婚約破棄は正しい判断だった
婚約破棄は、正しい判断だ。
少なくとも、私はそう信じている。
セリーヌ・ド・ヴァレールは優秀だった。
礼儀作法も、外交知識も、王太子妃教育も完璧に修めていた。
だが――彼女は新興貴族だった。
王家の婚姻は、個人の幸福のためにあるのではない。
貴族社会の均衡を保つためのものだ。
私は、それを選んだだけだ。
正しい選択を。
感情ではなく、理屈で。
◆
応接室には、午後の光が静かに差し込んでいた。
私は椅子に腰掛けたまま、指先を組む。
こういう場面で感情を出すのは、愚かだ。
私は王太子で、これは政治判断だ。
向かいに座るセリーヌ・ド・ヴァレールは、背筋を伸ばし、いつも通り静かだった。
「セリーヌ」
名を呼ぶと、彼女は穏やかに視線を上げる。
「はい、殿下」
「婚約を解消したい」
彼女は目を瞬かせた。
すぐには答えない。
視線をわずかに伏せ、
それからゆっくり顔を上げた。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「王家の婚姻は、個人の問題ではない。
均衡と血統の安定が必要だ」
彼女は黙って聞いている。
――理解している顔だ。そう思いたい。
「ヴァレール家が新興貴族であることは承知している。
だが、今の情勢では――王家は、より強い血統的結びつきを必要としている」
言葉を選んで続ける。
「君が悪いわけではない。
むしろ君は理想的な婚約者だった」
反発させたくはない。揉めれば傷が広がるだけだ。
「君ほど賢ければ分かるだろう?
これは個人の問題ではないんだ」
彼女は何も言わない。
「理解してくれるな?」
沈黙が、長く感じられる。
彼女はゆっくり頷いた。
「承知いたしました」
私は小さく息を吐いた。
――よかった。これで終わる。
「そうか。君なら分かってくれると信じていた」
セリーヌは一度だけ視線を落とし、そして言った。
「一点、お願いがございます」
「……何だ」
「ヴァレール家の名誉を保つため、
相応の縁談をご用意いただけますでしょうか」
「縁談だと……?」
「王太子妃候補として教育を受けた娘が、
婚約解消後に宙に浮くことは、
家にとって大きな損失となります」
彼女は真っ直ぐこちらを見る。
「家格に見合う婚姻を賜れれば、
本件は円満に収まるかと存じます」
私はしばらく言葉を失った。
――婚約解消を告げた直後に、縁談の条件を求めるのか。
だが、家を守るための判断としては当然か。
「……分かった。王家として配慮しよう」
「ありがとうございます」
セリーヌは深く一礼する。
その所作は、いつも通り完璧だった。
そして静かに立ち上がり、部屋を去っていった。
◆
王の執務室で、その話を聞かされたのは数カ月後だった。
「ヴァレール家には、国外縁談が決まった」
父王は書類から目を上げずに言った。
「……国外、ですか」
「賠償だ。王家の婚約破棄は軽くない。
王家との婚姻を解消した以上、同等以上の縁を用意するのが筋だ」
確かに政治として筋が通っている。
筋が通っているからこそ、口を挟みにくい。
「ですが……そこまでの配慮が必要でしょうか」
父王はゆっくり顔を上げる。
「必要だ」
それ以上、言葉は続かなかった。
私は黙って頷くしかなかった。
――父王が決めたのなら、それが王家の結論だ。
◆
新しい婚約者――レオノールは、その話を聞いても眉一つ動かさなかった。
彼女は旧貴族の令嬢で、礼儀作法も教育も申し分ない。
私の婚約者として、相応しい存在だ。
「賢明なご判断ですわ」
紅茶を置き、穏やかに言う。
「国外の有力家門と縁を結べば、王家の面目も保たれますもの」
「そうだな」
「セリーヌ様ほどの方なら、どこへ行かれても困らないでしょう」
その言葉に、胸の奥の緊張がふっとほどけた。
セリーヌと違って彼女には、説明する必要も、理解を求める必要もない。
