閑話 九尾の恋の自覚
瀬川稲荷の奥には、限られた人しか近づくことが許されていない滝壺がある。
その先の祠に封印された九尾の狐は、百年に一度、決まった血筋から生贄として嫁を娶るという。
◇◇◇
【十三年前 鈴 7歳】
瀬川稲荷へ来た伊織が最初に聞いたのは、風や水の音ではなかった。
稲荷の奥の祠の中でその時を待ち、尾を折り畳んだ九尾の耳に、微かな震えがふれる。夜更けの鳥の声にも似たその揺れは、すぐに人の泣き声であると気づいた。
眠りと覚醒の狭間で、現世に呼び戻されたばかりの伊織は、ぴくりと耳を動かした。永遠に朽ちることのない幽世とは、訳が違う。しばらく眠りについていた体はひどく重く、簡単に動く気配はない。世界中の音から隔離された洞穴から、ただ耳を澄ませて、人々の観察を始めた。
――きゅうびさま。どうか、すずのかぞくのみんなを……おまもりください
――すずがぜんぶ、たすけられますように……
高くて、か細い小さな声が、毎日決まった時間に伊織を呼びつける。それがまだ幼い子供で――次の贄の声だと理解するのに、そう時間はかからなかった。
どう考えたって、おかしい。それが、鈴に抱いた最初の感想だった。
"贄"に選ばれる子は誰しも恐怖に乗っ取られ、自分を守るよう祈る。自分を追い詰めている家族を守ってほしいなどと願う子は、初めてだった。
(どうしてお前は、自分ではなく他者を願える)
幽世から離れたばかりの伊織には聞こえるもの全てが興味深く、つい関心が向いてしまう。鈴はその対象の中でも、うってつけの"観察対象"だった。
強い興味を持った伊織は、鈴の声が聞こえる度にゆっくりと尾を揺らした。苦しみから逃げたいのではなく――鈴は「誰かのために」ここへ来ている。そんな贄の話は、未だかつて聞いたことがなかった。
ある日、少女の足音に混じって、砂利を踏む音が近づいた。すぐに立ち止まった足跡の後、少年の低い声が混じる。そこに、優しさや気遣いの色はない。
「……鈴。こんなところで何をしている」
「れい……ちゃん……」
伊織は眠る姿勢を変えぬまま瞼をゆっくりと開き、幼子達の戯れを余さず聞こうと耳を澄ませた。
「戻ろう。ここにいることが当主さまに知られたら……」
「でも、すず……きゅうびさまにおねがい、したかったの……」
「仕方ない子だね。それでも、羽織くらいは着ていきなさい」
落ち着いた、言い聞かせるような声。ただ、その奥に優しさは微塵もない。
(我らとの縁を断ち切らぬ限り、本宮家に男は生まれない――となればあれは従兄弟か甥といったところか)
青年が己の羽織を鈴の肩にかける。その音は手荒く、あくまでも監視だといわんばかりに、冷酷に濁っていた。
(娘をこのままあの家に置けば確実に潰される……この男もまた、厄介なことこの上ない)
あくまでも贄を受け取る立場であることを、伊織は弁えているつもりであった。鈴を喰らうことは、この先の百年、本宮に力を貸すための――いわば担保のようなもの。彼らには「代償を払っている」という自覚を持たせる必要がある。
(贄は、あくまでも贄。本宮の差し出すべき器。それ以上でも、以下でもない)
強く昂った興味を押さえ込もうと、伊織が考えはじめた矢先だった。祠の前にしゃがみ込んだ鈴は呟く。
――れいちゃんは、「すずががらくたでも使える」って言ってくれてたのに……
――すずは、れいちゃんに会えなくなるのが……こわいの
子供の口からは聞くことのないがらくたという言葉に、伊織の耳がぴんと立つ。人に使う言葉でないことくらいは、人との交流の乏しい伊織にだってわかる。
己が"使われるもの"であることを自覚し、その上家族を守ってほしいと願う。己の存命を求めず、ただ交流のあるものとの離縁を怖がる。そんな鈴の姿が、伊織には大層不思議に思える。
(本来なら……お前が、一番守られるべきだろうに)
同情か、哀れみか。その瞬間、伊織は、自分が“贄”を喰らう側の存在であるという大前提を一瞬、忘れていた。祠の奥で絡まり合った九つの尾を、ゆっくりと解く。
(……守る者、か。もしこの娘を守る者が必要なら。それは――俺であってもいいはず)
その決意はまだ名もない感情だった。けれど、“恋”と呼ばれるものへ形を変える最初の感情の芽吹きだった。
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