9 除霊の間②
「おい怨霊、誰だ、シロウっていうのは」
あまりにも直截な諭の問いかけに、珠子は肝を冷やす。案の定、苛立ちを帯びたような風が、ひゅんと鋭く舞う。次の瞬間、珠子の胸の奥で、見えない塊が強く蠢き肋骨を軋ませた。
予期せぬ苦痛に声を上げ、五芒星の中央に蹲る。涙が滲んだ視界に、白砂が仄かな燐光を放ち浮かび上がっていた。
「怨霊よ出て来い。恐ろしくはない。おまえが成仏するのを手助けしてやる」
――ジョウ、ブツ。
「そうだ。怨霊となり現世を彷徨うのはもう疲れただろ。魂食い鴉がおまえの穢れを食い清め、身軽にして天へと上らせてくれる」
――ジョウブツ、テンヘ……。
どくん、と珠子の心臓が大きく跳ねた。続いて、理由もわからない黒く濁った感情が身体の中心から湧き上がり、全身を占領する。
「成仏、成仏……嫌だ」
珠子の喉から、引きつれた声が出る。もはやこの身体は、珠子の支配下にはない。
身体を乗っ取った別の人格が、珠子の膝を伸ばして立ち上がる。それから、心許ない足取りで五芒星の内側の縁へと歩く。足首に重しをつけられているかのように重たい。どうやら白線より外側には出られないらしい。
「嫌だ、四郎様と会うまでは、私は」
「そうか、じゃあ四郎様ってやつを探してやる。だから一度、その人から離れろ」
「ほん、とう?」
諭が頷く。珠子の顔に、恍惚じみた笑みが浮かぶ。
「ああ、四郎様」
内臓が、重力から解放されたかのような浮遊感に襲われた。身体から、何かが飛び出そうとしている。そう感じた直後。
脳内に、可愛らしい音楽が流れた。母のオルゴールだ。なぜ、と疑問を抱いた珠子だが、次の瞬間、鋭い羽ばたきに襲われて思考が中断される。
反射的に目を閉じる間際、鴉の嘴が異常に肥大して、まるで人歯が並んだペリカンの口のように醜怪な形状となり、珠子の頭上すれすれの空気を呑み込んだのを見た。
ふと全身が軽くなり、その反動で糸が切れたかのように膝が折れ、その場に崩れ落ちる。
鼓動の異常も浮遊感も、まるで全てがまやかしだったかのように消え去った。珠子は詰めていた息を吐き、それから喘ぐように吸い込んで、荒い呼吸を繰り返す。
「大丈夫か」
さらりと問われ、少し恨めしい気分になる。いくらか呼吸が落ち着いてから、珠子はじっとりとした目で睨んだ。
「こんなに苦しいなら、先に教えてくれてもよかったのに」
「普通は肉体にはさほど負荷がかからないはずなんだけど」
「普通は?」
眉根を寄せた珠子に、諭は束の間言葉を選ぶような仕草をしてから、突拍子のない質問をした。
「あんた、母親か叔母か年の離れた姉か、とにかく、親しかった女性に憑かれるようなことしたか?」
「は?」
突然の言葉に理解が追いつかず、間の抜けた声の後が続かない。諭はさすがに気が引けるのか、頭を掻いて床に視線を揺らしてから、再び言った。
「憑かれてるんだ。顔が似ているから多分血縁だと思うんだけど、あんたの魂に、霊が絡みついて融合している。だから、さっきの怨霊を引き離そうとしたとき、あんたの魂と一体化している霊まで引っ張られて、あんた自身の魂が肉体から取り出されそうになった。だから苦しかったんだろう」
再び、どこか遠くで、母のオルゴールが鳴ったような気がした。血縁の霊。親戚の少ない珠子に心当たりがあるとすれば、母か祖母。けれど、成仏もせず霊としてこの世に留まっているのならば。
珠子はごくりと唾を呑む。それから、掠れた声で答えた。
「多分、母だと思う。私が中学三年生の頃、事故で亡くなったの」
諭が片眉を上げる。哀れみを帯びた表情を、珠子は意外に思った。
「そうか、じゃあ娘を一人遺して現世を去ることに未練があったんだろうな」
「そんなわけない!」
珠子は反射的に切り返す。思いのほか強く出た語気に、自分の声ながら怯みかけたが、飛び出した言葉は止まらない。
