7話 たったひとつの逃げ道
泣き疲れた藤夜を布団へ運び、寝息が静かになったのを確かめてから、鈴はそっと寝室を出た。まだ、胸のざわめきは収まらない。それでも最低限だけは片付けておこうと、店へ戻る。
彼の座っていた席には、二つの空のどんぶりが並んでいた。底には、汁一滴も残っていない。箸はまっすぐ揃えられ、どちらも静かに膳の上に置かれていた。
「……食べて、くれたの……?」
呟いた声は、自分でも驚くほどに細い。十年前、伊織は鈴の料理を食べてはいない。祝言の翌朝に逃げ出してしまったから。けれど、もうあの頃から彼はこの香りを鈴のものだと認識していたのだとしたら。
(恋しかったのは私だけじゃない……? ううん、まさかね)
期待をしてはいけないと分かっていても、彼が食べてくれたことがこんなにも嬉しい。
「――もう来ないでって、言ったのに」
己の醜さが、ひどく悲しい。鈴は溢れる雫を手の甲で拭って、空のどんぶりへと手を伸ばした。手は洗い物の水と油でふやけるのに、伊織の強烈な視線だけは火傷の跡のように、ずっと頬を熱くしている。
(どうして、今更……)
十年という期間はあまりにも長く、あまりにも過酷だった。本宮にも、伊織の元へも帰れない。未亡人だという嘘は、そんな孤立無縁の状態を隠すための小さな武器だった。
藤夜は長い一日を終え、すやすやと寝息を立てている。
横目に片付けを終えて、朝と同じように仏壇に手を合わせた。未亡人だと、嘘をついたこと。誰にも悟られていないとは思っていない。それでも――その嘘だけが、鈴の心をどうにか支えていた。
(茂吉さん、おサトさん。今日も、一日無事終えられたよ)
我が子だけは、自分が守らなくてはいけない。ほんの少し涙の後の残る寝顔を覗き込むと、長いまつ毛が静かに揺れた。恐怖を強く感じたせいか、今晩は白い耳が出たままの頭。時々ピクピクと揺れるその耳は、確かに伊織を思い出させる。
(思い出すどころか、毎日見ているんだもの。嫌いになんてなれない)
「でも、心配ないわ。私は――未亡人だから」
ぽつりと呟いた言葉が、暗い部屋に沈む。自分に嘘をついていることは、分かっている。あの明くる朝の光景から、鈴はずっと目を背け続けてきた。それでも今は、九尾の嫁でも、本宮の娘でもなく――ただの定食屋を営む未亡人でなくてはならない。
それが、鈴と藤夜のたったひとつの逃げ道なのだから。
◇ ◇ ◇
「どうして無理矢理に連れてこなかったのですか?」
末広亭がわずかに見える橋の上で、伊織は眷属の白狐に問いただされていた。
「どうしてとは」
「どう見たって、お嫁様はまだ……お館様に惚れてらっしゃいますのに」
「わからぬふりをするおつもりで?」と近づく狐の額を、伊織はぴしゃりとはねつけた。
「『未亡人だ』と言って聞かないからな。無理をさせるつもりはない」
「あら。ではやはり、いつの間にか私のご主人様は消え失せたことになっておりますのね」
喉を鳴らして笑った白狐は、軽やかに手すりへ飛び乗り、伊織の肩へ襟巻きのように滑り入る。
「お嫁様がお帰りになるまでは、妾も存分にお慰めいたしますわ」
「芙蓉。あまり冗談ばかり言っていると本当に襟巻きにするぞ」
「おお怖い」と笑った狐は黙りこくって、主人と共に末広亭を見つめる。闇の中、ほのかに揺らいでいた末広亭から漏れた光が、小さく瞬き、消えた。その奥で鈴と藤夜が寄り添って眠ったことを、伊織は感じ取った。
金の瞳が細められる。そこには怒りと同じくらい強い執着と、惜しみない愛情の色が宿っている。
「……手放してやるものか」
夜風が川沿いの柳を揺らす。離れろと合図を送っても、芙蓉の返事はない。静かな衣擦れの音だけを残して、九尾の姿は橋の上からふっと消えた。




