井周辺に固定されたままなので、音の正体を確かめることができない。


「ねえ、まさかゴキ」

「ネズミね。ちょっと、いいこと思いついた」


 汀が得意げに言う。袋から半分姿を現していた汀が、完全に外へ出た。怨霊ほどではないとはいえ辺りに漂い始めたひんやりとした空気。これが霊気というものなのだと、珠子はここしばらくの経験から理解し始めていた。


 寿彦に感知されてしまわないか不安になるが、こればかりはどうしようもない。あの男が霊に敏感ではないことを祈るだけだ。


「汀」


 呼びかけると、ちゅうとネズミが鳴いた。そのまま使霊の箱を探しに行くかと思いきや、珠子の腰辺りで何かが蠢く気配がする。汀の乗り移ったネズミが、珠子を拘束する縄を噛み切ろうとしているようだ。


 一時間にも二時間にも思えるほどの時間が過ぎた。実際は、ほんの数十分のことだっただろう。やがて、ぷちりと縄が解け、身体が自由になる。


 原始的な拘束方法でよかった。これが、粘着テープであったなら、ネズミの歯ではどうにもならなかっただろうから。


「ありがとう」


 珠子は汀に囁いて、ベッドからそろりと足を下ろす。ホテル特有の薄暗い照明の中、周囲を見回すと、案の定窓ガラスがほとんど割れていて、廊下へ続く扉も外れている。窓の外から吹き込み抜けていく風は潮の香りを含んで、べたついている。


 葉山の海辺にある廃ホテル、エメラルドパレスで間違いないだろう。


 珠子は、腕と繋がる機器を軽く押す。キャスターがついており、移動させるのに不自由はないが、重たい上にごろごろと音が鳴るので、寿彦に気づかれる危険を考えると、あまり素早く動かさない方がよさそうだ。さらに、立ち上がると眩暈に襲われたが、そうもいってはいられない。


 珠子はくらくらと回る世界を落ち着けるため、目を閉じて頭を心臓よりも下げ、部屋の中央のテーブルに手を突く。


 指先が、何か硬い物に触れた。目を開くと、寿彦の私物と思われるリュックが置いてある。蓋は空いたままだ。珠子はチューブが繋がっていない方の手で中を物色する。


 あいにく、使霊の箱は入っていないらしい。まあ、さすがにそこまで不用心ではないだろう。


 珠子は失望しつつ、掴んだ物をとりあえず引き出した。黒い長財布だ。


 何かを探したかったわけではないが、ひとまず財布を開ける。すると、軽く挟まっていたIDカードがするりと落ちた。物音を立ててしまったことに、全身が凍りつく。幸いなことに、寿彦がやって来る気配はない。深夜なので、眠ってでもいるのだろうか。


 珠子は詰めていた息を吐き、首からかけるための紐でぐるぐる巻きにされているカードを手に取った。濃紺の紐の間から、いくらか若い頃の寿彦の顔写真が覗いている……いいや、妙だ。


「朝津木……幸彦(ゆきひこ)?」


 カードに記された名は、朝津木幸彦。この事件を引き起こした男の名は、寿彦ではなかったか。珠子はカードを凝視する。動かない珠子を促すように、足元で汀が鳴いた。


 我に返り、財布を閉じる。その拍子に札入れから、古びて黄ばんだ紙片がはみ出した。視線が吸い寄せられて、角を摘み引き出した。


 ――永遠に共に過ごす愛おしい人ができたんだ。会いに来てくれる?


 見覚えのある筆跡。身体中が雷に打たれたかのように痺れ、呼吸がままならない。くらり、と再び激しい眩暈に襲われた。珠子はテーブルに縋りつくようにして蹲る。それと同時に。


 ――助けて。


 脳内に、誰かの声が反響した。そして、意識を手放した。

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