12 天へと昇る
「四郎、様」
汀の声で、珠子は現実に引き戻された。はっとして辺りを見回せば、鬱蒼とした木々に囲まれたボロアパートがある。どうやら、四郎の生前の世界から戻ってきたようだ。
「四郎様、四郎様」
澄んだ声の方へと目をやって、珠子は「えっ」と声を漏らす。
魂食い鴉の隣に、いかにも幽霊らしい陽炎のような姿をした小袖姿の娘と、同じようにぼやけた輪郭を持つ直垂姿の男が向き合っていた。
娘は汀、男は四郎だろうが、ぼやけすぎて全体的に形が歪んでおり、顔立ちは判然としない。揺らめく顔面の線たちに、珠子はムンクの叫びを想起した。
「汀、すまない、俺のせいで」
「いいえ。もういいの。私、ずっと、騙されたのだと勘違いしていた」
汀が、湿った声音で言う。
「でも違っていた。四郎様は、何も知らなかったのね。あの日化粧坂から敵兵がやって来ることを知っていた兄君の企みにより、私たちは引き裂かれただけだった」
どうやら、汀も珠子と共に、四郎の記憶を見たらしい。
恋人に裏切られた結果、待ち伏せていた武士に襲われたと思っていた汀。彼女は四郎の最期を知り思い違いを理解した。怨嗟は浄化され、怨霊から善良な霊へとなったのだ。
「汀」
「四郎様」
ぼんやりとした幽霊の手を握り合い、じっと見つめ合う二人。約七百年ぶりの感動の再会だ。感涙さえ湧きそうなものなのだが、どうも絵面がシュールである。そしてその微妙な空気を打ち破るのは、諭の淡泊な言葉だ。
「満足したなら、早いところ成仏して、次の世で一緒になればいいよ」
七百年も待ったのだ。一日二日の経過など、汀たちにとってはほんの一瞬のことでしかないだろう。ならばしばらくここで見つめ合っていても不思議ではないがそれは困る。
山際の薄暗いアパートの一角とはいえ、いつ人がやって来るかもしれないのだ。目撃されて騒ぎになる前に成仏してもらわねばならない。いいやそもそも、普通の人間に汀たちの姿を見ることができるのか不明だが。
しっかりと手を取り合ったまま、四郎が生身の人間たちの方を向く。
「感謝いたします、見知らぬお二方。おかげで、愛しい人と再会し、真実を伝え合うことができました」
「もう心残りはないか?」
「あるとすればそれは、汀と添い遂げられなかったこと。なれどあなたが仰るように、この心残りは次の生で果たすべきことでしょう」
ノイズ混じりの映像のように荒れた男の輪郭の中、ぽっかり空いた二つの目がすっと細められた。きっと、晴れ晴れとした笑みが浮かんでいるのだろう。
「それではそろそろ失礼仕る」
四郎は定規で測ったかのように綺麗な角度で頭を下げ、汀の手を取り促した。
「さあ、行こうか汀」
「じゃア、オレが送って行くヨ」
魂食い鴉が言うと、二体の霊は風に吹かれた灯のごとく掻き消える。魂食い鴉の中に戻ったらしい。
諭は鴉の頭を軽く撫で、空を見上げた。
「雲が切れた。いい成仏日和だ」
「カア!」
魂食い鴉は地を蹴り翼を広げる。巻き上げられた空気が珠子のセミロングの髪を揺らした。首を上げ、鳥影を視線で追う。
薄雲に覆われる空。けれど太陽を隠していた雲に切れ間が見える。鴉を照らす日差しが徐々に強くなり、やがて白日が露わになる。その円の周囲には、薄っすら赤みを帯びた日暈がかかり、死した恋人たちの未来を祝福している。
しばらく言葉もなく空を見上げた二人の頬を、潮を含んだ風が撫でた。どちらからともなく我に返り顔を見合わせる。
汀が無事に成仏したのだから、珠子のオカルト体験もこれで終わり。寂しいとは思わないが、終わってみれば非常に濃い数日間だった。
珠子は肩の力を抜いて息を吐いた。
「無事に天に昇ったんだね。よかった」
鴉の姿はすでに空に溶けて消えていた。
「魂食い鴉ってすごいんだね。遺骨から記憶を読み取るの? ああやって成仏させるんだ」
「いいや、そんなことができるはずはない。むしろ、四郎の記憶を再生したのは、あんただろ」
「え?」
諭の意味は、脳内で意味を結ばない。硬直した珠子に、諭は再度言う。
「魂食い鴉には死者の記憶に触れることなんてできない。まあ、呪具として色んな魂を食ううちに、蟲毒の原理で、より強大な力を得たということはあるかもしれないけど」
「はあ、オカルト……じゃなくて」
珠子は身を乗り出して、自分の胸を指差した。
「私は普通の人間!」
狼狽える珠子に、諭は腕を組んで冷静に返す。
「じゃあさっきのは何」
「し、知らない。ほら、魂食い鴉に骨を食べさせていたでしょう。そのせいで何か予想外のことが起きたんだよ」
「骨や髪を食わせるなんて、いつもやっている。怨霊が求めていた四郎の残滓を魂食い鴉の体内で怨霊と混ぜ合わせようとしただけだ。四郎の骨に恨みをぶつけ、何年かして気が済めば汀は成仏していくはずだと思ったから」
それは何だかグロテスクだ。
「でも四郎は悪くなかったでしょ」
珠子の考えを読んだかのように、諭が続ける。
「だけどそれを知ることができたのは土蔵さんの力だ。魂に絡みつく霊といい、あんた、霊能者の末裔か何かなの?」
「違う!」
自分があまりに不気味に思え、声を荒らげたが、そういえば父の家系のことをほとんど知らない。
まさか、本当にまさかの話だが、珠子の父親は霊能者だったのか……いいや、どうかしている。度重なる不思議体験に論理的思考が麻痺しているのだ。
珠子は首を横に振り、あり得ない妄想を振り切った。どちらにしても、おかしな事態に首を突っ込むのはもう終わり。何せ、汀に憑かれる心配がなくなったのだから、大江間やら呪具やらと関わることはもう二度とない。
と思ったのだが、しかし。




