1 夢の終わり
一度足を踏み外せば、人は落ちるところまで落ちる。土蔵珠子は二十歳にして、人生のどん底を見た。
週の始まりである月曜日。重い腰を上げて出社した珠子の眼前に広がるのは、野次馬の人だかり。その向こう、ガラス越しに見えるのは、真っ白な壁とすっからかんの床だ。社長と、珠子を含めて計六名の従業員が勤めていた都会的なオフィスは今、もぬけの殻である。
束の間呆然と室内を眺めた後、珠子ははっと我に返り、スプリングコートのポケットを探ってスマホを取り出した。四月十五日、月曜日。祝日ではない。出勤日だ。
何が起こっているのか理解が追いつかず棒立ちになる。まさか、エレベーターから下りる階を間違えたのではなかろうか。
そう、きっとそうだ、と踵を返しかけた珠子だが、現実逃避すら許されない。オフィス前の人だかりから、見慣れた小柄な影が飛び出したのだ。
「土蔵さん」
当惑に目を潤ませながら珠子を呼んだのは、同僚である女性社員。珠子は彼女に駆け寄り、状況を問う。
「これ、一体どうしたんですか」
「私もよくわからなくて。でも、隣の会社の人が言うには、多分夜逃げじゃないかって」
「夜逃げ?」
「ほら、借金で首が回らなくなった時とかに、忽然と姿を消しちゃう、あの……」
予想外の事態に直面した衝撃のため脳の動きが緩慢になっているだけで、夜逃げという言葉の意味を問うたわけではなかったのだが、改めて説明されると急に現実感が湧いてくる。
「どうして夜逃げなんて」
確かに、近頃の為替事情の影響もあり経営は順風満帆とは言い難かった。けれど、まさか全てを捨てて逃げなければならないほどの窮地に陥っていたとは知らなかった。
「あの、土蔵さんって社長の婚約者ですよね。こうなること、わかっていたんですか?」
そう、珠子は、自身が勤めるオーガニックフード商社を立ち上げた若き実業家青嶋透矢と婚約をしている。昨年末頃から同棲もしており、六月の入籍に向け、幸せな準備を進めていた。家族になるのだから、会社に何か問題があるならば、珠子にも相談してくれるはず。それなのに。
珠子は空のオフィスにもう一度視線を向ける。
胸の中に、到底処理し切れない密度の感情が押し寄せて、身動きが取れない。珠子の様子から事情を察したらしい同僚は困惑と哀れみと憤りのない交ぜになった顔で珠子への気遣いを見せた。
「土蔵さん、社長と同棲していましたよね。あの、お家は無事なんですか?」
そうだ、家。
海外出張のため、この一週間、透矢は家にもいなかった。つい先ほど、いつも通りの朝を迎えたマンションだが、オフィスがすっからかんのこの状況。胸騒ぎを覚え、珠子は今度こそ踵を返す。
「あ、土蔵さん!」
エレベーターを呼ぶのも煩わしく、ハイヒールを打ち鳴らしながら非常用階段を駆け下りた。
ビルのガラス扉を出るとそこは、都心のオフィス街である。月曜朝の気怠い喧騒が珠子を包む。朝から街を疾駆する女の姿に、道行く人々が怪訝そうな目を向けたが、気に留める余裕もない。
全身が脈打つほど鼓動が激しい。はやる気持ちをどうにか抑え込み、メトロに飛び乗った。いつもの倍は長く乗車した心地になりながら、最寄駅。車両の扉が開くと同時に走り、地上へのエスカレーターを駆け上る。
透矢のマンションは駅から徒歩二分の好立地。エレベーターで三十一階まで昇り、一時間ほど前に締めたばかりの鍵を開いた。そして。
「そうだよね。たった一時間でもぬけの殻になるわけないか」
今朝と変わらない家具の間を進み、詰めていた息を吐く。けれど、安堵したのも束の間のこと。珠子の目はテーブルの上にぽつんと置かれた一枚の置手紙を捉えた。
震える手でそれを持ち上げる。ぶっきらぼうな白い紙片の真ん中に、端的な言葉が記されていた。
『この家は明後日売りに出す。ごめん、さようなら』
手にしていたバッグが床に落ちる音がした。自分の心臓の音だけが聴覚を占領し、視界はまるで洗濯機にでも投げ込まれたかのようにぐるぐる回っている。
これはつまり、透矢は全てを捨ててどこかへ逃げたということか。水が染み込むようにして、じわりじわりと状況を理解する。
珠子は、仕事も婚約者も住む場所すら失ったのだ。
なぜ、どうして、夢ではないの?
