10 除霊の間③
「怨霊。私が?」
虚を衝かれたかのような声音だった。霊といえど、元は人間。穢れを脱ぎ捨ててしまえば、その機微は生身の人間とそう変わらない。
諭は、困惑する汀に向けて容赦なく事実を突きつける。
「そう、怨霊だ。多分今、あんたが死んでからもう七百年近く経ってるよ」
「七百」
「この前、俺のことを四郎って呼んで飛びかかってきただろ。当然俺は四郎じゃない。何か勘違いするきっかけがあったのか?」
開いたままの魂食い鴉の口が、束の間静かになる。やがて、思案する間をおいてから汀は言った。
「四郎様が、知らない女を囲っていると思ったの。ひどいわ。私を捨てたくせに」
「知らない女?」
「あいつよ!」
言葉の切先は、珠子を突く。汀に指があれば、間違いなく珠子に人差し指が向けられたことだろう。
身に覚えがない。人違いではなかろうか。珠子は自分を指差した。
「え、私?」
「そうよ。四郎様のお屋敷にいたじゃない」
「お屋敷」
数秒言葉を咀嚼して、築五十三年のボロアパートが脳裏に浮かび上がった。あれがお屋敷とは、悪いが何とも滑稽だ。
「だから、土蔵さんに憑いたってわけか。それで、後から入居した俺を、四郎と間違えて襲ってきたと」
「そうね、あんたは四郎様とは似ても似つかない。あのお方は誰もが振り返る眉目秀麗な殿方だったもの。どうして勘違いしたんだろう」
絶妙に失礼なことを言い、汀は思案する。やがて思い至ったらしく、ああ、と呟いた。
「あの時、四郎様の香りがしたんだった」
諭がぴくりと身じろぎして、顔を上げる。無愛想な顔面に驚きが過ぎる。やがて頬が微かに緩み、諭は組んでいた腕を解いた。
「そうか、だいたいわかった」
言って、魂食い鴉の正面に膝を突く。彼は、ペリカンのような巨大な口に上下からそっと触れた。
「もう大丈夫、とりあえず今は眠れ。たくさん話して疲れただろ」
「うん、そうね……何だか久しぶりに、暖かいわ」
魂食い鴉が口を閉じ、ごくりと何かを嚥下する。それと同時に、奇妙に肥大化した嘴が収縮し、どこにでもいる鴉の姿になった。
あり得ない現象に、何度か瞬きを繰り返す。けれどいくら考えても、珠子の常識から超常現象の原理を導き出すのは不可能だ。代わりに、先ほどの会話の内容だけでも理解しようと、口を開く。
「あの……さっきの怨霊が言っていたこと、結局どういうことなんだろう」
「汀が死んだのは多分、一三三三年だ。元弘の乱って知ってる? 鎌倉の御家人が裏切って倒幕のために鎌倉を攻めたんだ。この町が戦場になって、多くの人が亡くなった」
「聞いたことはあると思うけど」
高校を出て就職した珠子は、大学受験の勉強をしていない。日本史は苦手ではなかったが、大まかな歴史の流れは理解していても、細かな事件までは記憶にない。
「聞いたことがあるのは当たり前だろ。義務教育で習うし。まあとにかく、汀が四郎と駆け落ちしようとした日が、運悪く鎌倉攻めと重なってしまったんだろうな」
「四郎は本当に汀を殺してしまおうとしたのかな」
「さあ。そうかもしれないし、もしかすると、駆け落ちに気づいた四郎の家の者が、汀を排除しようとしたのかもしれない。……汀が本当に使霊の箱から出て来た霊なのかもいまいちわからないし、厄介だな」
「使霊の箱。そういえば、大江間家は色んな呪具を持っているんでしょう。その中に、今回の事件を解決できそうな力を持っているものはないの?」
「目録を隅々まで調べれば、あるかもしれない。でも、見つけたとしても持ち出しには父の許可がいるんだ」
「許可が出ないの?」
「その呪具を使うべきだという根拠があれば、許可は出るよ。けど今はまだ、状況がはっきりとしていない。仕方ないんだ。大江間は世間に対する責任として、自らが生み出してきた危険な道具の回収を行っている。それなのに、せっかく手元に戻って来た呪具を不用意に持ち出して、誰かに奪われでもしたら本末転倒だろ」
「それはそうだろうけど」