母が珠子に対して未練を抱いているなんて、あり得ないのだ。
「だってあの人は私を捨」
「どうして捨てたの」
珠子の言葉に被せるように、知らない女性の声がした。気勢を削がれて声の出どころに目を遣れば、大きな口を重たげにかぱりと開いた魂食い鴉がいた。
「どうして。一緒に鎌倉を出ようって約束したのに」
絶句する珠子から視線を切り、諭は動揺の欠片もなく、床に立つ鴉に目を落とす。
「怨霊か。魂食い鴉に清められて自我を取り戻したようだな。で、あんた、名と生年は。ことと次第によっては、探し物に協力してやるよ」
「私は汀。生年なんて知らない。ただの百姓生まれの下女だもの」
「じゃあ汀。さっき言っていた『捨てた』っていうのはいったい何のこと」
「四郎様よ! 武士の子で、私たちは相思相愛だった。当然、私みたいな磯臭い娘じゃあ正妻になんてなれないけど、それでもよかった。なのにあの人は突然、武家の姫を妻に迎えることになって、邪魔になった私を殺そうとしたのよ」
汀の言葉を脳内で組み立てて推測するに、彼女は己の生年も定かではないことが珍しくない時代の霊らしい。武士の息子と相思相愛、ということはもしかすると、この鎌倉に幕府があった時代に生きていた人物なのだろうか。
「殺そうとって、物騒な」
「でも本当なの。身分の高い妻を娶ったのに私みたいな下女が近くにいたら、四郎様のお家に迷惑がかかってしまうでしょう? だから私たち、約束したの。二人きり、全てを捨てて鎌倉を出ようって。それなのに、あの人は裏切ったの。私のことが邪魔だったから!」
魂食い鴉と汀の感情は連結していないらしい。当然、汀が語り始めてからも微動だにしない鴉のつぶらな瞳には、慟哭は宿っていない。けれど、異形の口から飛び出す声は悲痛。その差が何やら不気味である。
「汀、裏切ったってどういうことだ」
「待ち合わせの約束をした切通しに、あの人は来なかったのよ! 代わりにいたのは武士。私をあそこで殺そうとしたんだわ」
「たまたまそこにいただけじゃないの?」
「あり得ない。だって東の空が色づくよりも前の時刻のことなのよ。四郎様は私のことがいらなくなって、面倒だから消してしまおうとしたの。間違いないわ」
珠子は思わず拳を握った。恋人に裏切られる衝撃は、身をもって理解している。やはり他人など、信じてはいけないのだ。
心中で暗い憤りを渦巻かせている珠子の横で、諭は何やら思案げに顎を撫でていたが、汀の言葉を追及することなく話を進める。
「それで、その後何があった」
「運よく逃げ切れたわ。切通しは狭いから、武装した男よりも私の方が走りやすかったんだと思う」
切通しとは文字通り、山を切りひらいて通した険阻な道のことである。古都鎌倉を敵軍の侵入から守るため作られた。狭く急峻なため、人馬が隊をなして雪崩れ込むことは不可能で、いわば天然の要塞である。
鎌倉には七つの切通しがあり、出入りのためには基本的に、いずれかの切通しを通る必要がある。つまり汀と四郎は、俗に言う駆け落ちのために町の出口で落ち合おうとしていたわけだ。
「じゃあ逃げ切ったんだろ。どうして怨霊になったんだ」
無遠慮に切り込む諭にひやひやする珠子だが、汀は話を聞いてもらえるのがまんざらでもないらしく、反発もなく語り続ける。
「逃げ切ったとはいえ、背中に何本も矢が刺さっていたわ。それにね、ボロボロになって町に戻ったら、全部焼けていたの」
「焼ける」
「思い出すのも恐ろしい。夜中に家を忍び出た時には綺麗に並んでいた建物が、昼前にはもうぐちゃぐちゃになっていて、鼻が曲がりそうな臭気がぷんぷんして。耳が割れるような嫌な音が響き渡っていた。悲鳴と、刀が肉を断つ音と、それと」
「当時の状況はわかった」
悲惨な死に際を回顧し始めた汀の言葉を遮り、諭は会話を主導する。
「で、あんたはその四郎に焦がれ恨みを抱き、怨霊になったんだな」




