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婚約破棄は正しい判断だった

掲載日:2026/02/08

婚約破棄は、正しい判断だ。

少なくとも、私はそう信じている。


セリーヌ・ド・ヴァレールは優秀だった。

礼儀作法も、外交知識も、王太子妃教育も完璧に修めていた。


だが――彼女は新興貴族だった。


王家の婚姻は、個人の幸福のためにあるのではない。

貴族社会の均衡を保つためのものだ。


私は、それを選んだだけだ。

正しい選択を。

感情ではなく、理屈で。



応接室には、午後の光が静かに差し込んでいた。


私は椅子に腰掛けたまま、指先を組む。

こういう場面で感情を出すのは、愚かだ。

私は王太子で、これは政治判断だ。


向かいに座るセリーヌ・ド・ヴァレールは、背筋を伸ばし、いつも通り静かだった。


「セリーヌ」


名を呼ぶと、彼女は穏やかに視線を上げる。


「はい、殿下」


「婚約を解消したい」


彼女は目を瞬かせた。

すぐには答えない。

視線をわずかに伏せ、

それからゆっくり顔を上げた。


「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「王家の婚姻は、個人の問題ではない。

均衡と血統の安定が必要だ」


彼女は黙って聞いている。

――理解している顔だ。そう思いたい。


「ヴァレール家が新興貴族であることは承知している。

だが、今の情勢では――王家は、より強い血統的結びつきを必要としている」


言葉を選んで続ける。


「君が悪いわけではない。

むしろ君は理想的な婚約者だった」


反発させたくはない。揉めれば傷が広がるだけだ。


「君ほど賢ければ分かるだろう?