それが、こんなにも楽だとは思わなかった。
「君こそ、私に相応しい」
私は手を伸ばし、レオノールの頬に触れる。
彼女は自然に微笑み、その手を受け入れた。
◆
レオノールとの婚姻は、滞りなく進んだ。
「おめでとうございます、殿下」
「王家にふさわしいご婚姻ですな」
旧貴族たちは満足げに頷いていた。
旧来の名門貴族たちは歓迎し、宮廷の空気は穏やかだった。
王太子の婚姻として、誰もが納得する形だった。
これでよかったのだ。
王太子として、正しい婚姻を選んだのだから。
結婚後しばらくして、宮廷の人事が少しずつ変わり始めた。
古くから王家に仕える家門が要職に就き、
儀礼や行事の準備は、旧貴族の手で進められるようになる。
「伝統を守ることは大切ですわ」
レオノールは静かに言う。
「王家の婚姻を支えてくださる方々を、
大切にするのは当然のことですもの」
「……ああ、その通りだ」
旧貴族は王家の支柱だ。
彼らの支持なくして、王権は安定しない。
だが、新興貴族の動きが鈍くなった。
謁見での発言が減り、会議の出席が遅れ、
書類の決裁が滞る。
反発というほどではないが、確かに距離が生まれていた。
距離が生まれたところで、制度は揺らがない――そう言い切れない自分がいた。
「レオノール、最近人事が偏っていないか」
ある夜、私は尋ねた。
彼女はベッドに腰掛け、私に寄り添う。
香の匂いが近い。言葉より先に、体温が答えを寄せてくる。
「殿下のご婚姻を支えてくださったのは、
どちらの方々でしたか?」
「……旧貴族だな」
「ええ。
王家の安定には、まず確かな基盤が必要ですわ」
そう言って、彼女は私の首に腕を回し、
顔を近づけた。
正論だった。
だからこそ、反論できない。
父王は、この件に口を出さなかった。
「王太子の政務に口は出さぬ」
ただ、それだけを言った。
政務は問題なく進んでいる。
制度は保たれ、
王家の権威も揺らいでいない。
何も間違っていない。
それでも――
どこか噛み合わない感覚だけが残った。
◆
その違和感の正体に気づいたのは、
他国の使節団を迎える夜会が開かれた時だった。
外交儀礼としては形式的なものだ。
挨拶を交わし、関係の安定を確認する。
本来は、それだけの場のはずだった。
大広間に入った瞬間、私は足を止めた。
そこにいたのは、セリーヌだった。
異国の装いをまとい、夫と思われる男の隣で、
人々の輪の中心に立っている。
――外交使節団の一員として。
「それで、その新航路は本当に実現するのですか?」
「ええ。商会と共同で進めておりますの」
「まあ、素敵!」
貴族と商人が入り混じり、
軽やかな調子で話が続いていた。
香辛料、造船、融資、港湾整備。
次々と具体的な話が出る。
話が前に進んでいる。
宮廷では、もう久しく見ていない光景だった。
セリーヌは必要な言葉だけを挟み、
会話を動かしていた。
――変わっていない。
かつて宮廷で何度も見た姿だ。
私の隣で、私の代わりに整えていた姿。
ただ一つ違うのは、
あの輪の中に私がいないことだった。
「殿下?」
レオノールの声に、我に返る。
「……ああ」
「紹介しますわ。
王家に古くから仕える名門の方々ですの」
レオノールが穏やかに言う。
名門貴族たちが順に名乗る。
家門の歴史、忠誠の話、婚姻の縁――
どれも王家にとって重要な話だ。
重要で、正しくて、非の打ち所がない。
だが――
この夜会は、外交のためのはずなのに、
話は広がらず、何も動かない。
私は、もう一度向こうを見る。
セリーヌが夫の腕に手を添えて微笑んでいる。
見たことのない、笑みだった。
――これは、何のための外交だ?
形式を守るためか。
関係を維持するためか。
それとも――
分からない。
ただ、二つの国の違いだけは、はっきりと見えた気がした。
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