1 父と子
「またか、諭。つくづくおまえは役に立たない」
葉山の自宅、父の書斎。古い書物とインクの匂いの中に、淹れてから時間の経ったコーヒーの香りが漂う一室にて。
書棚の前に置かれた重厚な机の艶やかな天板に肘を突き拳を額に当てて、父の敦は低く唸っている。諭はただ入り口の側に立ち、敦が吐き出す失望を全身に浴びていた。
「おまえが使霊の箱を自分でも追いたいと言った時、任せなどせずこちらで巻き取るべきだった。ほんの僅かでも期待した私が馬鹿だった」
何一つ言い返すことができない。諭は人知れず拳を握る。
昨晩、稚児ヶ淵で、使霊の箱回収まで、あとほんの少しというところまで迫ったのだ。けれど結局、突然現れた男に奪われて、箱は再び行方知らずになってしまった。
使霊の箱は、鎌倉時代、幕府に重用された大江間家が隆盛を誇っていた時期に一族の英知を集結させて作り上げた存在だ。呪具の中でも特に力が強く、危険な物である。当然大江間家としては、回収の重要度を最も高く設定している。
これまでも、箱の中に閉じ込められた怨霊がふとした拍子に抜け出して周囲の人間に取り憑いたり誑かしたりして、幾度となく大江間の管理下から姿を消した。
その度に大きな事件でも起こされればむしろ在処がわかるのだが、怨霊たちも用心深い。多くの場合は目立った行動をせず、長い時には半世紀ほども消息が掴めない時期もあった。
けれどそれは、使霊の箱が誰にも発見されずひっそりと時を過ごしている場合だけである。生身の人間、それも、悪意に満ちた者の手に渡ってしまえば、私利私欲のために使役されて必ずや悲劇が起こる。ちょうど、子どもが何人も犠牲になった、今回の事件のように。
「本当に情けない」
嘆息と共に、マホガニー材のテーブルの上に、画質の荒い写真が十枚ほど広げられた。
「情けない……が、残念ながらおまえが私の唯一の息子であり、未来の大江間当主であることは変えようがないからな。まあ、これを見ろ」
情の通わない声音はもう、慣れたもの。諭は促されるがままテーブルに近づいた。
写真には、黒いシャツを着た男が夜の闇に半ば溶け込むように歩いている姿が映し出されている。いずれも同じ人物であり、見覚えのある顔。昨晩、稚児ヶ淵で対峙した、珠子の母親と因縁のありそうな男で間違いない。
「防犯カメラの映像写真ですか」
諭は呟いて、写真をまじまじと見る。
大江間家は代々、公的な組織とも密かに結びついている。
まずは、敦が教授を務める国立鎌浜大学。その敷地内には、鎌倉時代から細々と受け継がれた呪具に関する書物を秘蔵する地下書庫がある。回収した呪具のうち、大江間の屋敷での保護を必要としない低危険度の呪具も、そこに収められている。
さらには、警察の一組織であり、一般の市民にはその存在を明らかにしていない、怪異専門の部署との連携も綿密だ。テーブルに広がる防犯カメラ映像は、彼ら経由で手に入れたのだろう。巷を騒がせていた小中学生の失踪事件の真相についても、使霊の箱の気配を一切排除して世間に取り繕ったのも警察だ。
とん、と敦が写真の一枚を指先で叩く。第一関節のない、右の人差し指と中指が痛々しい。六年前、諭のせいで失った部位である。
「この男の顔は脳裏に焼きついている。間違いない。朝津木寿彦だ」
「朝津木、寿彦」
敦は諭の存在など忘れたかのように拳を握り、机を叩く。ぎりり、と歯ぎしりの音がしそうなほど強く奥歯を噛み締めた。
「六年前に消息を絶ったので死んだと思っていたが、生きていたのか。いったいどこに隠れていたんだ」
父の言葉で記憶が呼び覚まされる。
朝津木寿彦。そうだ、六年前、諭を人質に取り使霊の箱と大江間の車を奪いそのまま行方がわからなくなった男。
寿彦が乗って逃げた車は、鎌倉の住宅街で乗り捨てられたまま見つかった。けれど当の寿彦は忽然と姿を消し、その後一切の動きが見られない。
生きていれば、例えば家を借りたり水道や電気の契約をしたりと何らかの活動から尻尾が掴めるはず。六年間も何の気配もないのだから、遺体も出ないような方法で死んでしまったものと思われていた。それなのに。
「使霊の箱は大江間の呪具の中でも最も危険な部類に入る存在だ。そして朝津木寿彦も、気狂いだ。あのような者の手に使霊の箱が未だ奪われたままだなんて、大学に何と報告すればいいのか」
「ですが今までどうやって隠れていたんでしょうか」
「それも不審な点だ。もしかすると、長期間の潜伏が可能な大規模な地下組織でもあるのかもしれないが……警察すら見つけられないとなると、その線は薄いだろうか。だが万が一ということもある」
つくづく厄介な事件だ。
親子の間に、沈黙の帳が落ちる。写真の中から、寿彦が口の端を持ち上げてこちらを見上げている。意図したわけではないだろうが、嘲笑われているかのような心地になった。
腹の奥に、重苦しい憤りが渦巻いた。こいつさえいなければ、諭は父に失望されることなどなかったのだ。
爪が手のひらに食い込むほど強く、拳を握る。怒りの沸点が近づいた時、不意に扉を叩く音がした。
敦は写真から顔を上げ、短く応じる。
「誰だ」
「ご当主様、坊ちゃんがお連れになった土蔵さんがお目覚めになりました」
「そうか」
敦は大きく息を吐き、腰を上げた。
「これまでの報告内容を総合すれば、彼女は朝津木寿彦が執着していた女と関係があるとみて間違いない。情報を引き出す。フォローしてくれ、諭」
「今からですか?」
珠子は昨晩、汀に肉体を明け渡すことで使霊の箱を持って逃げようとしたのだが失敗。その後、珠子自身の精神は昏睡状態に陥ってしまった。
一晩明けてやっと意識が戻ったばかりだというのに、過去の傷を抉るような尋問は気が引ける。けれど敦はさも当然といった様子で頷いた。
「急がなければ、次の被害が出るかもしれない。大江間の呪具にこれ以上人を殺させてはいけない」