もう少し臨機応変にできないものなのだろうか。腑に落ちない顔をした珠子に、諭は首を傾ける。
「あんたこそ、適応力高すぎないか? 呪具のことを信じたのもそうだけど、霊が怖くないの」
「もちろん、半信半疑だし霊には会いたくないけどけど……実際に汀や魂食い鴉を見ちゃったし。それに、善良そうな霊よりも人間の方が怖いかな」
「ふうん?」
片眉を上げる諭。珠子は、余計な一言を漏らしてしまったと気づき、はっと口をつぐむ。それから声を明るくして話を逸らす。
「とにかく、私に憑いていた怨霊は離れてくれたし、魂食い鴉に清めてもらったたからもう成仏できるんだよね? じゃあ今回の件は一件落着だね」
「いいや、まだだ」
「まだ?」
「魂食い鴉は、穢れを食う。だけどそれだけじゃあ、霊魂自体を清めることにはならない。いくら膿をとっても根本的な原因を解消しないことには、怪我は治らないだろ。同じことだ」
「そっか、大変だなんだね」
「あんた他人事みたいに言ってるけどさ、当事者だからね」
「え!?」
予期せぬ言葉に、素っ頓狂な声が出た。使霊の箱が云々というのは大江間家の問題であり、珠子の関与するところではない。
そんな思考を表情から読み取ったのか、諭は嘆息した。
「魂食い鴉の食欲だって無限じゃない。食い切れなくなった穢れが増幅すれば、いずれ汀は自由になる。そうしたらまたあんたに取り憑くかもよ。何かあのアパートに執着していたみたいだし」
恐怖の記憶が蘇り、珠子の顔面から血の気が引いた。
入居初日の夕刻、突然の雷雨の中、窓に映った焼けただれた女――汀の凄絶な顔。先ほど言葉を交わし、汀という怨霊への恐ろしさは大きく減少したが、取り憑かれてまた隣家に忍び込みでもしたら、社会的に人生が終わる。
珠子はもごもごと口を動かして、『当事者』から逃れる方法はないものかと言葉を探したが、結局何も思いつかず諦めた。
「それにさ、さっきも言ったけどあんた、とっくに別の霊に憑かれているんだ。それも、魂に絡みつくレベルで」
母と思しき女性の霊のことを言っているのだろう。母が珠子の元に留まっているなど、にわかには信じがたい。頬を強張らせる珠子の心を無理やり開かせることはなく、諭は淡々と事実を告げる。
「事情は知らないけど、二体の霊に憑かれたということはあんた、霊との共感性が高いんだろう。遺伝的なものなのか後天的なものなのかは知らないけど。とにかく、このままにしておいたらまた汀に取り憑かれる可能性は高いよ」
「つまり、自分のためにも汀を成仏させないといけないということ」
「ああ」
諭は腕を組み、さっそく今後の策を練り始める。
「汀はさっき、四郎の香りがしたから人違いで俺に襲い掛かったんだって言ったよな。でも今の俺からはその匂いがしないらしい。ということはあのアパート自体に何かあるんだろう。あんた、あそこに住んでいて何か気づいたことは?」
「何も。だって引っ越してきたばかりだもの」
「へえ? なら、逆に手がかりが見つけやすい。引っ越してから憑かれるまでの間に起こったことを全部思い出してくれ」
「えっと」
珠子は素直に記憶を反芻する。
「大家の清水さんから鍵を受け取って、部屋に入って、それから……そうそう、花壇をいじってたら急に雨が降ってきて、部屋に戻ったの。それで、寝袋の中で母の遺品のオルゴールを開いたかな。それから窓の外を覗いたら、怨霊がいて」
ガラスに映った姿を思い出すだけでぞくりと背筋が凍る。魂食い鴉の口を借りて発せられた汀の言葉は、普通の女性のものだったのに。
「花壇に寝袋って……あんた何やってんの。いや、でも待てよ。雨が降り始めたのは花壇にいた時なんだな」
「うん。清水さんが、アパートの周りにお花でも植えてくれたら、家賃を負けてくれるって言ってたから」
「よし」
諭が不意に手を叩いた。
「それだ。とりあえずその花壇に行くぞ」
「へ?」
「いいから、すぐに向かおう」
「あ、ちょっと待って!」
珠子は目を白黒させながら、階段を駆け上がる諭の背を追った。




