5 動き始める気配がする
「それで、その時のヨシちゃんに似た子が、参道を上がって行くのを見たんだね」
衝撃的な話を耳にした珠子は込み上げる嫌悪を呑み込んで問う。諭は未だに薄らと青ざめた顔を強張らせ、小さく頷いた。
「ああ。でも見間違いだったのかな。だって、生きていた頃のままの綺麗な姿だったし、ただ似ているだけの他人かも」
ふわりと風が吹き、愛らしい色合いの花弁が並ぶ花壇に雲の影がかかる。気づけば日が傾きかけて、島の奥に進む者よりも、出口に向かう人の方が多くなっていた。浜焼きは昼食だったが、そもそもの食事開始時間が遅かったので、もう夕方だ。
「ヨシちゃんには可哀想なことをした。俺が最後まで寄り添っていれば、あの子はちゃんと成仏できたのに」
ぽつりと吐露された後悔の念に、珠子は思わず返す。
「寄り添うって、霊に?」
生身の人間には興味のなさそうな態度をする男だが、霊に対しては案外情があるのかもしれない。そういえば先日は、汀のことを思い、彼女を早く成仏させてやりたいとも言っていた。
諭は顔を上げ、珠子を見る。その頃にはもう、弱々しさは消え去って、いつもの不愛想な目になっていた。
「で、あんたは?」
「え?」
「母親だよ。昔、何かあったんだろ。何で魂が絡み合っているのかもよくわかんないし」
「あ、うん」
珠子は曖昧な声を返して、視線を逸らす。
親一人子一人の母子家庭。互いを心の支えにして生きてきた。それなのにあの晩、母は珠子を自宅に残して車に乗り男の元へ行ったのだ。そうして、高速道路で中央分離帯に衝突し、命を落としてしまった。
男の正体は知らない。ただ、ドライブレコーダーに、高速に乗る直前に男と言葉を交わす母の姿が映っていたというだけだ。
けれど、夜間に密会するほどとなれば親密な関係であったに違いない。きっとそういうことだったのだろうと、珠子も祖母も理解していた。
「私の母は……」
言いかけて、ふと顔を上げる。何気なく視線をやった辺りを歩いていた人物の姿に、珠子は目を丸くして呟いた。
「清水さん」
「は?」
突然の発言に、諭が怪訝そうな顔をする。
「清水さんだよ、ほらあそこ」
失礼ながら、思わず人差し指を向ける。爪が示す先には、人の波に逆行して島の奥へと進む、派手でボロボロなセーターを着た高齢女性がいる。
「大家のおばさん?」
「そう! 何でこんなところに」
清水トメ。おんぼろアパートの大家。入居の日以来会っていなかったが、江ノ島にはよく来るのだろうか。
目で追っていると、清水の眼球がちらりと動き、珠子たちを一瞥したように見える。その瞬間、ぞくり、と身体の芯に震えが走った。どうしたことか、すっと全身の血が冷えたような心地がして、珠子は諭の袖を掴んだ。
「何だよ」
不機嫌そうに返された。
「ううん、何でもない……」
清水に目くばせをされたように感じたのだが、気のせいだろうか。
怒濤のように喋る、距離感の近い年配女性である清水のことだ。珠子と諭を見かけたらならば、喜々として声をかけてくるだろう。だからきっと、彼女は珠子たちに気づいていない。視線を向けられたというのは錯覚だ。
そんな珠子の動揺などいざ知らず、胸につっかえていた過去を吐き出しいくらか気が軽くなった様子の諭は、清水が人混みに溶けた辺りを眺めて感心したように言った。
「こんな坂道を上るなんて、年いってんのに健脚だよな」
「島の向こう側って、何があるんだっけ」
「竜神の岩屋と、稚児ヶ淵。ほら、海藻がうようよ浮いている岩場の辺りだよ」
そうだった、と珠子は頷いた。江ノ島には竜神伝説があり、海辺の断崖絶壁辺りに岩屋がある。洞穴の果ては富士山につながっているとかいないとか。いわゆる観光スポットだ。
そしてその周辺は、潮の満ち引きにより現れたり消えたりする稚児ヶ淵という岩場となっていて、釣り人や磯遊びをする子どもら、海を眺める大人たちで日々ごった返している。