これは個人の問題ではないんだ」


彼女は何も言わない。


「理解してくれるな?」


沈黙が、長く感じられる。

彼女はゆっくり頷いた。


「承知いたしました」


私は小さく息を吐いた。

――よかった。これで終わる。


「そうか。君なら分かってくれると信じていた」


セリーヌは一度だけ視線を落とし、そして言った。


「一点、お願いがございます」


「……何だ」


「ヴァレール家の名誉を保つため、

相応の縁談をご用意いただけますでしょうか」


「縁談だと……?」


「王太子妃候補として教育を受けた娘が、

婚約解消後に宙に浮くことは、

家にとって大きな損失となります」


彼女は真っ直ぐこちらを見る。


「家格に見合う婚姻を賜れれば、

本件は円満に収まるかと存じます」


私はしばらく言葉を失った。

――婚約解消を告げた直後に、縁談の条件を求めるのか。


だが、家を守るための判断としては当然か。


「……分かった。王家として配慮しよう」


「ありがとうございます」


セリーヌは深く一礼する。

その所作は、いつも通り完璧だった。


そして静かに立ち上がり、部屋を去っていった。



王の執務室で、その話を聞かされたのは数カ月後だった。


「ヴァレール家には、国外縁談が決まった」


父王は書類から目を上げずに言った。


「……国外、ですか」


「賠償だ。王家の婚約破棄は軽くない。

王家との婚姻を解消した以上、同等以上の縁を用意するのが筋だ」


確かに政治として筋が通っている。

筋が通っているからこそ、口を挟みにくい。


「ですが……そこまでの配慮が必要でしょうか」


父王はゆっくり顔を上げる。


「必要だ」


それ以上、言葉は続かなかった。


私は黙って頷くしかなかった。

――父王が決めたのなら、それが王家の結論だ。



新しい婚約者――レオノールは、その話を聞いても眉一つ動かさなかった。

彼女は旧貴族の令嬢で、礼儀作法も教育も申し分ない。

私の婚約者として、相応しい存在だ。


「賢明なご判断ですわ」


紅茶を置き、穏やかに言う。


「国外の有力家門と縁を結べば、王家の面目も保たれますもの」


「そうだな」


「セリーヌ様ほどの方なら、どこへ行かれても困らないでしょう」


その言葉に、胸の奥の緊張がふっとほどけた。


セリーヌと違って彼女には、説明する必要も、理解を求める必要もない。


それが、こんなにも楽だとは思わなかった。


「君こそ、私に相応しい」


私は手を伸ばし、レオノールの頬に触れる。

彼女は自然に微笑み、その手を受け入れた。



レオノールとの婚姻は、滞りなく進んだ。


「おめでとうございます、殿下」

「王家にふさわしいご婚姻ですな」


旧貴族たちは満足げに頷いていた。


旧来の名門貴族たちは歓迎し、宮廷の空気は穏やかだった。

王太子の婚姻として、誰もが納得する形だった。


これでよかったのだ。

王太子として、正しい婚姻を選んだのだから。


結婚後しばらくして、宮廷の人事が少しずつ変わり始めた。


古くから王家に仕える家門が要職に就き、

儀礼や行事の準備は、旧貴族の手で進められるようになる。


「伝統を守ることは大切ですわ」


レオノールは静かに言う。


「王家の婚姻を支えてくださる方々を、

大切にするのは当然のことですもの」


「……ああ、その通りだ」


旧貴族は王家の支柱だ。

彼らの支持なくして、王権は安定しない。


だが、新興貴族の動きが鈍くなった。


謁見での発言が減り、会議の出席が遅れ、

書類の決裁が滞る。


反発というほどではないが、確かに距離が生まれていた。

距離が生まれたところで、制度は揺らがない――そう言い切れない自分がいた。


「レオノール、最近人事が偏っていないか」


ある夜、私は尋ねた。


彼女はベッドに腰掛け、私に寄り添う。

香の匂いが近い。言葉より先に、体温が答えを寄せてくる。


「殿下のご婚姻を支えてくださったのは、

どちらの方々でしたか?」


「……旧貴族だな」


「ええ。

王家の安定には、まず確かな基盤が必要ですわ」


そう言って、彼女は私の首に腕を回し、

顔を近づけた。


正論だった。

だからこそ、反論できない。


父王は、この件に口を出さなかった。


「王太子の政務に口は出さぬ」


ただ、それだけを言った。


政務は問題なく進んでいる。

制度は保たれ、

王家の権威も揺らいでいない。


何も間違っていない。


それでも――


どこか噛み合わない感覚だけが残った。



その違和感の正体に気づいたのは、

他国の使節団を迎える夜会が開かれた時だった。


外交儀礼としては形式的なものだ。

挨拶を交わし、関係の安定を確認する。

本来は、それだけの場のはずだった。


大広間に入った瞬間、私は足を止めた。


そこにいたのは、セリーヌだった。


異国の装いをまとい、夫と思われる男の隣で、

人々の輪の中心に立っている。


――外交使節団の一員として。


「それで、その新航路は本当に実現するのですか?」


「ええ。商会と共同で進めておりますの」


「まあ、素敵!」


貴族と商人が入り混じり、

軽やかな調子で話が続いていた。


香辛料、造船、融資、港湾整備。

次々と具体的な話が出る。


話が前に進んでいる。

宮廷では、もう久しく見ていない光景だった。


セリーヌは必要な言葉だけを挟み、

会話を動かしていた。


――変わっていない。


かつて宮廷で何度も見た姿だ。

私の隣で、私の代わりに整えていた姿。


ただ一つ違うのは、

あの輪の中に私がいないことだった。


「殿下?」


レオノールの声に、我に返る。


「……ああ」


「紹介しますわ。

王家に古くから仕える名門の方々ですの」


レオノールが穏やかに言う。


名門貴族たちが順に名乗る。

家門の歴史、忠誠の話、婚姻の縁――


どれも王家にとって重要な話だ。

重要で、正しくて、非の打ち所がない。


だが――


この夜会は、外交のためのはずなのに、

話は広がらず、何も動かない。


私は、もう一度向こうを見る。


セリーヌが夫の腕に手を添えて微笑んでいる。

見たことのない、笑みだった。


――これは、何のための外交だ?


形式を守るためか。

関係を維持するためか。

それとも――


分からない。


ただ、二つの国の違いだけは、はっきりと見えた気がした。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。 王太子は自分のプライドで自分の未来を閉じたんだな。 前の婚約を決めたのが王様なら、父親に泥を塗った形になったのだろうし見限られたんだろうな……。自分の治世の間は保たせるだろうけど、先…
自分が何を己の芯としているのか、で器の大きさがよくわかりますね。王太子教育も、もしかして歪められているのがわからない手合いの方なのかもしれません。自分の手に在ったものの大切さは、失ってみないとわからな…
王家の婚約・婚姻は政治だから。私情を交えないのは正しい。正しいけれど、王太子の判断には絶対、私情が入ってるよねっていう。 彼にとってセリーヌが象徴する新興貴族一派はあくまでも下に見て良い存在で、彼自身…
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