ありとあらゆる疑問の言葉が襲いかかってくる。
これからいったいどうすればいいのだろう。やっぱり人なんて信じてはいけないのだと再認識する。だって、実の母ですら珠子を裏切ったのだから。そう、そもそも誰も信じなければ、傷つくこともなかったのに。
「馬鹿だ、私」
珠子は目を閉じ深呼吸をする。
高校卒業と同時に就職して三年間。透矢と過ごした記憶が蘇る。
初めて出会ったのは、就活の面接時。想像よりもずっと若い社長の姿に、淡い憧れを抱いた。
無事に内定をもらい、入社してして半年が経った珠子の誕生日。海外取引先との間で行き違いが生じ、二人で徹夜の処理にあたった夜のこと。
ふとした話題で「今日が誕生日なんです」と漏らしたら、透矢はあらかじめ用意してくれていた真っ白な薔薇をかたどったホールケーキを取り出して、「来年も二人で祝いたい。おかしいな、本当は定時であがって青山のレストランに誘おうと思っていたんだけど」と頭を掻いた。ほんのりと惹かれていた透矢の甘い言葉に胸を掴まれて、珠子は交際を受け入れた。
それから去年、交際二年の記念日に、透矢は百八本の薔薇とダイヤモンドのリングをくれた。ベタで豪華なプロポーズ。幸せを噛み締めながら、珠子は未来の夫の温もりと香りに包まれた。
その晩は、マンションの窓から見下ろした街が、優しく煌めき二人を祝福してくれているようだった。世界の全てが柔らかくて温かい。それこそ母の絶対的な愛情に包まれた赤子のように、末長い幸福を確信した。
それなのに、全ては一瞬にして崩れ去った。いいやそもそも愛情など、少し突けば弾け飛ぶような、泡沫だったのかもしれない。
諦念が胸を満たせば意外なことに、思慕の涙は出なかった。
珠子は透矢のことが好きだった。彼は頼れる社長であり、包容力のある年上の男性であり、結婚してもいいと思ったほど、好ましく思っていた。
けれどその思いは決して、胸焦がすような愛情ではなかったのだ。なぜなら珠子はきっと、彼と出会う前よりずっとに、人に執着する心を失っていたのだから。
社員として、社長に捨てられた。女として、婚約者に捨てられた。もちろん、腹の奥底が煮えたぎるような怒りと、果てのない大海原で一人きり漂流するような絶望を覚えるが、「ああ、そうか」と妙に素直に現実を受け止めることができていた。
他人は信用できない。そんなこと、ずっと前から知っていた。ただ、そのことを改めて実感しただけだ。
「どうにかしなくちゃ」
珠子は自分を奮い立たせるために呟いた。
中学三年生の頃、母が事故で亡くなった。高校卒業までは母方の祖母の世話になったのだが、祖母も昨年、この世を去っていた。つまり珠子にはもう、頼れる親戚がいないのだ。ならば、絶望に浸っている暇はない。自活するための方策を練らねばならない。
珠子はひとまずマンションを出て、賃貸を探すことにした。明々後日入居はさすがに困難だろうが、少しでも早く借りられる借家はないものか。
だが当然、保証人がおらず定職も失った珠子には、まともな貸し手はいなかった。
その日はビジネスホテルに泊まり、数日に渡り不動産会社を梯子してもう十件近く。三日目に入った小さな店で、いよいよ泣きついてみれば、始終億劫そうな顔に丸眼鏡を引っかけた営業マンが、気怠げにファイルを取り出しつつ言った。
「ああ、大きな声では言えないんだけど、条件の融通をきいてくれそうな家が」
「本当ですか」
「ええ。ですが神奈川ですよ。鎌倉の、薄暗い山際、しかも築五十三年。ボロボロですが、いいんです?」
ボロボロでも、屋根があるだけましだ。
透矢のおかげでここしばらくは裕福で都会的な暮らしをしていた珠子だが、元々は慎ましい母子家庭で育った身。歩けば床が軋むようなおんぼろアパートで暮らしたことは何度もある。珠子は大きく頷いた。
「問題ないです。そこ、貸していただけませんか」
背に腹は代えられない。けれどこの選択が、珠子の運命を決定づけることになるなんて、この時は考えもしなかった。