「いったい何の用事があるんだろう」
「さあ。海藻か魚でも採って食べるんじゃない?」
それはさすがにないだろう。興味の薄い口調で雑なことを言った諭をじっとり眺める珠子。諭は意に介した様子もなく、軽く伸びをしてから腰を上げた。だいぶ顔色が戻っている。
「そろそろ戻るか。ほら、魂食い鴉が帰って来た」
顎をくい、と上げて示された先は梢。いつのまにか、こちらを見下ろしていた鴉が、カア、と鳴いた。
結局、魂食い鴉も有益な情報は得られなかったらしい。
おんぼろアパートの二〇一号室、諭の部屋にて。魂食い鴉とその体内に取り込まれたままの汀から残念な報告を受けた後、自室である二〇二号室に戻った珠子はシャワーを済ませ、いつも通り寝袋に包まった。
一人きり、冷静になれば、ここ数日のことがまるで質の悪い夢の中の出来事であったかのような心地になる。
会社の倒産、消えた婚約者。挙句の果てに、変な霊に憑かれ、魂の穢れを食う鴉と言葉を交わし、オカルトな一族の末裔と出会い。
朝がくれば全てリセットされているのではないかと何度も考えた。けれど淡い期待に反し、何一つ夢でも妄想でもなく、現実のことなのだ。朝日を浴びても隣の部屋には大江間のネームプレートが入っていて、鴉が人語を操っている。
珠子は溜め息を吐き、寝袋の中から手を伸ばして母の遺品のオルゴールを開いた。最低限の家電しか置いていない古い部屋。スマホとオルゴールくらいしか、気を紛らわす物がない。
切れていたネジを巻けば、懐かしい旋律が室内に響く。箱の中にはいつも通り、母がカウンセラーを担当していた子どもや教職員からのメッセージカードが収まっている。一つ一つめくり、珠子は物思いに耽る。
「お母さん、今も私と一緒にいるの?」
諭は、珠子の魂に絡みつく女性の霊を見たという。もしそれが母の結子ならば、言葉を交わすことができたらいいのにと思う。
母に、訊きたいことがたくさんある。
事故に遭う直前に会っていた男は、恋人だったのだろうか。もしそういう人がいるのならば、隠さず珠子にも言って欲しかった。
母としては、当時、中学三年生だった珠子のことを、まだ子どもだと思い恋愛の話などできなかったのかもしれない。けれどたった二人きりの家族ではないか。何でも話して欲しかった。二度と会えなくなってしまうのならば、なおさらのこと。
かさり、と指先で紙が鳴る。視線を落とし、これまで何度も目を通したメッセージカードをぼんやりと視線でなぞる。
『結子先生大好き』『土蔵さんのおかげで前向きになれました』『これからも永遠に、僕を癒してください』
ふと、視線が止まる。
永遠に、僕を癒してください。……永遠に?
どこか大仰で重たい言葉選びである。今までならば妙だと思うこともなかったが、不意に胸騒ぎを覚え、珠子はその紙を手に取った。
意識してみれば、妙に達筆だ。子どもの字ではない。
母がスクールカウンセラーをしていたのは小学校だったから、おそらくこれは、教職員からもらったものなのだろう。スクールカウンセラーの仕事は子どもを相手にするだけではなく、心を疲弊させた職員の相談に乗ることもあるのだと聞く。
「永遠に、僕を」
なぜ気になったのか。その答えにたどり着く前に、珠子の意識は、突然けたたましく響いた鴉の鳴き声に攫われた。
「カア、カアア! 珠子!」
ベランダの窓を、激しく突く音がする。いったい何事か。寝袋から這い出して窓を開けようとした時だ。背後で玄関のチャイムが鳴った。
「土蔵さん、起きてる? 緊急事態だ」
諭だ。どんどんと拳で扉を叩く音がする。ガラスを突く鴉の嘴とどちらに応えるべきか一瞬だけ迷った結果、珠子は玄関扉を開いた。
「何かあったの」
廊下を心ばかりに照らす淡い照明の下、いつもの通り淡泊な色を帯びた瞳を微かに波立たせた諭が立っていた。
「見つかった」
「え?」
「使霊の箱の手がかりが、見つかったんだ」




